三月十八日のアンコール

 青の遠景。滑る様に飛び回る、カモメたちの鳴き声がした。


 穏やかな日差しを受けた白波はさんざめく。その様を見下ろして、羽ばたく鳥たちは一体なにを思っているのだろうか。白の双翼が悠々と滑空するさまをぼんやりと見つめながら、泉はバイクハンドルをゆるやかに右に切った。右カーブ。途端に増す潮のにおいが、鼻腔をかすめる。遥か彼方の海岸線に沿うように並んだガードレールが再び姿を現す。
 無機物な柵で区切られた向こう側に広がる太平洋。鳥たちすらおぼろげに滲む点に見える青の遠景に、泉は知らず知らずのうちに目を細めた。眩しさではなく、どうしようもない憧憬に駆られたからだ。脳裏に焼き付いた、橙の髪先。この海を背景に手を広げてわらった、泉の青春そのもの。どうしたって忘れることのできない、泉の名を宝物のように呼ぶ男。
 世界の裏側まで繋がっているこの海の果てに、レオはいる。それをいつだって思い出させてくれる、この海を。そしてこの海沿いの道を、泉はどうしようもなく愛していた。

 毎週日曜日、午前八時。まだ人の少ない一三四号線で、愛機を走らせる。この習慣が身についたのはいつからだっただろうか。ふと、泉は思考を巡らせる。潮風に晒された髪はくしゃくしゃにかき乱されて、普段の泉ならば顔をしかめる所だろう。それでも、今の泉にとっては何故だかとても心地がいいものに思えたのだった。どこか懐かしいその感覚と潮のにおいを目いっぱいに肺に取り込んで、泉は海岸線で駄弁るサーファーたちの脇を通り抜けた。
 気分良く、耳に馴染んだ名曲のフレーズを口ずさんだ。若かった頃ラジオを聴いていたの、お気に入りの曲を待ちながら。かの有名な兄妹のデュオの音楽を、いつからか泉は好んで聴くようになった。ゴーグル越し、少し煤けた視界の向こう側で点滅する信号に、泉は慌ててブレーキを掛けた。急停止。信号の上に被さるように建設された白い歩道橋に、カモメたちの影が踊る。そのひさしの下で、泉の側で繰り返し繰り返し曲を口ずさんでいた男のことを思い出す。その曲が流れて来たら一緒に歌ったわ、すると笑顔になれるから。赤から青へ。記憶の片隅に放置していたフレーズを拾い上げている内に、めまぐるしく変わる信号にアクセルを開ける。風を切り、春めいた装いの店々を横目にタイヤを転がす。
 そうして、泉は海の向こうにいる男に強く強く思いを馳せる。たどたどしい英語の歌詞を、それでも鋭利にひかる才を用いて音階を外すことなく歌い上げるレオは、そう。この淋しい旋律の曲を好んでいた。


「おれ、卒業したら海外に行こうと思うんだ」
 三月十八日。やけに深刻そうな顔をしたレオが泉にそう告げた日付を泉はよく覚えている。それは丁度、今まで着実に実績を重ねてきた泉に邦画の出演願いが回ってきた日であったからだった。
 思い返せば、あの春も淋しいにおいがした。夕暮れ時、今まで二人乗りをしたバイクで駆け抜けてばかりだった海岸線を、泉たちはぼんやりと歩いていた。砂浜には空き缶や海藻が放り出されていて、けしてうつくしいとはいえない。踏み込むたびに足を取られそうになる砂浜をしっかりと踏みしめて、その言葉を聞いた泉のこころに去来したのは納得だった。きっと此処が二人の分かれ道なのだ、と。とっくの昔に予期していたのだ、泉は。自分とレオの道が交錯することがないことくらい。それでも、こうして直接的に言葉にされると、果てのないやるせなさに駆られた。彼が次に口にしようとする言葉を、泉は既に知っていた。
 目に沁みるような夕焼けの橙を良く覚えている。その橙に輪郭をとろけさせた男が大きく手を広げるさまは、何処か絵画のようにも思えた。逆光となり、彩度の落ちたレオのくちびるが、ゆっくりと動き出す。若かった頃にラジオを聴いたの、お気に入りの曲を待ちながら。そう曲を口ずさんだくちびると同じくちびるだった。反射的に、泉はレオの袖ぐりを引っ張った。つっ、と鼻腔をくすぐった春のにおいに誘われるように瞼を閉じて、迷うことなくレオのくちびるに自分のそれを重ねた。

 橙の遠景。滑るように飛び回る、カモメたちの鳴き声がした。それは掠めるような、刹那的なキスだった。この男に対して残るだろう未練を断ち切るための、はじめてのキスだった。自分の首に手を回そうとするレオをいなしてから、泉は少し微笑んだ。
「お願いだから何も言わないで。分かってるでしょ、れおくん。俺はあんたと一緒に行けない。結局のところ、俺の価値は国内でしか通じない。今の俺は、俺にできる精一杯のことをしなくちゃいけないんだ」
 何か言いたげだったレオは、口を閉じた。泉がレオの次の言葉を予測できたように、きっとレオもまた、泉の答えをとっくの疾うに予測していた筈だ。それでも、レオは泉に問わずにはいられなかった。自分の道が泉の進む道と交錯しないことを分かった上で、それでもなおレオは、泉と共に生きようとしてくれたのだ。それを知れただけで泉は充分だった。
 セナ、とレオが呼んだ。泉の名を何か大切な宝物であるかのように、たいそう愛おしげに。思わず視線を上げると、海を背にしたレオが目尻をゆるめてわらっていた。再会を希う響きを連れて、レオはもう一度泉のあだ名を呼んだ。
「それならば、おれは海の向こうからお前のために歌うよ。どんなに互いが離れてしまっても、自分はここにいるって知らせるために」
そう泉の青春は豪語した。レオの端正なかんばせの上で、潮風によって吹きさらしにされた髪先が踊る。月の引力によって打ち寄せた白波の飛沫が、レオの背後で弾けてひかった。サーファーたちのいない一三四号線沿いの海外線での出来事を、泉は良く覚えている。生涯忘れられぬ、三月十八日のことだった。


 出発してから長針が一周し終える頃。それは毎週日曜日の朝、繰り返し続けるちいさな旅の終点がようやく見えてくる頃合いだった。一三四号線を少し逸れた先、ゆるやかな坂のてっぺんに小さな喫茶店が立っている。駐車スペースすら殆ど少ないそこに、泉はバイクを停止させた。ヘルメットを外しておもむろに空を仰げば、山から駆け下りるあたたかいにおいがした。新たなはじまりを予感させる、甘やかなにおいだった。
 慣れた手つきで木製のドアを押せば、ちりりんと小刻み良い音がした。ガラス製のベルがうすく光を弾いて波紋をつくろおう様から、ぼんやりと視線を上げる。ゆったりとしたジャズ・ミュージックと、店内にひっそりと佇むアンティーク家具の数々。そして、青の遠景を望むことができるおお窓。もう既に指定席のようになってしまった、窓の傍の座席に腰掛けて、泉はメニューを見ることなくコーヒーを頼んだ。砂糖壺に差し込まれた銀のスプーンの縁を、店内の橙の照明が撫であげた。

 この喫茶店を知ったのは、殆ど偶然に近いことだった。二年前の春、丁度レオと決別した翌月に、おもむろにバイクを走らせていたときに知った場所だった。出演する邦画のロケ地がここの辺りであったから、というのも通い詰める一因になった。一時期は芸能雑誌に特集されてしまったこともあったが、それでもこの喫茶店に訪れる客は穏やかな気質の常連ばかりのようだった。
 それは泉にとっても有難いことだった。何にせよ、あの春初めて訪れた時より、一目でこの店を気に入ってしまったからだ。店内に流れる曲達とアンティーク家具、そして何よりもこの大窓から見下ろす海岸線。この喫茶店の自慢とも言えるその風景に、泉はこころを囚われ続けている。
青の遠景、カンバスに広げられたようなアジュールブルーの中で、悠々と滑空するカモメ達の翼がうつくしい円の軌跡を描いていた。世界の裏側まで繋がっているこの海の果てへと、あの男は行ってしまった。そこまで思いを進めて、ようやく泉は、毎週日曜日になるたびに海岸線沿いの道を辿りたくなる理由に思い当たった。

“若かった頃にラジオを聴いたの、お気に入りの曲を待ちながら”

 不意、に。懐かしい声が泉の耳朶を打った。電波塔に乗せられて、この喫茶店のラジオに流れ着き、泉の耳元に届いた歌声は、少し歪んでいながらも、間違いなく、泉の愛した男の声だった。
 その曲が流れて来たら一緒に歌ったわ、すると笑顔になれるから。本当に幸せな時だったのよ、それはそんなに過ぎ去ってしまったことではないけれど。辿々しかった英語はすっかり流暢で、二年の歳月の重みとあの男の進歩を感じさせた。勉学方面はからきしだったが、生きて行くために必要なことはするすると吸収してゆく男だった。目を瞑って、ひび割れた音と日々を丁寧になぞる。あの時はどこに行ってしまったのだろう? と幼さの滲む声が歌う。この歌の続きを、この声が次に口にしようとする言葉を泉は既に知っていた。


「それでも戻ってきた」


 青の遠景。滑る様に飛び回る、カモメたちの鳴き声がした。そうか、と泉は納得した。全てが収束したのだ。交錯した後一度は離れていった二人の道は、結局この一点を目指していたのだ。そこまで思い当たったとき、泉の内側で冷めきっていたよろこびが花のように綻んだ。
対岸の席に、誰かが座り込む気配がした。目を閉じたままでだって、泉はこの対岸にいるだろう男が誰なのか当てることができるだろう。座り込むや否や指先で軽く食卓を叩く癖も、機嫌が良いときに鼻歌を歌う仕草も、一人の男ばかりを想起させた。全くもって二年経っても、この男の芯は変わりはしない。泉の手元に置かれたコーヒーカップを手にして、目の前の男は驚いたような声を零した。
「お前、ブラックコーヒーは飲めないんじゃなかったのか」
「あんたの英語がとんでもなく上達したように、二年の間で嗜好は変わるよ」
「ふぅん……ねえ、それじゃあさ。セナ。二年前のあのキスの意味も、変わったりした?」
 瞼を開く。余裕綽々と言った様子のレオが、対岸で歯を見せて笑っていた。



(20180318/三月十八日のアンコール/レオいず)
▽なんでもない日をちょっと特別に思えるようになれたらいいな、と思いながら久々に書いた二人の話でした。作中で度々登場する曲は、カーペンターズのイエスタデイ・ワンスモアの和訳です。
この話の中での二人にとって、三月十八日は別れの日であり再会の日でもあるんだな、と思うと少し今日を生きるのが楽しくなりそうです。三月十八日という日付とわたし自身とは露ひとつも関連性がないです。四千字内に、という文字数制限が厳しかったのが印象深いです。/2018.03