上演されていたのは、君が好きだと笑ったプログラム。
天井に広がっていたのは、淡い色の星々たち。
流れ続けるアナウンスの声は反響して、そして何処へとなく消えていく。
観客ひとりのプラネタリウム。
流れてゆく星を目で追いかけるのは、いつものように笑う君。
淡い青色を湛えたその硝子のような瞳は星にきらめく。
ああ、そうだ。いつだって君はしあわせそうに星空を眺めるのだ。
「みつけたよ。」
振り向いた君は、そして。
投影機は夜明けの星々を映し出した。
星空グラスドーム
「夜明けは、嫌いなんだ」
ぽつり、そう零した君は夏空を眩しそうに見上げた。
白い絵の具で一本。弾いたような飛行機雲が青い空を走ってゆく。
「夜明けはさ、今日が始まる合図だから」
ぬるい温度の風が髪を揺らした。
ゆるゆるとソーダ缶を振る君は言葉を零し続ける。
「星空は好きだなぁ。今日が終わる合図だから」
一ページ、ひらりと扉絵をめくる。
「僕は好きだけどな。夜明け」
口元を緩めた。ひらひらとはためくページに栞を挟みながら。
「どうして?」
ぱちぱちと弾けるソーダの缶のプルタブに手を掛けて開けながら君は問う。
透き通った青を帯びた灰色の、瞳。
「淡い色合いが僕は好きなんだ。儚く、どこか優しいそんな色が」
そっとその綺麗な瞳に笑いかけた。ふうわりと柔らかく。
「星空は嫌いなんだ。夜に僕はいつだって怯えてしまうから」
「そうなんだ」
くすくすと君は笑った。その笑い声は青空にとけてゆく。
午後三時の放課後の屋上からの青空は今日も透明なのだ。
たとえるならば硝子のような少女だと思った。
柔らかく笑うその笑みや、綺麗な焦げキャラメル色の髪。
なによりも瞳が硝子のようだ、と思った。
青と灰色の混じった不思議と透き通った瞳。
優しさを溶かしたその青い青い瞳はいつも温かく街を映し出していたのだ。
そして君は誰に対しても優しかった。猫にも、小鳥にも、同級生にも、僕にも。
誰かを笑顔にさせることが君はとても得意だった。
濡れてしまった冷たい身体にそっと傘を差してくれた君の柔らかい笑顔を忘れることは、もうできない。
街にひとつのプラネタリウムが君は好きだった。
それは埃をかぶった座席と映画館だった名残のもう使われないであろうセピア色のフィルムが散らばったプラネタリウム。
重たいドアがぎぃときしんで、開けてみればいすに座った館長はよく来たね、と微笑む。
もうひとつのドアの先にはワインレッド色の座席と小さな、ねじの欠けてしまった投影機。
はじめるよ、と深みを帯びたその声とともに照明はきえて、そんな夜の中。たったひとつだけのプログラムの序盤、天井めいいっぱいに星々が広がるのだ。
星空の下、ふたりきり。耳を掠めるのはやるせないアナウンス。
それだけのちっぽけな空間が君は好きだった。
もう聞きなれてしまった星座の説明がホールに響く中で君はふとしあわせそうに笑うのだ。
硝子のように綺麗な、そんな優しい笑顔で。
「明日も、明後日もこんな日が続けばいいなぁ」
**
優しさは時に自分を傷つけてしまうのではないのか、と思う。
それはいつの間にか自分を見失ってしまう原因となってしまうのではないだろうか。
橙色を薄くかけたような夜明けの空はいつだって優しい。
列車の窓ガラスに映ったそんな空に溜息を吐いた。
とりとめなく流れてゆく景色は左から右へと。
本の挿絵が一枚、二枚とめくられる。
ふと、夜明けが嫌いだと言った君を思い出したのはなぜだろう。
『夜明けは嫌いなんだ。今日が始まる合図だから』
そう切なそうに言いながら空を見上げた君の姿は何故だか焼きついて離れない。
かたりかたりと規則的に揺れる車内と耳障りなアナウンス。
片耳からは他愛のないラジオが流れ続ける。
開いたドアから仄かに甘い夏の香りが掠めた気がした。
あのセピア色のプラネタリウムがなくなってしまうと聞いたのはいつごろだっただろうか。
もともとあれだけ古びていた建物だ。観客だって少ない。
洒落た埃っぽい照明に、置きざらしのパンフレット。
それでもプラネタリウムは街の中心にあったのだ。
そこで確かに、たったひとつだけのプログラムを上演しつづけていたのだった。
淡い橙色と深い藍色はゆっくりと消えて。
徐々に青色が朝の空を染めてゆく。
幼い頃から僕と君は空が好きだった。
いつだって僕らは綺麗だねと笑いながら空を見上げていたのだ。
くるくると天井が廻るプラネタリウムへと行くことが好きで、その広い館内でよくかくれんぼなどをしたのだ。
「もういいかい」「見つけた」そんな繰り返しをして。飽きたら天井を廻る夜空を眺めて。
「大丈夫だよ。君はひとりじゃないんだから」
ふわりと笑む君の柔らかなその手から伝わる温もりを離さないようにぎゅうっと握り締めながらまだ少し星の残る夜明けの空を仰いだり。
それでもいつからだっただろうか。
君が夜明けを嫌ったのは。僕が夜を嫌ったのは。
停車駅を告げるその声にふと物思いから覚めて栞を挟んだ。
淡い色の透き通った夏空。耳元から流れる天気予報は午後からの大雨を告げていた。
***
ふりしきる雨はいつまでたっても、止まない。
冷たい雨は迷子になって泣いていたあの日を思い出してしまう。
柔らかい街灯はあの日、手を握ってくれた君の優しさを思い出す。
ぽつりぽつりと落ちる雨粒に耐えかねてそっと逃げ込んだのは、曲がり角のその先、小さな小さな喫茶店。
少しばかり錆びた銀のドアノブを捻ってみれば柔らかく笑うあの人とよく似た店長がいらっしゃいませと声をかけてくる。
硝子のスノウドーム。小さな世界に閉じ込められた少女のうえへ雪が積もる。
そっと会釈を返してレモンソーダを注文すれば、その人はミントの葉を浮かべたそれをすぐに出してくれるのだった。
「雨は止まないですね」
窓を叩き続けるその大雨にそう呟く店長に頷き返して、ひとくち。淡い色のレモンソーダを口に含めば甘酸っぱさが口に広がった。
雪のつもる小さなドームは照明の光を受けて優しく煌めく。
ぽつぽつと雨がアスファルトを打つ音だけが響く。
「優しさは」硝子細工を見つめて笑った。
「優しさは人を傷つけてしまうのでしょうか」
そっと知らず知らずのうちに言葉が零れた。
銀色のポットからコーヒーを注ぎいれる店長ははて、というように首を傾げた後、微笑した。
「そうかもしれないねぇ。時に優しさはひとを傷つけてしまう。でもだれよりも傷ついてしまうのは、自分だと思うけどなぁ」
少しだけ、ほんの少しだけ切なさを含んで店長は言った。
「優しい人は優しくしていく度に自分を見失ってしまうんだ。『優しい人』という評価ばかりで誰にも弱さを見つけてもらえなくなってしまうんだ。そして段々と疲れてしまう。優しくすることに。ひとを笑顔にさせることに」
ふと思い出す、青灰色の綺麗な瞳。
ふわりと温かな、その笑顔。
「ひとりじゃない」と告げてくれた、硝子のような君のこと。
携帯が小さく、震えた。
不意にがしゃんと、何かが割れる音がした。
足元を見ると小さなスノウドームのかけらが散らばっていて。
水の中、佇んでいた小さな世界はあっけなく壊れてしまった。
きらきらと舞う銀色のセロハン。硝子はあとかともなく割れてしまった。
「硝子は綺麗だね。綺麗で、いつだって透き通っている。けれど何よりもそれは脆いんだ」
ふわりと微笑む店長。やはりその笑顔はプラネタリウムの館長を少し若くさせたような、そんな優しい笑顔で。
そして僕は先ほどから振動し続けている携帯を手に取った。
** **
硝子のような少女はいつだって優しい。
透き通った灰色の瞳を細めて。
柔らかな笑みでひとを笑顔にさせて。
でも、いつの間にか『優しい人』という肩書きのせいで自分を見失ってしまってしまうのだ。
透明度とともにかねそなえている脆さは人には見せないように。
溜め込んでしまったその脆さは、少女にひびを入れた。
それでも少女は笑ったのだ。しあわせそうにプラネタリウムを眺めながら。「明日も明後日も、こんな日々が続けばいいなぁ」と。
雨は降り止まず、ただただ勢いを増すばかり。
「かくれんぼを、しようよ」
手に取った携帯から聞こえてきたその声は、紛れもなく君の声。
「この電話が切れてから、好きなタイミングでいいから私を見つけてほしいんだ」
柔らかい声。それはいつもと変わらない。
「いつまでも待つから」
ぷつり。切られてしまったその電話。聞こえてきた声に混じっていたのは、すすり声?
暖かな木の温もりと甘いコーヒーの香り。
洒落たドアにはめられた硝子は少しばかり白く曇っている。
カウンターで豆を挽き続ける店長はドアを開こうとする僕へ微笑みながら最後にゆっくりと口を開いた。
「貴方は、そんな人の隣に立てるかい?」
行き来する人々はくるりと傘をもてあそびながら談笑する。
幾度も曲がり角を曲がりながら降り止まない雨をうらみながらそっと歩を進める。
身体をぬらす雨は髪の先からぽつりとしたたった。
この道があっているか、それは分からない。この方法があっているのか、それすらも分からない。
ただ散々迷ってそれでもそこへと辿りつければいいのだと思ったのだった。
** * **
やはりそこは街の中心の場所にあった。
どんなに古びていても、どんなに観客が少なくてもそこではいつもただひとつだけのプログラムを上映していた。
重いドアをきしませながら開ければ、灯るアンティークの明かり。
この街の歴史を物語るような写真の続く廊下のその先。小さな書斎の机の上に置かれた、色あせたフィルム。
その先に佇む茶色のドアを強く、押した。
上演されていたのは、いつもと代わり映えないプログラム。
天井に広がっていたのは、夏の星々たち。
流れ続けるアナウンスの声は反響して、そして何処へとなく消えていく。
観客ひとりのプラネタリウム。
流れてゆく星を目で追いかけるのは、いつものように笑う君。
ああ、そうだ。いつだって君はしあわせそうに星空を眺めるのだ。
「みつけたよ」
振り向いた君は、そして。
硝子が砕け散るように、くしゃりと顔を歪めたのだった。
今まで溜めてたものが溢れ出す様に君は泣き出した。
ぽろぽろとその綺麗な青の瞳から雫が落ちる。
「明日が、夜明けが来ることが怖いんだ。また今日もひとを笑わせなくちゃいけないんだ、っておもってしまうから」
君はぽつり、言葉を零した。
こぼれた言葉は、硝子のように脆くてリノリウムの床に落ちて弾ける。
「悲しかったんだ。弱かったんだ。もう笑えないかもしれないって怖かったんだ、私は。ひとに優しくすればするほど自分が分からなくなって、そんな自分がいやでいやで仕方がなかったんだ」
そっとその手を握った。あの雨の日、君がそうしたように。
ふわりと口元を緩めた。ああ、僕は笑えているだろうか。
「見つけてほしかったの。自分の弱さを。
認めてほしかったの。自分を」
泣きじゃくる君へ僕はそっと囁いた。
「雫」
儚くて消え入りそうな、滅多に呼ぶことのないそんな名前を。
「遅くなって、気づかなくて、ごめんね」
天井を流れる星はくるりくるりと回る。
「僕は何も知ろうとはしなかったんだ。硝子の透き通った部分しか見ていなくて、その脆さに気づくことはなかった」
すうっと息を吸い込んだ、ドーム内に次々と星座が現われた。
ゆったりとしたエンドロール。次々と現れ始めた淡い星々はプラネタリウムの空を彩った。
「ねえ、雫。明日が怖いなら、夜明けが怖いなら。その時は僕が隣で笑っているよ。その手を握って、笑っているから。だから、お願い。隠さないで。自分の脆さを。弱さを。涙を」
声が何故だか震えた。頬を温かいものが伝った。
プラネタリウムの星々が薄く、消えてゆく。
夜が、明けてゆく。
「分かった、約束」
その声はか細い、弱弱しいけどしっかりとした響きの声だった。
僕は頷く。溢れる涙はもう止まらない。
「約束、だよ」
そして投影機は夜明けの星々を映し出した。
(グラスドームをまわる夜明けの星たちに願いをかける)
(ふたりぼっちの少年少女)
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