八月、僕等は夏影を見る

 夏は、線路の向こう側で啼いていた。

 夏は度々、木々の隙間からぎょろりとした目を覗かせてくる。加えて、歩道橋に伸びた影法師の内から手招きをする。

 その手が余りにも不気味で、あの夏の日々を「ほんとう」に感じられてしまうから、僕は独りあの娘の手を捜す。彷徨わせた視線の先の手の平はいつだって赤みを帯びていて、僕はそれに安堵する。  

 去年よりも少しだけ、少しだけ丸みを帯びたその手に触れようとして、ただ馬鹿らしいと頭を振った。
 ――もしも僕がそれを実行に移していたら、あの娘はまた呆れかえったように笑って、それから僕を引っ張ってってくれるのだろう。
 それでも、僕はあの娘に触れることなんてできやしない。その資格が、僕にあるわけがないのだから。

「ヒビヤ。ほら列車の発車時間が迫っているよ!」
 麦藁帽子を被りなおし、振り返りざまにヒヨリー僕らの王女様は笑った。凛としたその声が、僕の下らない物思いを覚ましてくれた。
 その笑顔が、あまりにきれいだったから。その笑顔が、あの夏の日々に似つかわしくない明るさが滲んでいるから。

 終わらない夏を引きずっているのは僕独りだけに思えたのだ。

 ――あの街、あの夏に繰り返され続けたカゲロウデイズから3年。
 こころの奥深い部分に封印したあの街を、僕等は旅をしようと決めた。

 それでも臆病な僕は今日もまた、夏から目を逸すのだ。



八月、僕らはまた夏影を見る



(一)
 線路は軋む。ぐらぐらり、不規則に。その揺れは、何処か波が引いては寄せる様を想起させる。 ぐらぐらり、ゆらゆらり。だからこそ、揺らぎの狭間で僕は悪夢を見てしまう。

 気がついたときにはほら、既に僕は夏の手のひらの中に。

 レコードみたいに再生される映像。僕が必死に手を伸ばしても、ヒヨリの手のひらを掴むことはできやしない。そのカンマ5秒後に何が起きるのか、僕は知っているはずなのに。そうしてまた僕は彼女を救えずに8月15日は終わってゆくのだった。

「ヒビヤ、何ぼうっと呆けているのよ。バッカじゃない?」
「えっ……?あ、うん。ごめんね、ヒヨリ」
 夏の手のひらに囚われっぱなしだった僕は、いつだってヒヨリの凜とした声で目が覚める。気がつけば、悪夢なんて頭の中から飛び去っていて、脳はただ冷静に現状を把握しようと回転し始めていた。

 列車の不快な振動が、僕らの立つ地面を大きく揺らしていた。つられて揺れた紙広告は、田舎では滅多に見ることのない蛍光色が惜しげもなく使われていて、都会に向かっていることを身をもって感じられる。あか、きいろ、あお、あお。だけれども、やはり都会の色のコントラストは、少しばかり目が痛かった。耐え切れず僕は瞼を閉じる。

 それでも世界は僕につめたくて、人が満杯に詰め込まれたこの箱の中でも耳を塞ぎたくなるほどの雑音が溢れていた。女性特有の甲高い笑い声と、効かない冷房が回り続けている音。小学生たちの幼い内緒話を盗み聞いて、声変わりする前の自分もまた、これくらい高い声で話していたのだろうかと思うと、少しこそばゆい心持ちになる。ふ、と。喉元に手のひらをあてて、微かに声帯を震わせてみれば、やはりあの夏の日に叫びつづけた幼い声よりも数段低い声が零れ落ちた。
「何やっているのよ。……発声練習?へえ、ヒビヤってそういう趣味あったんだ。まあ、列車でするべきだとは思わないけど」

 目の前の座席に座るヒヨリは、いつもどおりの澄まし顔だった。

 すっとした顔立ちに、大人っぽく仕上げられた髪をゆるく二つに結んだその姿は、中学最高学年の僕らに相応しいそれだった。加えて赤いヘアピン二つは、ぴったりのアクセントだ。ヒールのつまさきをこつこつと叩きながら、苛立ち紛れにヒヨリは僕を見上げてきた。
 ヒヨリと視線が合う度に、僕は息を呑んでしまう。あの頃でさえ、誰しもの目を惹く王女様であった彼女は、この三年の間に静謐なうつくしさを宿すようになっていた。子供らしい部分を脱ぎ去って、ひとつひとつ数えるように大人になってゆく彼女は、どこまでも鮮やかで憧れだった。

 あの夏の頃よりも少しだけ背も伸びて、少しだけ大人ぶれるようになった僕は、非難がましく見つめてくるヒヨリにくつくつりと笑って見せた。少しだけさっきの悪夢を思い出す。掴めない手のひらと、枯れるまで叫び続けた声。たちまち戻ってきてしまった不安を急いで所在無さげなこころの隅に押し込んだ。
「いや、あの頃と今では、随分変わってしまったんだなーって。ほら、声とか髪型とかさ。ほんとうの自分自身は、全く変わってゆけないのに」
「……ヒビヤったらそんな小さいことにこだわってるの?臆病なのね、ばっかみたい」
 本音をないまぜにした言葉を一蹴される。ヒヨリは相変わらず面白くなさげにつまさきを叩いて、それから何でもないように目的地の街へと窓越しに視線を投げかけていた。

 いつものヒヨリらしい仕草に、いつものヒヨリらしい罵倒。それでも気のせいか、今のヒヨリには何かが欠けている様な気がした。


(二)
 そのテレビの特集に目を留めたのは偶々だった。

 それは確か、定期試験が迫っていた梅雨の日のこと。小学生の頃とは違う試験の形式も三年目で、すっかり慣れてしまっていた頃だ。
 僕にとっては変わらず勉強は余り面白くないものだったし、ヒヨリはいつだって隙のない花丸優等生の王女様だった。だから、あの夏を超えても僕らは共に過ごす機会なんてなかったし、並んでみたとしてもただただ不釣合いだったのだろう。

 だから、あの定期試験の近い梅雨の日、共に過ごせる機会を得られたのは珍しいことだった。友人宅という少しだけ居心地の悪い空間のなか、ただただ無言のまま、僕らはシャーペンを走らせた。いつもなら耳につめたイヤホンで聞く音楽の代わりに、止まない雨の音を聞いていた。
 ふ、と。ヒヨリは視線を上げた。つられて見上げれば、短針は既に6を指し示していた。随分と集中していたらしく、始めてから3時間以上が経過していたようだ。綴っていた数式は悠に50は超えていた。
「休憩にしようか、ヒビヤ」
 そうヒヨリが呟いたから、僕はただ頷いた。歯向かいたくなかったという面もあったけれど、それ以上にヒヨリの時間配分が上手だからだ。タイミングを見計らったかのような休憩に、僕は緩やかに息をついた。
 ヒヨリはというと、何かを隠すようにノートの端に消しゴムを転がして、それから戯れのようにテレビのリモコンの電源をつけていた。

 つまらなさそうに変えられてゆくチャンネルの数々を流し目にしながら、僕は脳内で試験対策の予定を考えていた。数学は大の苦手なのだ。この教科にはもう少し時間を掛けねばならないだろう。そもそも、答えが一つに定まってしまうようなものは嫌いで仕方がないのだ。人それぞれに解答が異なる現代文という教科ぐらいが、ちょうど良かった。
「え」
 小さくヒヨリが息を呑む音が静寂の内に零れた。揺れる視線の先には、どこにでもありそうな特集が放映されていた。

『……つづいてはこちらについて紹介しましょう。非常に稀少な鉱石でして、お目にかかれる機会は全くないといっても言っていいでしょう。薄青い燐光を孕んだ鉱石の高度は7.5と硬い石に属しますが……』
 特集の内容がどういったものだったのか、僕はよく覚えていない。ヒヨリがどうしてその特集を見ようとしたのかだって、僕は知らない。
ただ、その鉱石の色と「ユークレース」という鉱石名は、僕の脳裏につよく焼き付けられている。それは、ユークレースの色が夏の色によく似ていたからかもしれない。嫌いな青色を宿したその鉱石は、どうしてか眩しく見えた。

 結局画面内、稀少と謳われた薄青いその鉱石は、始終誰にも触れられることなく、箱の中に仕舞われていった。アナウンサーが喋りたてる横、赤いびろうどの内に眠るその鉱石はどこか儚げで、うつくしかった。
 特集を見届けてから、ヒヨリは無言のままテレビを消した。ひとときの騒がしさを失った部屋は、再度雨音と静寂で満たされてゆく。時計は、そ知らぬふりをしながら淡々と振り子を揺らしていた。
「…ねえ、ヒビヤ。知っている?あの鉱石の名前の由来」
 唐突に投げかけられた質問は、ヒヨリからだった。伏せ目がちに問われた問いの意図を理解できず、僕はただ純粋に首を振った。
「……ユークレースは、『非常に割れやすい』という意味があるらしいの。硬度七半なのに、その名の通りとても割れやすい。触るだけでも、触りどころが悪いと割れちゃう弱い鉱石なんだって」
「……へえ。ヒヨリがあの鉱石に興味を持った理由はそれなの?」
 息をつくように言葉を返した。ヒヨリがきまぐれに言葉を投げてくることなんて、珍しい訳ではないから。脳内で学習計画をひとつふたつと組み立てながら、僕はいつになれば雨は止むだろうと考えていた。

 どうやら僕の思惑は外れたようで、ヒヨリは呆れたように鼻で笑った。
 それからヒヨリは、シャープペンシルの一本におもむろに手を伸ばして、何気ないように弄び始めた。花柄のシャープペンシルがくるくると虚空で描いた軌跡を、僕は呆と目で追っていた。

「あの鉱石は、なんだか私やヒビヤに似ているから」

 何でもないように、ヒヨリはそう零した。頬杖をつき、伏せ目がちに視線を揺らしながら。その様子があまりにも普通だったから、僕は気にも留めずに相槌を打った。
「……あ、」
 ヒヨリのノートの端を陣取っていた消しゴムは、不意な机の振動で床に転がり落ちた。焦るようなヒヨリの声につられて覗き込んでしまった、ノートの端。そこには、忘れることのできやしない青年の落書きがされていた。あの夏に、僕等が置き去りにしてしまった、あの青年の。

「……それって、コノハ?」



(三)

 ようやく、列車が連れる不快感から解放され、僕らを待ち受けていたのは身をむしばんでゆくような暑さだった。改札口の前、未だ桟の下であっても皮膚を少しずつ、少しずつ侵食してゆく暑さに、僕は既に辟易してしまった。
「……」
 隣で無言のまま、麦藁帽子を深く被りなおしたヒヨリもまた、同様のことを思っているのだろう。不快感を訴えるきれいな黒曜石の双眸が、僕を見上げてくるけれども、夏の暑さから逃れることなんて出来やしない。小さく首を振れば、ヒヨリは呆れたように溜息をついた。
「全く、ヒビヤったら何の役にも立たないんだから……せめて荷物ぐらい持ちなさいよ」
「そんなこと言われても……今回は大荷物がある訳でもないから」
 片手に持ち合わせていた小さいバッグを掲げてみせる。対するヒヨリは、肩掛けバッグ一つという有り体だ。大きい荷物は、先に宿泊先に送らせてもらったから、今の僕らには荷物がほとんどない状況なのだ。そんな状況下で、荷物を持て、なんていう命令が下されても仕方がない。僕はどうしようもなく困惑気味に眉を寄せた。

「……そういえば、決めていなかったね。ここからどこに行くかとか」
 ふ、と。僕はそのことを思い出した。6月の定期試験が終わった直後に旅をしよう、と言い出したヒヨリだったけれど、何処に向かうかとか、何をしに行くか、なんていうのは全く聞いていなかった。そもそも、僕等二人としては、あまり良い印象のある街ではない。けれども、ヒヨリはどうしてもその街に、二人きりで行くことを譲らなかった。
 もちろん、アサヒナーの僕としては願ったり叶ったりな提案だったのだが、僕はずっとヒヨリの意図を把握できずにいた。視線を投げかけてみると、ヒヨリは少し悩むような素振りをしてから、首を傾げた。
「折角都会に来たんだから、それ相応に楽しむべきよ。アクセサリーショップとかめぐり歩きしたり……ああ、ヒビヤは荷物番とかしておきなさいよ、どうせ役に立たないんだし」
 定期的に突き刺さる暴言に、暑さによって既に脳内が上手く回らなくなった僕は更に辟易してしまう。適当に相槌を打つと、途端ヒヨリは不満げに双眸を細めた。
「はいはい分かりました、ご相伴にあずかりますってば……」
 大きく頷いた後に、とりあえずロータリーの方へ踏み出す。改札口の桟の部分は比較的に陰になっていて過ごしやすかったのに対して、やはり直接日光が降り注ぐロータリーでは暑さの度合いが天と地ほどに違う。
 街の中心の駅であるというだけあって、人の往来は絶えず流れている。僕等が住む田舎とは大違いだ。ここでは、列車は七分に一度は来るし、ちいさなデパートまで併設されている。売り子達が、本日大特価という旨のチラシを意気揚々と配り続けているのに対して、バスは、億劫そうにロータリー内を周回していた。バスを待つ、くたびれた顔をしたサラリーマンは、携帯端末を憂鬱そうに眺めていた。


(四)
 ――この街でも、夏は木陰から様子を伺っていた。
 ぎょろりとした目を覗かせて、五月蝿く啼きつづけていた。その様は、やはりどこか繰り返された夏の日を彷彿させるから、僕は視線を逸らしながら、震える足で街をめぐった。
 ようやく、ヒヨリの行きたがる雑貨屋さんまでのルートを把握した僕は、世の中全てを焦げつくしてしまうのではないかと思える暑さと格闘しながら、改札口を目指し一目散に駆ける。ようやく陰になった桟の下まで逃げ込むと、ヒヨリはこつこつとヒールのつま先を叩いていた。
「ヘタレね、ヒビヤって」
「……行きたい行きたいと言っていた雑貨屋さんまでのルートを把握した王女様の従者へねぎらいの言葉一つもないのでしょうか、陛下?」
「はいはいお疲れ様でした、それでは案内して頂戴」
 茶化すように言葉を入れてみても、すらすらと返答してしまうヒヨリには、やはり適わない。溜息をつきながら、ヒヨリに手招きをする仕草をする。するとヒヨリは口元に笑みを引いて、にこやかに笑って見せた。

「…ヒヨリ?」
 だけれども、ヒヨリは桟の下から動こうとはしなかった。否、きっとヒヨリは動けないのだ。ヒヨリ自身、どうして自分が動けないのか分からない様で、ただただ呆然と人混みの中に立ち尽くしているのだから。
 小刻みに震えるちいさな手のひらと手のひらを胸の前で重ね合わせて、ヒヨリは周囲を見渡した。見開かれたままの黒曜石色の二つ目はぼんやりと虚空を覗き込んでいるみたいで、何の感情だって浮かんではいなかった。その様子は、親に手のひらを離された子供のようだった。
「ヒビ、」
 ちいさな口元が、震える声で僕の名前を呼ぼうとしていた。その声に、微かな哀願が篭もっているように思えたけれど、臆病な僕はどうするべきなのか分からなかった。あの青年のように、躊躇いもなく手を差し出して、引っ張って行ければどんなに良いだろう。けれども、臆病な僕にはそんな資格はないのだ。
 だから、僕は震えるヒヨリに対して遠くから名前を呼ぶことくらいしかできない。出来るだけ、いつも通りに。ふ、と目を細めて、僕はちいさく名前を呼んだ。
「ヒヨリ、大丈夫。大丈夫だから」
 口をついた言葉の意味なんて、僕自身理解していない。何が大丈夫なものだろうか。僕自身だって酷く臆病で、今も足は震え続けているのに。それでも、僕らは確証のないそんな言葉にしか縋れない。

「ばっかみたい」
 しばらくした後に、ヒヨリは呆れたように鼻で笑った。双眸はまだ揺れていて、動揺が大きかったことを物語っていた。つかつかと僕の先を行こうとするヒヨリが、何処までもまぶしいから、僕はただただ目を細めた。
「……まあ、感謝するわ。ありがとう」

 ――夏は、僕等の背後で五月蝿く喚きたてていた。逃がさない、というように強く、強く喚きたてる夏影を、僕はまだ直視できずにいた。


(五)
 あの夏を過ごした後、白昼夢を繰り返し、繰り返し見た。

 白昼夢の内で思い出すのは、あの青年のこと。呆としていて、世界の全てを未知の物のようにみていた、白髪の青年のことだ。石榴の実のように赤い双眸は、どこか怪物じみていて、恐ろしかったけれども、あの青年は誰よりも柔く笑っていた。

けれども、僕らはあの青年―コノハを置いてきてしまった。命の代換品である蛇は、ケンジロウ先生から蛇自身へ、それからコノハの下へと廻って、最期の最期にヒヨリの内に受け継がれることになった。それは、コノハになるはずだったひとが、願ったことだった。
 聞くところによると、コノハになるはずだったひ と――遥というひとは、いつ死んでしまうか分からないような病気を持っていたひとらしい。最期の最期まで死にたくないと願った遥というひとは、結局ヒヨリを救いたいという願いを残して、眠りについた。

 僕は、どうしたって忘れられない。否、きっと忘れてはいけないのだ。三年前の夏、コノハが幸せそうに笑っていたことを。新しいものを知る度に、真っ赤な双眸をきらきらと好奇心で輝かせていたことを。だから、僕らだけがこうしてのうのうと生きていることに、僕はどうしようもない罪悪感ばかり募ってゆく。

 罪悪感を具現化したものこそがきっと、白昼夢の数々なのだろう。白昼夢の内にみるものの多くが、赤レンガの家でヒヨリとコノハと共に過ごした日常のよう非日常の日々ばかりであったのだから。その記憶の数々は、今でも僕の目に焼き付けられている。

 白昼夢の終わりは、いつだってコノハが消えてしまう場面だ。僕は、コノハになるはずだったひと――遥が、あれだけ死にたくないと願っていたことを知っているはずなのに、遥がヒヨリに蛇を譲り渡すことを止めることはしなかった。
 終わらない夏にて、僕が掴もうとしたヒヨリの手のひらを掴んで死の縁から引き上げたのは、結局はコノハだった。僕は、一生を掛けても彼には適わないだろうし、ヒヨリを助けることの出来なかった僕は手のひらを差し出せる資格なんて、はなっからある訳がなかったのだ。




(六)

 夕方になるにつれて、あれ程僕らを侵食しようとしていた暑さは、融解するように去っていった。心地の良い風が肌を撫ぜて、ハイビスカスの甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。街路樹によって構成された並木道は、まだまだ先に続いていて、木漏れ日は僕等の影をゆらゆらりと映し出していた。
 舌は、先ほど口にしたチーズケーキの甘みの残滓に侵食されていた。砂糖を2つ3つ放り込んだコーヒーもなかなか美味しいもので、チーズケーキのクセのある後味を和らげてくれた。
 格好付けてコーヒーを頼んでしまったけれども、砂糖を2つ3つ放り込むくらいでないと、コーヒーはどうしても飲めなかった。元々僕は甘党だったから、苦いものが酷く苦手だった。
 澄まし顔でコーヒーを啜るヒヨリは、二つ目だけで器用に僕に笑って見せた。
「ヒビヤったら、甘党なのは昔から変わらないね。もう、私達は子供じゃいられないのに」

 廻りめぐった雑貨屋さんは既に3件目だった。僕には、蛍光色のクマのぬいぐるみの素晴らしさも、切り身に顔が付いたベニ鮭ちゃんストラップの良さも理解できなかった。ましてや、顔のつぶれた目玉焼きの可愛さなんてなおさらだ。だけれども、ヒヨリがからからと楽しそうに笑っていたから。それだけで僕もまた、この旅が何だか楽しいと思えるようになっていたのだ。


 並木道の横に並んだ店の数々へ目を遣れば、一際大きな店構えの宝飾店が目を惹いた。銀色をふんだんに使った看板には、僕には全く読めないような異国語が綴られていたけれども何よりも、僕の目を惹いたのはショーウィンドウの真ん中に大きく飾られたちいさなあの宝石だった。
 箱のうちで眠る、薄青の鉱石は、実物で見ると確かにとてもうつくしいものだった。けれども、その鉱石の持つ透明度は高いようで、触れればその刹那に砕け散ってしまうという逸話もあながち間違いではないように思えた。
「触れたら割れてしまう、稀少な鉱石ユークレースねえ……珍しいじゃない、こんなところで売られているなんて。ああ、ヒビヤ。この紙袋いくつか持ってよ」
 いつのまにやら、雑貨屋を物色していたヒヨリもまた、ショーウィンドウを覗き込んでいた。両手には、紙袋が6つ分とまた新たな荷物が増えていて、僕はひとつ溜息をついた。
「ヒヨリは、あの鉱石が随分気に入っているみたいじゃないか」
「……私ね、ずっとずっとこう思っているのよ。きっとあの鉱石が割れにくくて、丈夫だったなら、あれだけの価値は持たなかったかもしれない、ってね」
「どういうこと?」
 そう訊ねると、ヒヨリは涼やかに「さあね」と笑いながら踵をかえしてしまった。慌てて、ヒヨリの後を追おうとするけれども、両手一杯に抱えた紙袋は予想以上に重くなってしまっていたようで、直ぐに転んでしまう。同時に、抱えていた紙袋たちが雪崩のように散らばったのだった。

「わ、ヒビヤったら大丈夫?買ったものに傷つけてたら容赦しないわよ」
 頭上から降ってくる不満げなヒヨリの声に、僕は静かに頷く。どうやら、強く膝を打ってしまったらしい。頬を膨らませた王女様は、手伝う気はないようで、じくじくと痛みを訴える膝小僧をなだめながら、僕は歩道に散らばってしまった紙袋の中身を拾い上げねばならなかった。

 僕が「それ」を見つけたのは、ちょうど一番最後の紙袋の中身を拾い上げたときだった。キャンディーやクッキーのあしらわれた透明包装にはどこか見覚えがあった。包装の中身は、重さ的に髪ゴムとかであろうか。黒白と黄緑色の配色があしらわれたそれは、どう見てもヒヨリが自分用に買ったものとは思えなかった。
「……これって」
 三年前の夏、磨耗しきったあの夏の記憶を辿る。 

 確か、ヒヨリは八月十五日に僕を買い物に連れ出したのだ。キャンディーやクッキーのあしらわれた煌びやかな店で、ヒヨリはふたつの物を買っていた。一つは、僕への嫌がらせのような可笑しな鮭のストラップ。それから、もう一つは、あの青年のために、ちいさな髪ゴムを。

 ヒヨリは何も言わずに、僕の手のひらからその包装をひったくって、無造作にポケットを突っ込んだ。ヒヨリが気まぐれな王女様であるのは、前々からずっと知っていたけれど、僕には何も言わず何も教えてくれないヒヨリが、少し哀しかった。


(七)
 はちみつみたいな太陽は既に彼方の地平線と融解してしまって、後に残されたのは、人々を脅かしてやまない常闇だけだった。街灯の数々は、夜におびえるように瞬いて、僕らの帰路を心細げに照らしていた。
 昼間の暑さはすっかり去ってしまって、どこか肌寒さを感じる夏の夜は、僕等のこころまでも不安に煽るのだった。けれども、光のない夜には、夏影は息をころしている。それだけが、こころの安寧だった。

 住宅街の一角、赤煉瓦で構成されたその家こそが、旅の終点だった。

 家主のケンジロウは既になく、コノハもまたもう既にない。ケンジロウの一人娘であり、僕のヒーローになってくれたアヤノもまた、現在は104号室のアジトで過ごすと長らく家を空けている。しかしこの家には、3年前から新たに住むようになったひとがいる。


 3年振りの玄関先を踏めば、あの夏のことを否応にも思い出す。コノハとヒヨリ、それからヒビヤ自身の過ごした日常のような非日常のことを。あの頃、ヒヨリはただただコノハのことばかり目で追っていて僕にとっては不満だった。けれども、その日々が、今まで過ごしてきたどんな夏よりも鮮やかで、眩しかったのだ。

「こんばんは、貴音さん」
 重い扉を開けた新たな住人は、穏やかに笑って僕等をむかい入れた。繰り返す夏の中、僕らと共に戦線を張った戦友は、コノハという存在と共に遥という唯一無二の親友を三年前に喪っている。

 その原因の一端をになってしまった僕はどうしたって、彼女と視線をあわせることができない。コノハの命を使って呼吸しているのは、ヒヨリなのだから。僕は、コノハが命を譲り渡すことを止めなかったのだから。
「……アイツはそういう奴だから、仕方がないのよ」
 三年前、全ての事情を知った彼女はそんなことを零した。それでも、言葉には哀願や慟哭の色で満たされていて、僕はただただ何も言えずその様子を見守るしかなかった。彼女はただ泣くことも、叫ぶこともなく、感情を失った表情のまま、ただただ同じ言葉を繰り返していた。
 彼女はどこまでも優しい人であったから、僕等を責め立てることなんてしなかった。けれども、きっと彼女はコノハ――遥のことを忘れることはできやしない。3年前から変わることなく、彼女にとって遥は唯一無二の親友だった。

 彼女が振る舞ってくれた夕飯は、とても豪華なものだった。ふんだんに揚げられたえびの天ぷらに、大皿一杯の海鮮サラダ。加えて蕎麦まで用意されていた。仕上げに振舞われたチョコレートケーキの甘みは、僕にとってはぴったりなものだった。
「独り暮らしだから、材料は有り余るほど沢山あるんだよねー。だから、今夜はそれらを一気に使って大盤振る舞いっていうワケ」
 見覚えのあるカウンターに積まれた皿の数々を、彼女はてきぱきと片付けてゆく。古ぼけたステンドグラスの組まれた高窓は相変わらずで、彼女がどれだけこの家を大切にしているかがわかるような気がした。

 彼女が、この赤煉瓦の家に住むようになったのは、カゲロウデイズを抜け出してすぐのことだった。理由は口にしなかったけれども、それはきっとコノハこと遥のことが関係しているのだろう。きれいに片付けられたこの家には、いたるところに前住人がいた証が示されていた。
 例えば、棚の上に置かれた家族写真。柔らかく笑う子供たち四人を囲む親もまた幸せそうに笑っていた。例えば、ソファーの上に寝そべるトリケラトプスのぬいぐるみ。コノハがよく昼寝をする際に、あのぬいぐるみを抱いていたことを僕は覚えている。

「……貴音さん、すこし家の中を回ってきてもいいですか?」
 不意に口を開いたのは、ヒヨリだった。彼女は微かに頷くと、ヒヨリは大荷物たちと一緒に階下へと去っていった。
 慌てて、僕もまたその後ろを追おうと、中身の余りつまっていないスーツケースを引っ張り出そうとする。すると、皿洗いをし続けながら彼女はひとつ、何気ない様子で僕に声をかけた。
「追うのは止めないけれど、何があっても声を出さないであげな」
 テレビが、天気予報について淡々と紹介する様子を耳半分に聞き流しながら、僕もまた階段を下って行った。


(八)
 階下では、打って変わったような静けさが鼓膜をうつ。電気も消されたままで、、得体の知れない恐怖が心を震わせた。ゆるやかに足を踏み出すと、床が少しだけちいさく軋んだ。
 それでも、ひとつだけ、朧に電球のついた部屋があった。音を出さぬよう気をつけながら歩を進め、部屋の内部を覗き込む。

 小さな人影が、声を震わせて泣いていた。

 繰り返し、繰り返し謝罪をするその後姿は紛れもなくヒヨリのものだったけれど、僕はその前にヒヨリの視線の先にあるものを見てしまった。掛けようとした言葉を飲み込んだ、きっと僕には関わることのできないものだと分かってしまったから。
 視線の先には、柔くしあわせそうに笑うコノハの写真が飾られていた。部屋の机には、トリケラトプスのぬいぐるみがいくつも積まれてあって、加えてコノハが書き溜めていたものだったのだろう日記もきちんと番号順にそろえられていた。夕方に、ヒヨリが買い込んでいた黒白と黄緑色の髪ゴムもまた、物言わぬ部屋の一員としてそこに置かれていた。とてもコノハらしい賑やかな部屋なのだ。それでも、この部屋には生きているひとの息遣いが感じられない。その様が、逆に、コノハは既にいないのだというつめたい事実の重さを知らしめてくれるようだった。

 変わることが出来ないのは、僕だけではなかった。ヒヨリもまた、あの夏の影にとらわれたままだった。ただ、ヒヨリは酷く強がりな王女様だから、そんなことを悟らせないように綺麗に笑っていたのだ。

 あの泡沫の夢のようなしあわせな非日常の日々を眩しく感じてしまっていたのも、コノハという青年が、自身の命を譲って眠りに付いてしまったことに酷く罪悪感をいだいていたのも。きっと、あの夏を夢のこととして放置して、変わってゆこうとしたことも。全て、抱え込んでヒヨリは僕の先を歩いていた。

 扉の向こうでは、すすり泣く声が繰り返されていた。謝罪の言葉が、ただただ僕の耳を打っていたけれども、僕は彼女を救うことはできない。三年前のあの夏の日、彼女を救い上げることなんて、僕はできやしなかったのだから。

 ふ、と。誰かがくすくすと笑った。距離感の捉え方なんて、永い時間の中でたっぷりと悩めばいいのだ、と。夏風はひとつ廻って、それから八月の重さをさらっていった。

 僕等はあの夏のことを夢にしてしまおうとするたび、夏影は啼いた。

 僕等は、あの夏のことを夢にすることなんて出来やしない。コノハという青年の命によって、ここで肺呼吸を繰り返せていることへの罪悪感を拭い去ることも出来ない。今はまだ、カゲロウデイズのことは生傷のようなものになっている。だけれども、大人になって変わってゆく度に、終わらない夏のことを思い出として笑い合える日が来るのかもしれない。

 まずは、ヒヨリを引っ張ってゆけるようになろう。僕にはコノハ程したたかではいられない。むしろ、とても臆病で弱い人間だ。けれども、変わってゆくための一歩は、そういった何気ないものなのかもしれないのだから。



八月、僕らはまた夏影を見る

(無かったことにしたいと慟哭した僕らを)
(やさしい青年は、いつだって笑って掬い上げるのだ)