「僕と生きてほしい」

「分かったよ」

 途切れた言葉のその先を拾ったのは、キドだった。何処か知らない遠くから視線を逸らすことなく、彼女は書類を放るかのようにそんな言葉を返してみせたのだった。不敵に笑ったキドの様子をカノは呆と見つめていた。ああ、だから彼女には敵わない。

「ねえ、キド。意味をちゃあんと分かっているよね?」

 不安になりつつ問うた言葉に小さく頷いたキドをて、カノは安心したかのように口元を緩めた。

 

「これからも一緒にいればいいんだろう?」

 ごくごく当たり前という様子で先程述べた言葉をそっくりそのままカノに返したキドはいつも通りに笑った。ああ、きっと彼女は分かっていない。返す言葉なく曖昧に微笑むカノの定まらない視線が捉えたのは、ほどかれたままの彼女の髪だった。

 程よい長さに切り揃えられた緑髪にカノはつっと目を細めた。艶やかな色合いのそれを一房掬えば、陽の光を映してきらきらと反射する。口元を緩めたカノが手を離せば、華奢な肩から零れて落ちる。

 ふいと触れ合うぬくい温度。それがきっかけだったのか手のひらを包み込んで、それからカノは指先を絡める。甘やかな吐息を零して、ついと視線をキドへと寄せる。吸い込まれそうな、綺麗な黒。未だ恋人らしい仕草に慣れないキドはくすぐったそうに肩を揺らす。

 何かを言いたげに、それでも何も言わずについとキドは顔を伏せる。彼女の眼下に垂れた長髪をやさしく掬ってやれば、強気な瞳が射抜くようにカノを見つめていた。

 

「顔をあげてよ、キド」

 零れるほどのいとしさの籠ったその声はどこかくぐもって響いた。弾かれたように顔をあげたキドはぱちぱちと瞼を瞬かせる。幼子のような仕草に、鮮やかなはちみつの色に色づいた瞳を細めた。何処からか隠したはずの独占欲が覗く。

 柔らかな頬に片手をあてがい、カノはチェシャ猫のように笑う。見開いたままの瞳は硝子玉のようだ。こわれものを扱うかのように、カノの指先はゆるりと小さな瞳を閉じさせた。

 

 顔が僅かの間だけ、重なる。

 

 ついと離した唇を薄く開いて、誤魔化すかのように笑えば、キドは睨み付けるような視線を投げ掛けた。

「人を睨み付けるのは感心しないなあ」

 黒を湛えた小さな瞳は僅かに潤んで、かなり機嫌が悪そうだ。しかしながら陶器の人形のように白い肌は微かな紅の色に色づいている。はたと息を呑んで、それからカノは珍しい彼女の様子にゆるり口角をあげる。

「ほーらほらー。さ、こっち見てよ」

「遠慮する」

 猫の目をさらに弧を描いて、カノはくつくつと笑う。色素の薄いその瞳でいとしい彼女の顔を覗きこめば、キドは幼い頃から変わらず射るような視線を投げつけた。

 

 ふいとキドは白いイヤホンコードを揺らして、何事もなかったかのように顔をあげた。流線型を描くうなじに惹かれてしまうのは不可抗力だ。誤魔化すかのように足踏みでリズムを刻む彼女の頬は未だ火照ったまま。昔から変わりやしない格好つけな彼女は今日も平凡を取り繕う。

 

 午後三時、誰しもが気だるげなある昼下がり。動くことすら億劫そうな彼らは、ふたりぶんの重さに沈むソファの上で相も変わらないやりとりを繰り返す。

「つまりさ、キド」

 呼ばれた名前に反射のように振り返るキドへ、にこやかに笑うカノがこんな言葉を述べた。

「僕と結婚してほしいってことさ」

 

 さてはて、キドがこの嘘のようなカノの言葉を本当だと気付くのはどれくらいだろうか。しかし彼女がそれに気付いてひとり悶々とする話は、また別の日、別の機会であることに違いはない。



(20140523/「僕と生きてほしい」/カノキド)

▷甘めの話の書き方が分からなくて、習作としてとりあえず一本書いたものでした。キドさんは美人であってほしいと常々思います。
/2017.12