モントレゾールの円環

17歳、世の中というものは不条理だ。昨夜まで満ちていたメロディーが朝起きたら消えてしまったりだとか、宇宙からの来訪者が突然あらわれて、一方的に大統領を名乗ったりするくらいに不条理だ。ああ、最愛の妹にお兄ちゃんなんて大嫌いと言われる日が来たならば!それは不条理なんて一言で済まないし、済ませはしないけど。


 いっそのこと重力が逆転してしまえば、きちんと道理に合った世の中というのはやって来るのかもしれない。重力が逆さまになるということは、何もかもが逆さまになるということだ。つまり、二人ちょこんと並んだガーデンスペースの隅っこは天井になって、きっとレオたちは夏空の上に座り込んで他愛のない話をするのだろう。他愛のない話なら今まさにしているじゃない、と唇を尖らせた泉に、レオは力強く首を振った。


「全然他愛のない話じゃないぞ。世の中のどーしようもない不条理さをなんとかするための、真剣な対応策だ!」


 エメラルドグリーンに星の屑。ぱちぱちと好奇心が弾けるその双眸はメロンソーダのよう。透度のたかいレオの目が、いつの間にか正面から泉を睨めあげるようにみつめている。逡巡。邪魔なんだけどぉ、と泉が苛立ったように言うものだから、しぶしぶレオは定位置である泉の隣へと戻った。


「けれども、あんたの訴えは、全然不条理でもなんでもないしねぇ……」
「冷たいっ!けどもそうかも!世の中不条理だなんてそれを除けば全然思わないし!けれどおれは納得がいかない、不条理?不平等ってやつ?セナはそう思わない?」
「思わないよ、それが法律ってものだし。そんなに気に食わなければ、れおくんがお偉いさんにでもなって変えちゃえばいいんじゃない?それこそ大統領とかにさ」
「大統領か、いーなそれ!そうすれば、こんな下らない法律なんて取りやめられる。ハッピーエンドってやつだな!」


 返答を求めて横を盗み見るが、泉はこっちを向いてくれない。ゆるるかにウェーブを描く、月のいろをした長い髪はいとも容易く泉の表情を隠してしまう。日陰とはいえ、セミロングじゃ夏は暑いんじゃないかなぁ。結んでやりたいなと思ったが、泉の髪に不用意に触れるものならたちまち怒りに焼かれてしまう。女性の機嫌を損ねるような不躾な騎士ではありたくない。はぁ、とレオは溜息をついた。


「まあ、ちょっと変な話ではあるよねぇ。結婚ができるっていうのは大人として認められるってことでしょ。女は16歳で、男は18歳。なんでそこで差をつけたかなあ。不条理でも不平等でもなんでもないけどさ」


 たたん、たたん。海外だったら違うかも。ばらついた基準はこの国だけかもしれないしねぇ、なんて会話の続きを零しながら、泉は細い人差し指で楽譜を叩いてリズムを取る。会話の合間合間でゆれていた鼻唄やら、イヤホンから漏れ聞こえる新作音源からして、どうやら譜読みの最中らしい。
 泉の持つ楽譜はユニットのもので、つまりはレオの書いた名曲のうちのひとつだ。ユニットといっても二人と一匹、それから時々追加で二人なんていう不安定なものだから、ほとんどのパートは泉とレオで振り分けている。そういうことで、自然と泉の負担は大きくなる。ああ、ユニット結成時からの仲間なのだしリトルジョンにだって歌ってもらいたい。泉の高音パート、そして猫の鳴き声。あぁ、インスピレーションが湧いてくる!閑話休題。そうではない、今のレオのなかでの最重要問題はそうではないのだ。


「そもそもさぁ」


 呆れたような泉の声が隣から上がる。女性にしてはやや低めのその声は、月夜の海岸線に寄せる波のようだ、とレオは思う。たたん、たたん。いつの間にやら、音源のリズムを取ることを泉は止めていた。楽譜を握る指先は丁寧に整えられており、小宇宙が澄ました顔をして飾られている。そーやって、細かい部分まで気を配るとこ、好きだなぁ。
 かちんと視線が合う。熱を知らない氷硝子みたいな目に貫かれることに、レオはどうしようもなく弱い。


「れおくんと結婚してあげるだなんて、あたし一言も言ってないよぉ」


的確な爆撃はレオの心臓直近へ。あれ、そうだったっけ?はやる焦燥感。記憶を掘り返すが、ない記憶はないままだ。言われればそうだったかも知れない。いやそれならば、とレオは不安に駆られながら会話をつないだ。


「それじゃ、今までのあれそれはなんだったんだ?」
「あれそれって何、れおくん」


 怪訝そうに眉を寄せているその表情でさえ、泉はうつくしい。震える睫毛の長さとか、お人形さんみたいに整った鼻のかたちとか、女の子らしい白い肌とか。隣にいると本当に良く見えてしまうもので。夏のせいには出来やしない熱が上がるのを自覚する。


「ん~?」


 楽譜を手放させて。行きどころをなくした泉の指先をおもむろに掬い上げて、そうしてゆるく絡めあう。ちょっと、という非難めいた声を上げながらも、力のこもった左手がかわいらしい。爪の小宇宙が、視界のはじっこで一瞬だけひかった気がした。いつ塗ったんだろうなぁ、昨日はなかったから今日なのは間違い無いんだけど。薄く色の乗った唇が目について、レオは自身の心臓が一段と高鳴るのを知覚する。今日のはきっと、泉の一番愛用しているリップクリームだ。情動の赴くままついと顔を寄せれば、反射的に目を閉じる様がいじらしくて仕方なかった。
 ただ互いに唇を触れ合わせて、擦り寄せるみたいなキスをする。少し角度を変えたら、今度はついばむように何度か。訪れる人の少ないガーデンスペースとはいえ、一応此処は学校の敷地内に属している。つまりは、誰かーーアイドル学科は生徒数が少ない故に大体ほとんどとは顔見知りだーーに目撃される可能性だってあるのだ。この女が自分のものだと示せるなら、とどうしようもない独占欲が思考が回す。

 本当のところ、見られてしまっても構わないとレオは思うが、泉は絶対に隠し通したいのだろう。歯列のはじをくすぐるように舌を差し込みながら、空いた手で器用にも先ほどの楽譜を拾い上げる。こうすれば、もしも見られてしまっても言い訳が聞くだろう、とレオは二人の顔がかくれるように楽譜を翳した。


 一呼吸忍ばせた泉が甘ったるい声を零したものだから、情動のままたいらげてしまおうとする本能を呑み込んで、レオはようやく顔を離した。恍惚とした様子の泉に目だけで笑んでみせて、とうに置き忘れた会話の続きを拾い上げる。


「あれそれって、そりゃあこーいうことだよ」
「……いやバッカじゃないの!?本当に馬鹿、馬鹿!あんた何考えてるのよぉ、此処学校だからね?もしも誰かに見つかったらどうすんの」


 あぁ、どう取り繕ってもやっぱり無駄らしい。学校での恋人らしい行為が泉の怒りを顕わにする一因になることは、レオもはなっから分かってはいた。そりゃあちょっとは反省している。不躾な騎士にならないと誓った直後にこの様だ。反省はしているが、一々綺麗な泉も悪い。今だって、そう。少しだけ目元のふちを赤らめて、あんなに真っ赤になって怒ったというのに、絡めあった指先を離そうとしない泉は綺麗だ。


「セナ~~おれ、一応は結婚を前提としたおつきあいをしてるつもりだったんだけど、セナは違うの?だからこーやってキスとかハグとかしてきたんだけど。……おれはセナのことが宇宙でいちばんに好きだけど、セナはおれのこときらい?」


 下から伺うように。畳み掛けるようにくっつけた最後の質問が意地悪だったのはレオが一番分かっていた。ストレートな愛の言葉に赤くなった耳元とか、伏せられた顔とかが愛おしくて堪らない。きっとそんな惚れ気、泉は一蹴するのだろうけれど。
 指先をほどいて膝を抱えた泉は、すっかり防御態勢だ。顔を伏せて、ウェーブのかかった月のいろの髪が泉の周りを覆うと、得体の知れないいきもののようになった。「きらい、な、わけないじゃん」と銀色のいきものがぐぐもった声を零すのでレオは思わず破顔する。


「嫌いなわけないじゃん。そーいうことするの……いやじゃないし。れおくんがこの関係性に先をみていることくらい分かるよ」


 未だ顔を上げない銀色のいきものから、素直なこたえが漏れるのは珍しい。れおくんはずるい、と空白の後に付け足された言葉は知らないふりをした。泉の声は、やっぱちょっといつもより甘ったるい気がする。ああそうか、おれのせい?

 リップクリームが少しうつってしまったらしい。てらてらしている自身の唇を舐めてから、上機嫌にレオは鼻歌を口ずさむ。


「なぁセナ~~結婚しよ」
「却下」


 未だ顔を上げられないくせに、泉はすげなく言い切るもので。その気負いにおされてレオは眉を下げざるを得なかった。ああ、なんて哀しきこと!それだというのに泉は追い討ちをかける。


「っていうかれおくん、自分で言ってたけどまだ結婚できる歳じゃないでしょ。17歳なんだし」
「うっ、そーだけど……セナは結婚できるのにおれは結婚できないなんて、世の中は不条理だし法律は不平等だ……」


 ばたん。失意のままガーデンスペースの一角に倒れ混むと、土のにおいがした。服汚れちゃうよぉ、と諦めがちに放たれた泉の言葉をよそに、レオはごろごろと何度か転がり込む。

 お、よーやくいつもの泉だ。転がっている最中、銀色のいきものがちゃんと皮肉屋のクールな泉になっているのを視界の端でみとめつつ、この最大の難問への対応策を考える。宇宙人にアブダクションしてもらって、年齢を改造してもらうか?いやいや、宇宙人を探しに行くのは億劫だ。それよりタイムマシンを使って未来へ行くとか?


「どんなトンデモを想像いるのか知らないけど、あんたが18歳で結婚できる歳だとしても、あたしはあんたと結婚してあげないよぉ」
「えっ」


 メロンソーダの宇宙に、ぱちりと星が散る。ああ、なんてことだ。二重で追い討ちを掛けられたレオは三たび目を瞬かせながら、「セナぁ」と甘ったるく呼んでみる。が、今度の泉はそうそうに顔色を変えない。「しないよ、結婚」と言い聞かせるように泉がもう一度繰り返すと、レオは捨てられた犬のようにくしゃりと表情をゆるめた。レオは獅子であるから、犬ではなくネコ科に分類される筈なのだが。


「『瀬名泉』はねぇ、そんなすぐ手が届くような安ものじゃないの」


さっきの可愛らしい気配は何処へやら。それはもう、百点満点でいえば百二十点の完璧な笑顔だった。流石はモデルと感心してしまうくらいに、きっかり計算された笑みのかたちも射るような眼差しも、レオが愛して止まないものだ。けれどもここでこの笑顔に折れて仕舞えば男が廃るといえる。

 それに仕事もあるだろうし、とまた泉は理由を足す。いやいやと首を振って駄々をこねてみるが、泉もまた強情なために折れてくれやしない。


「セナもおれも好きあってるんだから、結婚のひとつやふたつくらいいいじゃん」
「結婚にひとつもふたつもないっていうの、ばっかじゃないのぉ」
「言われればそうだな!やっぱりセナは賢い!」


  わはは、と仰向けになりながらレオは大きく手を広げる。そんなことで褒めてもどーすんの、と降る声に見上げれば、泉は髪をくるくるともて遊んでいた。やっぱり、結んでいないセミロングは暑そうだ。勝手に視線がゆれて、小さな膨らみのある胸に向くのもまた男の性なのだろう。



「というかさぁ、どうしてそんなことを突然言い出したの?昨日まで結婚のけの字すら口に出さなかったのにさ。しかも、何故このタイミングで?」


 数分後、狙いすましたかのように確信へと弾丸を放ったのは、譜読みを再開した泉だった。ひゅっ、と心臓の横をすり抜けた弾丸に思わず息が止まる。打てばその倍は響くように返答をしていたレオが、口を閉ざす。そうして沈黙した様子を訝んだのか、泉が重ねて追従するものだから。


「理由があるでしょ。はい、ちゃんと言ってごらん?」
「う~?」
「はい、さっさと理由を言って。やっぱりさっきの返してもらうしかないかなぁ。もう10回は言ってるよぉ、学校でそーいう行動を取るなって」


 さっきのこと、まだ怒ってる。もにょもにょと曖昧に言葉を融かしこんだレオに、容赦なく泉は責め立てる。先程のキスを返せなんて無茶な話をするものだ。してしまったものを返却することなんて出来ないのに。


「……言わなきゃダメ?」
「ダメ。あたしの唇を勝手に奪った罪は重いよぉ」


 泉はレオの困ったような表情が弱い。だというのに、全く引く気のない今日の泉は寧ろ、レオの表情を面白がっているみたいだ。きれいな顔立ちの隙間から悪戯心がちらちらと覗いている。毒舌苛烈マシンガンみたいな泉にそういう所があるのは重々承知していたが、こうやって自分へ矛先を向けられるのは困る。困るのだが、もう逃げ場はない。叱られる前の子供みたいな気分だ。じぃっと此方に視線を投げ下ろす泉に、レオは降参せざるをえなかった。


「……だって」


無言の押し問答の果てに、しぶしぶ声帯を震わせれば拗ねた子供のような声が落ちた。対する泉は、すずやかな顔つきのまま、レオの続きの言葉を待っている。そんな大人びた表情に、ぞくりと背筋を何かが這うのを知覚せざるをえなかった。髪の長さも輪郭も服装もそれほど変わっていない。けれども間違いなく、16歳の泉は15歳の時よりも綺麗になった。


「だって、セナはもう結婚できる歳だし。昨日よりも今日、今日よりも明日って具合にセナは綺麗になっていくから。……おれがもだもだしてる内に、誰かに取られちゃうんじゃないかな~って」


 本心を言うのは、やっぱりレオでも気恥ずかしい。慌ててじょーだんだよ、と茶目っ気を付け加えようとして、レオは出かかっていた言葉を飲みこまざるをえなかった。見上げたアイスブルーの双眸がゆっくりまあるくなったからだ。ゆるんだ位置にある眉も、落っこちてきそうな目も、あんまり見たことのないものなので。少し戸惑ったように視線を揺らせば、切れかけた会話の尾をつかんだ泉が、導くようにレオの名前を呼んだ。


「れおくん」


 仰向けになっていたレオに、人影が落ちる。驚いて見上げれば、息遣いすら聞こえてしまいそうな至近距離で片手をつく泉とかち合った。銀砂のような髪を気怠げに耳にかける仕草でさえ、一々絵になるのが羨ましい。もう少し近付きたくて額をくっつけあえば、泉は目を細めた。

 熱を知らないアイスブルー、とレオは例えた。けれども、よくよくみれば冷たい青の炎がちろちろと火を灯している。それっぽっちでどうしようもなく期待してしまう。ああ、本当にこの女は。吐息だけで愛おしい名を呼べば、泉は本当に珍しく、自分から唇を重ねてきた。


 先に舌を差し込んできたのも、泉の方だった。ぎこちなくかたわれを探しに侵入してきたそれに、積極的だなと思いながら自分の舌を絡めてやる。おっかなびっくりなのは、きっと自分からするのに慣れていないからだろうなぁ。けれども、昔よりも鼻で呼吸するのが上手くなった。おれが教えたからか。

 片腕を伸ばして、不安定な泉の頭に手を回して、位置を固定してやる。戯れに舌の裏側をなぞってやれば、ふっ、と抑えきれない甘い声が漏れる。かわいい、と零したのをきっと泉は聞いていない。


 始めたのが泉だったなら、終わらしたのもまた泉だった。名残惜しげに唇を離せば、どちらのものかわからない糸が引く。それを躊躇いもなく切った泉は、仄かに火照った頬をしていた。

 暑そうだなぁ。なんて他人事のように思っていると、泉はまた額をくっつけてくる。流れるままに再び目を瞑れば、なんという予想外。唇が触れ合うかどうかの距離で、泉はちいさな声で囁いた。


「さっきのキス分、ちゃんと返してもらったからねぇ」


思考がどうにも追いつかない。熱のじっくり篭ったアイスブルーが、とろけるようにゆるんでいる。ふふ、と華奢な肩を揺らした泉が更に言葉を重ねた。


「仕方がないから、待っててあげる。あんたがきちんと18歳になったとき、あたしが認めるくらいじゅーぶん格好いい大人になってたら。……まぁ考えてあげてもいいよ」


『瀬名泉』を予約させてあげるなんて、希少なことなんだからねぇ。そうやって口角を上げたレオの恋人は、どうしようもないくらいに可愛いものだったので。ぱちん、と追いついた思考。あんまり煽らないでほしいなぁと思いながら、たまらずレオは三度目のキスを仕掛けてしまった。




(20170728/モントレゾールの円環/レオいず♀)

▷17歳の青年はサイコー、という溢れんばかりの思いをぶつけました。何かと頭の片隅に大事に取っておいた話だったのですが、近年法律が改正されてここ五年のうちに男子の結婚可能年齢もまた16歳に引き下げられると聞き、焦って引っ張り出した記憶があります。
/2017.12