アドニス・ブルーのゆくすえ

 朱が知っていた彼はいつだって聡明で、深淵を覗き込んだかのようなアドニス・ブルーの双眸はつめたさに満ちていた。朱にとって彼は、尊敬する刑事であり、朱を執着させるひとであった。猟犬ではなく、刑事として働きたいと告げた彼の確固たる意思を持つ声は脳内に焼き付けられてしまった。そんなひとであったから、朱は彼を尊敬していたのだ。しかし、潜在犯の持つ独特の猟犬としての習性は、三年という長い長い年月のうちに彼の身体に染み付いてしまった。飼い慣らされた猟犬として、獲物を追い詰めるときだけに心底楽しげに緩められる口角が、爛々と光の踊る双眸が、朱はすこうしばかり苦手だった。


 それでも朱は知っている、彼の根本を占めるのは生真面目さであったことを。彼と行動を共にすることが可能だったのは極僅かな時間だ。それは、宜野座と彼が親友であった期間に比べれば瞬き程度のものだ。しかしながら、様々な分野の読書を好むことを、本を傷つけることがないように爪先は切り揃えられていたことを知っている。

 穏やかに凪いだ海原を想起させる双眸が文字の羅列を追う様には、猟犬の持つ荒々しさはなかったこと。コーヒーに砂糖をつぎ込むことを嫌い、角砂糖を2つばかり投入する朱に苦笑すること。紫煙をくゆらせる彼の表情が酷く物憂げで、朱のこころを惹いたこと。ひとつひとつ、丹念に彼についての情報を拾う度に、彼の元に近づいてゆく心持ちにかられて朱はひっそりと満足していた。彼のことを深く知り、彼の後ろ姿を追いかけ続ければ、きっと彼の見ているものと同じものを見れるのだろうと。彼の行動原理や思考回路を完全に知ることが出来るのだろうと。


 甘い考えだと気付くには、時は遅かった。頭の良い朱が幻想を即座に否定できなかったのは、麦畑に佇む彼が、槙島を殺してしまった彼が朱の目前から去ってしまうまで、まだ未熟でかよわい女の子であったから。それに他ならなかったからだ。

皮肉なことだ、と朱はぼんやり思う。誰かの手の平の上でひっそりと庇護される立場から抜け出したいと願ったのは他でもない朱自身であったはずなのに。それだから口端に乗せた「正義」を振りかざして、朱はシステムからの託宣を「偽善者」に対して向け続けていたのに。色のまっくろな「偽善者」の最期は、いつだって痛ましい。それを淡々と見届け続けるつよさを持てるひとに成長できたことに、ちいさな自己満足すら抱いていたのだ。「監視官」は「執行官」に庇護されているからこそ、託宣の銃口を淡々と向けることが可能であったことに、朱は時が過ぎるまで気付かなかった。


 それは朱がシステムの全容を知り、エゴと呼ぶべき私情への理不尽さを飲み込んだ時でさえも。

 だから、朱は彼の見慣れた背中を追いかけて、彼を連れ戻しにゆこう、 という甘い決意することが可能だった。彼の思考回路や行動原理を慎重に、緩やかに、人差し指で英単語をなぞるようにすれば、きっと彼の見ているものを見れるのだろう。また同じように隣を歩けるのだろう。基盤のない確信を抱えながら、朱はこのうわ言を、神様気取りのシビュラシステムに叩きつけることができたのだ。


 朱にとっての転換点は、蒼い双眸だ。


 結論として、彼を連れ戻すことは叶わなかった。 彼は余りにも槙島という男に執着し過ぎていた。それを甘く見越してしまったのは、宜野座でも六合塚でもなく、朱だった。思考回路や行動原理をなぞることができたとしても、朱と彼との間には目的意識という明確な差異が存在していた。

 彼は刑事として職を全うすることはなかった。最後に見たのは、朱の苦手な爛々とした猟犬の双眸だ。つめたいアドニス・ブルーは少しだけすまなさそうに目尻を下げていたと朱は記憶している。彼は猟犬らしく相手の喉笛を噛みちぎった後に、朱が否定し切れないこのシステムの循環から自意で且つ完全に逸脱してしまった。朱色の夕暮れに響きわたる一発の銃声が鼓膜を震わせた、そのとき。初めて朱はひとりで歩き出せるつよさがあることに、今までの自分がどれほど未熟であったかに気付いたのだった。


 後悔という感情は、どこまでも朱に絡みつく。 「あのときに、彼を止められるだけの力があれば」朱は何百回と思い返してはやまない。それが不可能であったことを知っていながら、朱はそう考えてしまう。それはちょうど茨のようなもので、歩きだそうとする度に足首へとくい込むのだ。

 後悔という下らない感情は、朱の深層心理の中で満ち引きを繰り返している感情であり、いつの間にか今の朱の基盤となってしまった感情でもある。そのことを朱自身が誰よりも深く知覚していた。


 憧れという甘く柔らかい言葉で包めるに及ばない程には、こころの内側で彼の存在は変化してしまった。朱にとっての彼は、いつの間にか今では依存へとかたちを変えている。そのことを把握し切れない程度の未熟さなんてものは、既にあのときに空き缶と一緒に捨てている。それだから、朱はしたたかで頭のよい、つよい女性になったのだ。こころの内側にシステムの測りきれない依存を仕舞い込み、深層に行き所のなくした後悔を抱えたまま。

 使われることのないぴかぴかのキッチン、人工の月の光が零れて落ちるサイドチェスト。ひとりが暮らすには広すぎる自室はどこかがらんどうだ。そこを彼の残した煙草の苦さで満たすことだけが、朱にとっての追憶であり、彼への依存であり、どうしようもない後悔へ勝手な償いなのである。


 紫煙をくゆらせながら、朱はひとつひとつ彼の特徴や性格、行動原理や思考回路をなぞることにする。それはいつからか癖になってしまったもので、彼のいなくなった刑事課一係はそれをうっすらと容認していた。ブラックコーヒーを無意識にスプーンでかき混ぜながら、『車輪の下』の一節を読み上げる。彼の部屋には、窓すらなかったことを思い出して、乱反射する街灯りとこの部屋を隔絶する。うすらくらい部屋の一角で、ある時は解決し難い問題――それはときどき解決法が存在していないものもある――について思考したり、システムの消えた世界についてうつらうつらと思いを馳せたり、あるいはどうでも良い記憶について呆然と辿ることもある。それは傍目からみると余りに滑稽な様だろう。しかし、朱は心底この時間を愛しんでいた。秘め事は、朱に背徳感と満足感を与える。


 朱は時折紫煙の内側で夢をみる。可能性の先にあった仮定の夢を。アドニス・ブルーの双眸は柔らかく細められて、システムに管理された閉塞的な街を見上げている。人工的な空のブルーは、彼の双眸に比べてしまえばどこまでもつくりものの様に思えてしまう。コーヒー缶を二つ分抱えた朱が、そう思いながら彼の隣に立ち止まり、同じように高層ビルを見上げる。デバイスの着信に、短いやりとりを交わした後に不意と朱が彼の名前を呼ぶ。いつものように呼んだ名前に呆れがちに彼は笑って、また事件か、と問う。ええ、と朱が答えれば、ぶっきらぼうな彼は面白くなさそうに煙草をくわえなおすのだろう。その煙の行く末を目で追う度に、夢の中で朱はすこしだけ泣きたくなるのだった。


 重い瞼を開けば、彼が自意で逸脱した、完全なシステムによって完成された閉塞的な街だけがそこにある。どれだけ自身の未熟さを後悔しても、どれだけ思考回路をなぞったところで、彼はここへ戻ってくることはない。彼の隣で、肩を並べて事件を捜査することは二度とない。その事実を頭のよい朱はひとつも間違えることなく認識していた。それでも、なきたくなるのだ。いくらしたたかでつよい女性になったといえども、朱は彼に関する部分はひとつも変われやしない。


 朱を依存させてしまう程まで執着させる男の名前を、狡噛慎也という。「なんてずるい、ひと」という朱の独白は、紫煙に巻かれて融解した。



(20150301/アドニスブルーのゆくすえ/狡朱)

▷劇場版ありがとうございました記念。サイコパスの劇場版を見に行く機会がありまして、観覧後に色々と考えが変わったので、メモがてらに書き留めたものです。大きなスクリーンの上でサイコパスのキャラクターたちが生き生きと動くさまがサイコーでした。三期放映をいつまでも待っています。
/2017.12