(十)くじら座[Ceteus]にアリアは捧げられない

アリア…独唱歌。オペラなどの劇音楽や宗教声楽曲で歌われる器械伴奏付きの旋律的な独唱歌のことを言う。また、演奏会用に作曲された抒情的な小歌曲のことも言う。


 あの日、52ヘルツのクジラがこの街に打ち上げられた日。世界一孤独なクジラが死んだ日。件のクジラの遺体が横たえられていたその浜辺に、月城はー「くじら」は居た。


 宵闇に融解しきった海はさんざめく。白々とした細月がさやかにひかり、「くじら」の人間離れした姿を浮かび上がらせていた。病的なほどに透け切った裸足が、楽しそうに砂浜を蹴る。水と戯れる。ぶかぶかのカーデガンでさえ、「くじら」の異常な美を飾りたてている。カーデガンのその下の薄い皮膚に、自分と同じ心臓が、膵臓が埋め込まれている。薄い桃色の唇が開き、音を紡ぐ。言葉を紡ぐ。喉奥で振動されたエーテルは、奇妙なうつくしさを孕んだ歌声へと昇華されてゆく。「くじら」だけの海に、錆がかった歌声が拡散する。行く末を失った指先を重ね合わせて、「くじら」は以前と同じように、祈るように、うたを歌っていた。

「くじら」は蓮のことに気づいていない様子だった。酷く楽しげにうたを歌いながら、水と戯れながらくるくるとおどけた様に踊る。水が跳ねるたびに、「くじら」のまくり上げられたズボンの裾は濡れてしまう。けれども「くじら」をそれを気にした素振りを全く見せずに、楽しげにうたを歌い続けている。その様は、あまりに完成しきっていて、蓮自身が加わる余地なんて感じさせない。熱を帯びていた衝動が、くすぶってゆく。どうしようもない感情を持て余しながら、道を戻ろうとしたところで、「くじら」と三度目があった。

 柘榴色の双眸。宝石のような二つ目には、弦のような、線のような薄月が浮かんでいた。うつくしい双眸だ、と蓮は改めて認識する。どうして、寂しい眼をするいきものは、こうも魅力的なのだろうか。孤独を訴えかけるようなその双眸に、蓮は呼び掛けた。この不思議なアルビノの少年を呼ぶための名前を、蓮はもう知っている。


「くじら」

 歌が止む。アルビノの青年は、傍から見たならば奇妙だと思えるその呼び名に、驚くことはなかった。ただ、一度だけ眼を伏せて、それから整ったかんばせに笑みを載せる。きっかり感情をみせないような、その笑顔に、蓮は少しだけ怯みそうになる。一々ひとつの動作が絵になる少年だ。この瞬間でさえも、「くじら」はうつくしい。

「52ヘルツのクジラ、俺の夢で俺のピアノを聞いてくれたクジラ。なあ、月城。お前だろう?お前が、あのクジラなんだろう?」

 静かに、蓮は「くじら」に問うた。視線を合わせながら、海に掻き消えないくらいの、けれども秘密話を明かすかのような声量で。「くじら」は答えることなく、ただ自分だけの海に侵入してきた者に、穏やかな視線を投げかけ続けている。なにも言葉のないこの空間で、ただ潮騒だけが途切れることなくつづいていた。


「海神様は、」

 短いような、長いようなこの沈黙を先に破ったのは「くじら」だった。奇妙な錆がかった声が、恐れることなく言葉を紡ぐ。夏にしてはつめたすぎる風が、しろく透き通った髪を揺らす。伏せられていた睫毛は震えて、朝露に濡れたような柘榴色の眼を再び覗かせた。

 わだつみ、海神。普段聞きなれない言葉を変換するのに、蓮には数秒が必要だった。わだつみ、海の神様。一体自分たちには縁のなさげなその単語が、どう話に繋がってゆくのか、蓮には全く予想できずに、「くじら」の言葉の先を待った。

「海神様は、海のいきものが死ぬ前に、ひとつだけ願い事を叶えさせてくれる。例えば、一日中くうたら寝る生活を過ごしたいと願えば、来世にはナマケモノになれるし、一日だけ自由に泳ぎたいと願えば、例え力無い熱帯魚でも、自由に泳げる時間的猶予が与えられる。要するに、恩赦のようなものなんだ」

「それで、お前は何を願ったんだ?」

 「くじら」の言う海神という存在が、どういうものなのか、蓮には想像がつかなかった。それが概念的なものなのか、はたまたいきものの形をとっているのか。絶対的なちからを持つ、海の神様。けれども、「くじら」がそれを尊いものとして話すから、蓮は疑問を投げかけず、会話の先を聞いた。


「人になりたい、と」

 潮騒の音が、やけに鮮明に聞こえた。「くじら」は、海に浸したままの裸足で、優雅にステップを踏んでいる。くるくると。「くじら」がこの浜辺で踊るだけで、元々ここには絵になってしまうほどの気品とうつくしさが備わっているように思えてしまう。あわい月のひかりが、「くじら」の色のない髪を、透明に染め上げていた。

 「人になりたい」という願いを掛けた「くじら」。もしも、その願いが成就したならば、経歴はどうであれ、目の前の青年は、夢の中で蓮が戯れていた世界一孤独なクジラそのものなのだろう。錆がかったうつくしい声も、孤独を孕んだ目も、同一のものだった。

 けれども、もしも海神から掛けられる恩赦を、クジラ自身が選択することができたとしたならば。

「叶えられる願いが自分で選べたのならば、なんでお前は『人になりたい』だなんて、願いを掛けたんだ?お前は仲間のクジラと同じコミュニケーションツールを、周波数を得ることだって出来たはずなのに。そうしたならば、もうお前は世界一孤独な存在ではなくなる筈なのに。そうすれば、その奇妙な錆がかった声を捨てることができたのに」

 訴えるような蓮の言葉を、「くじら」は一笑に付した。

「海神様と同じことを言うんだね、少年。海神様も、君と同じことを言ってきたんだ。人の姿であることで、何の得があるというのか?と。人の姿でいるよりも、ただのクジラとして生きてゆく方が息がしやすいだろうと。海神様自身、人の姿をとっているというのにね」

「海神様も、そうおっしゃったのに。それなのに、なんで」

「だって、もしもそうなってしまったら」


 「くじら」は相変わらずうつくしい笑みを乗せていた。その笑みに、少しだけ秘密めいた色を被せる。絵画か映画のワンシーンのようだ、と蓮は思いながら、「くじら」の次の言葉に耳を澄ました。


「君との約束が果たせなくだろう?少年」

 ああ、やはり「くじら」はあの52ヘルツのクジラなのだ。蓮のピアノの音が、このクジラに約束という縛りを与え続けている。もしも蓮のピアノがなかったならば。このクジラはただのクジラとして、同じ周波数を持つ同胞たちと共に大海原を回遊していたのかもしれないのだ。それを奪ってしまったのは、紛れもなく蓮自身だった。

「ごめん。もしも、俺のピアノ音がなかったなら、きっとお前は人になんてならずに済んだのにな。俺の無駄なピアノが、周波数に噛み合ってしまったんだろう?もしも、そんなことがなければ、お前の足を引っ張っている、その声を無くす事ができただろうに」


 自責の言葉に、「くじら」は被り振る。気にも留めていないという様子で、小さく笑った。蓮は、悪くないのだと言うように。

「そんなことはない、だって人間になってみたかったものだから、都合がいい。それに、おれは自分の声が、そんなに嫌いじゃない」

 「それから、」と「くじら」は少し腹を立てた調子で言葉を続ける。

「自分のピアノを卑下しないで欲しいって昔言ったじゃないか、少年。完璧じゃなくても、ところどころ解れていても、おれは君のピアノの音を気に入っているんだから。身近に、それを認めてくれるひとが一人くらいはいただろう?」

 その言葉に、先刻の凛の声を鮮明に思い出す。「完璧じゃなくても、感銘を受けたひとが一人でもいたことを知ってほしい」

 叫んだ凛の声は、蓮の心臓の一番奥に大切にしまい込まれている。ああ、確かに。確かに凛は、自分のピアノを好んでいてくれた。ぼろぼろな自分のピアノ音を愛していてくれた。どれだけ、蓮があのコンクールでのエチュードを酷評しようとも、その姿勢を、その曲を聴いてくれるひとは確かに存在していたのだ。それから「くじら」もまた、蓮のピアノを気に入ってくれていた。ただ、世界一孤独なクジラと同一の周波数をもつだけで、ただの会話ツールとしか扱われていないと蓮は考えていたのに。それでも「くじら」はこの音を好んでいてくれたのだ。


 少しだけ、思い出す。遠い、遠い在ったかもしれない昔のことを。誕生日プレゼントとして用意された、おもちゃのピアノ。今思い返せば、チープなプラスチック製のそれ。けれども自分の指で押さえつけた鍵盤は、確かな音を紡いだ。その瞬間、確かに蓮は楽しんでいたのだ。嬉しく思っていたのだ。ピアノの音を紡ぐことを、心の底から蓮は楽しんでいた。


「その様子じゃ、まだ自分のピアノを愛しきれていないんだね。約束が果たされるまで、あと何十年かかるだろう?」

 残念そうな、「くじら」の声を引き止めた。今度は確かな意思をもって、確実に。あと数センチで、あのコンクールの日に捨て置いてしまった、自分のピアノを認められる気がした。

「何十年も待たせやしないさ、後数ヶ月だけ、自分を見つめ直す期間が欲しいだけ。そうしたら、お前のために一曲弾いてみせるから」

 数瞬。「くじら」は驚いたかのように、眉を上げる。けれども、その後はいつもどおりの澄まし顔で、「そう」と告げた。

「だったら、良かった。おじいちゃんになるまで待つのはごめんだったから。それじゃおれも、君のピアノにつりあうくらいの歌声にまで昇華しておかなくちゃ」

 揺蕩うクラゲのように。海の上に放り出された「くじら」の四肢は、ほんとうにもともとはクジラであったのかと疑うほどにほっそりとしていた。柳のような腕が、懐にしまいこまれていた楽譜をつかみあげる。そうしてから、気紛れな「くじら」は、手にしていた楽譜を放り投げた。途端、楽譜は海水に侵食されてゆく。「くじら」はその一部始終をつまらなそうに見つめている。

 自由ないきものだ。その自由さが、蓮の自重から蓮自身を解放してくれた。それならば、蓮はこの「くじら」に対してどういう手段を取れば良いのだろうか。この自由な「くじら」に染み付いた孤独を、蓮は振り払ってしまいたかった。


 「くじら」の双眸を覗き込んで、蓮は息を飲んだ。「くじら」のうつくしい双眸に、星屑が散っている。潮騒の音ともに、双眸に写りこんだ逆さ月は割れた。反射した水面は写りこんで、「くじら」の柘榴色の二つ目はさながらひとつの宇宙として形成されていた。きらめくようなその双眸に、深い孤独のような色合いはもう既にない。

 どうして、これほどまでに単純なことに気付けなかったのだろうか。

「…でもまあ、お前が人になれた事でメリットはあるんじゃないか」

蓮が徐ろに口を開けば、「くじら」は水に浸かっていた上半身を起こす。興味心に弾けた瞳は、夜の隙間で鮮烈な色合いをみせた。

「クジラと人ではピアノを介してでしかできなかった会話も、こうして人の言葉を使えば簡単に、もっと情報量の多いやりとりを交わすことができる。これで、俺は、お前に見せたかったもの、教えたかったもの全部を見せることが出来るんだ」

「くじら」もまた、ちいさく息を飲んだ。海にいきるものでは無くなってしまった「くじら」は、大量の海水を飲み込んでしまって、溺れるかのように四肢をばたつかせた。けれども、「くじら」は泳ぎ方を知っている。暫くして、人の身体での泳ぎ方に慣れてきた「くじら」は、大量の海水を吐き出した後に、浅瀬に座り込んだ。


 まだ、少しだけ距離が残っている。蓮と「くじら」には、余所余所しい他人のパーソナルスペースが二つ分空けられていた。それは、手が届くかどうかという、微妙な。海と空の境界線は、淡い夜が融かし込んでしまった。だからこそ、距離感の境界線さえも、夜が融かし込んでしまったのだと結論づけて、蓮は「くじら」のパーソナルスペースを割って、人のかたちをとるいきものに手を差し出した。

「もう、お前はひとりじゃない。まずは、友達からはじめよう」

 友達から初めて、そうしたら昔馴染みの凛を紹介しよう。お気に入りの駄菓子屋を紹介して、そしてこの小さな街に溢れている噂話を語るのもいいかもしれない。蓮のピアノの話も語ろうか。この街が、どれだけ息苦しくて、けれども愛おしいふるさとなのかを。

 差し出したその手を、濡れた手のひらが包み込んだ。正しいひとのぬくもりに、蓮は最後の確認のように、その双眸をみつめた。


 柘榴色の双眸は、やっぱりうつくしいままだった。