戯言と少年

飽きもせずに今日も地球は夜を連れてくる。どうしようもない寂しさと、唐突な孤独感と一緒に。

それは、波の満ち引きに良く似ている。昼間の間は全くその気配を感じさせることがないのに、夜の色が空を満たす度に顔を覗かせる。夜というものは、何処か死神を感じさせる。夜という名の冷たい指先が触れるたび溢れて零れ落ちる感情に、カノは時折泣き出しそうに笑う。

 

カノという人間は絶妙につりあった天秤の上で生きているようだ。3.5gと3.5gでつりあった天秤の上で彼は飄々と笑ってみせる。大丈夫さ、このくらい。そんな言葉を吐く彼のこころはいつだって不安で満たされている。ただただ、それを見せることがないだけ。彼は今日も笑っていた。

それでも、カノは夜というものだけは苦手だった。夜になると、行き所のない感情が喉元までせり上がるのだ。冷たい指先がカノの頬をなぞる。吐き出してしまえ、全部、ぜんぶ。カノが生きる天秤は、そんなささやかなことでぐらぐらと落ち着くことなく揺れる。右か、左か。つりあっていた天秤はもうつりあうことがなくなる。

ある時に、どうしようもない寂しさにカノは抱えてきた膨大な感情を吐き出したことがあった。真っ白なつきがモーニングブレッドの並ぶ白い食器に良く似ていたことをカノは鮮明に覚えている。塗りつぶされた暗い空は何処か人工的で、カノに閉塞感をもたらした。繁華街から聞こえる嬌声から耳を塞いで、カノはベッドの上に腰掛けていた。へらりと笑う口元から零れたのは弱弱しい掠れた声。紛れもなくカノのものであるそれは小さな部屋の空気を震わせた。ああ、しにたいな。

 

不思議なことにその言葉は、抱え込んできた感情を幾分か楽にさせた。幼い頃、どうしようもなく焼き付けられた記憶によるものなのか、何時の頃も抱いていた自虐心によるものなのか。もしくは、そのどちらかなのか。どちらにせよ、言葉にした感情は二度と胸をつかえることがなかった。

それでもカノはどうしようもない罪悪感に苛まれた。しにたい、だなんて言ってはいけなかった。いくら辛いだろうとしても、いくらつかえが取れようだとしても、言ってはいけなかったのに。押しつぶされかけたカノのこころを新たに生まれたその感情はゆるやかに侵食した。

 

カノの「友達一号」で、大切な家族で、幼馴染の少女について話そう。

彼女は誰からも愛されていた。蝶と花を愛す少女で、家族からも可愛がられていた。赤色のスカートがお気に入りで、きちんと櫛で整えられた翡翠色の髪を後ろに垂らしていた。ああ、そう思ったのはカノだけだった。痛み=愛の方程式しか彼は知らなかった。彼女が涙目で語った世界はカノに新しい視点をもたらした。それはいともたやすく常識として捉えていた方程式を壊してしまった。

みんな、みんなしんじゃった。目を伏せながら空気を揺らしたその声は、どうしようもない孤独と寂しさで満ちていた。緋色、ヒーロー。その時、熟れた石榴に良く似た空の下で彼女とカノは佇んでいた。きぃきぃと音を立てる錆びたブランコにはもう既に誰もいない。ふたりきり、ふたりぼっちの公園の映像が映画のワンシーンのように再生される。

呆とした表情で少女を見つめていたカノに、彼女は笑いかけた。つぼみだった花が一斉に開くかのような笑顔で、華奢で弱弱しい両手でカノの身体を抱きしめながら。震えた肩と、重なった心音。甘ったるいリンスの香りが鼻腔をくすぐって、彼方へと通り過ぎてゆくまでの微かな時間。彼女は、子供らしくない甘やかな声でカノの耳元に囁いてみせた。

ぜったいに、しにたいなんて言わないで。

カノがしにたいだなんて思ったら、わたしはどうやっていきてゆけばいいの。

 

耳にこびりついたその声は今日もカノを苛ませる。しにたいな、なんて思ったその日から夜が訪れる度に、記憶はカセットテープのように巻き戻る。ブランコの軋む音、不規則に重なる心音。なんども、何度も繰り返される甘やかな声にカノは瞼を閉じた。溢れて零れる感情を必死に飲み込んで、今日もカノは泣きそうに笑ってみせる。明日は、サンドイッチだったらいいな。誤魔化しのように吐き捨てた言葉は夜を震わした。

 

 

(戯言と少年/20140723/カノキド)