(六)カンタータは歌われない・後半

カンタータ…単声のための器楽伴奏付きの声楽作品のこと。元来は動詞「歌う」の分詞形であり、「歌われるもの」を指し示す。



 意思を持って見据えられた二つ目に、「くじら」はほうとエーテルを吐いた。言葉はあぶくにはならない。ここは、海の底ではなく、小さな町の高校の教室だから。その代わりに二酸化炭素として空気中に融解してゆく。続いた言葉は蓮の期待通りだった。

「いいよ。君と、君たちのクラスメイトになら」

 その言葉に、「くじら」を囲む女子たちは一層華やいだ様子をみせた。「ほんとうに歌ってくれるのー?」「さっきまで、あれほど嫌がってたのに?」という声が次々上がる中も、「くじら」は曖昧に微笑みをかたちづくってみせていた。感情を隠すのが上手なやつだ、と蓮は思う。これだけ多くの人間に囲まれていたとしても、彼の二つ目から孤独な色合いが消えることはないのだろうから。気になった蓮は、かんばせの奥を見据えた。孤独な色合いをはらんだ柘榴色の双眸は、瞼の裏にしまいこまれており、覗き込むことはできない。代わりに、悩ましげに寄せられた眉の白さが蓮の目の奥を灼く。宝石のような、骨董品の一部のような色合いは、異形のものだけがもつものだ。


 ほっそりとした指先が胸の前で重ね合わせられた。まるで、誰かに祈りを捧げるみたいに。夏らしいにおいをつれた陽光が、整ったかんばせの輪郭をくっきりと印象付ける。動きをなくした「くじら」は、美術館の彫像のようにも思えた。かたくなに閉じられた瞼の裏側で、きっと今も彼は孤独を見ている。教室の端、下のほうが泥に汚れた白いカーテンが揺られていた。白、しろ。何もない色をもつ青年の、うすい唇が音を紡ごうとする。ブレス音。それは、遊泳するかのように。二拍分の休符の後、彼はうたをうたいだした。

 奇妙な声だ。その声を聞いて受けたいちばん初めのインスピレーションは、筆舌尽くしがたいその一言に集約された。彼がうたうその曲は、バッハのもの。音楽の父と呼ばれたバッハが作曲した、カンタータ第147番の「主よ、人の望みの喜びよ」。蓮も気に入っているその曲は、世界でも言わずと知れた有名曲のひとつだった。

 耳を塞ぎたくなるほどに、ひどい歌声というわけではない。現に、蓮の絶対音感は彼がただしいメロディラインを沿って歌い上げていることを訴えていた。


 それでは、この奇妙な感覚は一体何なのだろうか。蓮はひそやかに眉を寄せた。正しい位置にある正しい音符を歌い上げているのに、何かが違う。白鍵を弾いてしまった蓮とは、異なる何か。けれども、「くじら」の歌声はどうしようもなく胸の奥をさざめき立たせた。一体、何が。蓮は「くじら」の姿に素早く視線を走らせた。

 原因はすぐに判明した。奇妙な感覚をもたらすその正体は、「くじら」の声質だった。錆の入り込んだような、醜くしかしどこか耳に残る声質。喉の奥に引っかかるような、ひとには持ち得ない深みのある音。それが、蓮に違和感を与えていた原因だった。掠れかけのようなそれは、確かに彼の地声なのだろう。何度も何度もくりかえし練習してきただろうパートを、彼は奇妙な声質のまま、技術を駆使して歌い上げている。

「くじら」には声楽の技術も、メロディーセンスも、豪胆さも、リズム感覚も持ち合わせていた。もしかすると、蓮と同様に絶対音感を持ち合わせているのかもしれない。こと声楽の技術に関しては、蓮よりも、プロよりも上だろう。けれども蓮は確信してしまった。彼はプロにはなれない。生まれ持った、醜い声質のせいで。


 「くじら」の声質は、ひとには受け付けられないだろう。音楽に知識のあるひとでなければ、「くじら」のその声質は、技術ミスとして捉えられてしまうのかもしれない。現に今、「くじら」を取り込んでいた女子たちは皆、唇を固く結んで、眉を寄せている。ひとりが、その声に耐え切れなくなったかのように距離をおけば、ふたり、さんにんと続いてゆく。パーソナルスペースをはかる距離から、何か自身を脅かすものに出会った時の距離へ。錆がかったその声質すら、よく耳をすませば、うつくしいものであると気付けるはずなのに。「くじら」はきっと、絶対零度の音楽の世界で生存してゆくことはできない。彼のうたは、誰にも理解されない。どれだけ目を合わせてみても意思は、音は、言葉は、チャンネルは誰にも理解されない。意思は図れない。どれだけ近くに寄り添ってみても、思いは伝わらない。


 ほんとうに、52ヘルツのクジラみたいだ。52ヘルツのクジラは、仲間と同じ周波数を扱うことが許されない。アルビノの転校生もまた、音を普通に扱うことが許されない。願うように、祈るように蓮は両指を絡めあった。脳裏をよぎったのは、今朝、浜辺に打ち上げられた世界一孤独なクジラのこと。彼はどのような思いで、ここへと流れ着いたのだろうか。その最期は昏くつめたいものであったのだろうか。錆がかった唄声に、妙に気をとられながら、確信のない違和感を覚えながら、蓮は静かに息を詰めた。



7.オプリガートはやまない