シガレットケースのふところ

※うっすらとした事後描写あり



 密やかに月は揺れる。微かな唇音が無意識をかすめるので、深夜の淵に沈めた意識は既にすくい上げられているしまった。薄明、朝と夜の境界線じみた時間には、いきものの生活する音はまだ聞こえない。このちいさな部屋で繰り返される呼吸音はふたりぶんで、つまらない顔しかできない私と、それから瞼を閉じて思いを馳せる青年のぶんだけだった。うつらうつらとした私の意識を、再びの唇音が掠めた。つめたさと熱を知覚するような、すこしだけかすれた低い声。私の耳によく馴染んだ声は、どうやら古いメロディを口ずさんでいるようだった。

 誰の声なのか、なんてことは分かりきっていた。この空間で息づくのは、夜を共に超えた私と青年以外はいないのだから。けれども、口ずさまれたそれがあまりに陽気なメロディだったから。あまりにも青年のイメージとかけ離れていたから。だからこそ私は驚きに眉をひそめざるおえなかったのだ。枕に顔を埋めながら、青年の口ずさむ音に私は耳をそばだてた。青年は、まだ私が眠っているのだと思っているようで、気持ち良さげにうたをうたう。異国の言葉で彩られたメロディーは、不思議と心臓の奥底をざわざわとさせる。そのくすぐったさに耐え切れなくなって、顔を伏せたまま私は青年を形容することばを呼んだ。

「アヴェンジャー」

 はたり、とメロディが止んだ。蒙昧。うすくらい照明のなかで、ようやく私の二つ目は光彩を捉えられるようになる。ベッドの端に腰を下ろしている人影が、緩やかに振り向いた。そうして見上げた青年は、存外穏やかな表情をしていた。

「何のうたなの、キミが唄っていたそれは」

「古い船乗りのうたさ、マスター。マルセイユの船乗りなら誰でも知っている」

 掠れた低い声が緩やかに鼓膜を震わせて、それからわたしのちいさな心臓をも震わせた。なんてことのないように言葉を返した彼ーアヴェンジャーと、視線が絡み合った。

 なかなか彼は、整っていた顔立ちをしている。切れ長な瞳は蠍の火のようにあかあかと燃えており、異国のひとらしく彫りの深いかんばせだ。けれども彼は、どうしようもなく寂しい表情をするひとだった。何処までこころとこころを近付けたとしても、彼の本質を受け止めることはできないと悟らせるほどに。それが哀しくてたまらなくて、私は絡み合った視線を揺らして、よれたシーツにもう一度顔をうずめた。


 私の呼び出したサーヴァントである彼は、復讐という領分を受け持つ鬼だった。或いは、マルセイユの船乗りの男の成れの果て。或いは、最後に最愛の女の祝福を得たエドモン・ダンテスに戻れなかった男。そして、魂と身体のつながりを隔絶されたイフ城で、暗闇を導いてくれた私だけのファリア神父。様々な代名詞で表すことができるけれども、そのどれもが彼の一面を映し出していた。

 対する私は、しがいのない一般人で、簡単に言えば常人よりも少しだけ魔力のある人間だった。私は、誰からも期待を向けられないはずだった。カルデアには、期待される人々が沢山いたから。けれども、たった一晩のうちに、私が寝込んでいた数時間のうちに、世界を救う救世主という役割を充てられてしまった。

 嬉しいとか困ったと言った感情は浮き上がって来なかった。既にそういった問題ではなくなってしまっていたのだ。その役割は義務という形で私を締め付けて、私は希望のたいまつを掲げて、この世界に挑まねばならなくなった。この世界はもう既にこんなにもくたびれていてぼろぼろだというのに、その癖どこまでも強大だった。世界を救うための、有り体にいえば生贄。ただ、それだけのつまらない存在が私だった。


 救世主の看板を背負ったマスターと、復讐鬼として現界したアヴェンジャー。正反対の存在である私たち。きっと、何かの因果がないかぎり、お互い知らぬままだっただろう。けれども魂だけが乖離したあの空間で、私たちは出会ってしまった。外に出れる者と出れない者。導く者と導かれる者。理解する者と理解される者。相容れない存在であるにも関わらず、私たちは深くこころとこころを近づけあったのだ。

けれども、どこまでこころを近づけあっても、私は救世主として奉られた、しがいのない一般人で、彼は復讐という領分を統括する鬼だった。決して相容れない存在に変わりはなかったのだ、私たちは。余りにも彼の受け持つ復讐という領分は大きすぎて、私には受け止めることができなかった。あかあかと松明のように力強い瞳が、ふと寂しげに揺れる様をみたときに、私はそれを痛感せざるをえなかった。


 ぎしりとスプリングが二人分の重さに軋んだ。私がもう一度眠りに落ちたと思ったのか、はたまた私に飽いてしまったのか。やるせない身体を起こす気力もなく、寝そべったまま、私は月を見上げることにした。逡巡。目を瞑って、あたらしく繋がれたパスの強度を確認する。正しい位置で正しく流れてゆくマナに、私は安堵の溜息をついた。

 素肌はまだ熱を持っていて、ざらざらとした布の感触が少しだけ痛く思えた。ほつれてしまった自身の髪の一房には、苦いタバコのにおいが染み込んでしまっていた。ああ、きっとアヴェンジャーが吸っていたせいなのだろう。彼に文句を言わねばならない。吐こうとした言葉は、彼の背中に増やしてしまった赤い蚯蚓脹れを見て、溜飲に帰した。

 朝の気配を知覚したのか、月はゆるやかに融解する。薄いカーテンの向こう側の世界、溶けだしていく月は、少しだけ寂しそうにしている。夜が終われば、すぐに朝が来る。朝を迎えて、昼を過ごして、そうして一日の締めくくりに再度夜が全てを塗りつぶして。平凡に世界は巡ってゆく、巡ってゆくはずだったのだ。 一晩のうちに、人類史が焼却される未来なんて観測されなければ。


 その未来が観測されなければ、私は救世主の役割を背負うこともなかった。ただのしがいのない一般人として街の雑踏のなかで息をしていた筈なのだ。その不条理さに、私はゆっくりと唇を噛み締めた。救世主としての役割は、果たさなければならない。それは一瞬ののろいじみたもので、私のこころを時折暗くする。

そういえば、アヴェンジャーも私にのろいじみた言葉を残していった。イフ城での7日間の最後に、英霊の座へと還ってゆく彼は私を激励したのだ。その言葉は前を向くには相応しい別れのことばだった。けれども、言い換えてしまえば、それは予言のようなものであり、ある一種ののろいでもあった。

『お前は、いつの日にか世界を救うだろう』

 彼の言葉は、私の心臓に絡み付いてしまった。結局のところ、彼もまた私の救世主としてのかんばせしか見ていなかったのだろう。魂だけの7日のうちに、思っていたよりも私は彼を理解者として深く受け入れていていた。それだから、理解されていないことが少しだけ哀しかった。

 確かに、救世主としてあるからこそ様々なことは許されてきた。救世主としてサーヴァントをしたがえて、彼等と共に戦線を張ることを否定したい訳ではない。むしろ彼等と共に過ごす時間はとても有意義で、楽しかったのだ。けれども、私は酷く浅ましくてわがままな娘だから、私という個を認めてくれる人が欲しかった。無責任だと詰られても仕方が無い。アヴェンジャーの受け持つ本質を受け止めきれない癖に、彼には私自身を認めて欲しかっただなんて。どれだけこころを触れ合わせても、やはり分かりあえないところがあるのは哀しくて、寂しいのだ。


 パスの接続が不安定に揺れた。刹那。ひかりを弾いた柘榴色の瞳が、私の眼前に迫っていた。あかあかと燃える瞳は、とてもきれいで、その中に映り込んだ私は酷い顔をしている。鮮やかな赤色を前にすると、わたしは獣に射すくめられた気分になる。それでも、視線を外すことは、私にはもうできなかった。

「どうしたの、アヴェンジャー。パスは繋がっているはずだけれども」

 誰しもが恋人同士だと思えるような距離感のなかで、私は息をつくように囁いた。これだけ距離が近くても、どれだけ肌と肌をふやかして重ねてみても、私はマスターで、彼はサーヴァントなのだ。

「お前は、オレが思った程にしたたかではないのだな」

「失望した?私は、酷く浅はかでわがままな娘だよ」

 どうやら、パスを介して心情が伝わってしまったらしい。私は口元を上げて、酷薄そうに笑ってみせた。彼が何処までも誠実な人間だから、彼が思ったことをすぐに言葉にする。彼のそういう部分を、私はいたく気に入っていた。

「まあ、簡単にいえばその通りだ」

 何でもないように頷いた彼を見て、私は眉尻を下げざるをえなかった。したたかな救世主としてのかんばせを外してしまえば、あとに残るのはつまらない顔しかできない私だけなのだ。ただ、彼は浅ましい私のかんばせを知らなかった。それだけの話だ。哀しむこともなにもない。

「だが、それは関係がない」

 するり、行きどころを失った武骨な指先が、私の身体の線をなぞって、そうして心臓が埋め込まれたあたりを軽く叩いた。温度を感じさせない指先に、やはり私と彼は違う存在なのだと否応なく認識してしまう。数回そこを叩いた指先は、私の右手へ向かっていく。

「やはり、お前は、いつの日にか世界を救うのだろう」

 私の右手をなぞってから、彼は器用に瞳だけで笑んでみせる。気付けば、手のうちがわに滑り込んだ彼の指先が、いつの間にか私の右手をすくい上げていた。ぴんと張り詰めた私の指先までも、温度を失ってしまいそうだった。このひとは、私の熱を奪い去ってしまう程に大きな、冷たい感情を司っている。

「それは、私が救世主。人類史最後のマスターだから?」

 言葉はすぐに口をついて出た。あのイフ城で口にした言葉が、再度彼の口から零れるとは思いもよらなかった。若しかすると、これは彼なりの慰めの言葉なのかもしれない。けれども、今の私にとっては、予言めいたその言葉が一番心臓を傷つけるのだ。私は世界を救わねばならない。そういう役割を引き受けたからだ。世界を救えないだなんて言うことはできない。けれども世界を救う救世主だからこそ、彼はその言葉を送ったに違いない。


「それは違うぞ」

 思いもよらないその言葉に、私は小さく息を噛み殺してしまった。歯間をすり抜けた言葉は、音にならず、だれにも知らぬところに融解した。きっと今の私の表情は、目が覚める程に馬鹿馬鹿しいのだろう。

「お前が、人間らしい欲求を持っているからだ。そうだろう、マスター」

 可笑しくてたまらないといった風に、彼は口角をあげた。口元から覗いた舌の色は、肉食獣のそれだった。すくい上げた私の右の手の甲をひとなでしてから、静かに指先を絡めあってみせた。彼の手のひらは、私の小さな手のひらよりも二回りも大きくて、指先は、男のひとだけが持つ厚い皮膚で覆われていた。傷の多い手のひらだった。彼が、苦労をして時代を生き抜いてきたことを語る手のひらだった。指先はいきものの温度こそは伝えてこなかったけれど、少し深爪気味な指のかたちが、いとおしく思えた。


 どれだけこころとこころを近づけあっても、私たち二人は決して相容れることはない存在なのだろう。彼は復讐を司る鬼で、私は救世主としての役割を果たすマスターだ。私たちはお互いの本質を受けとめることはできない。出会ったときからそうであったのだから。けれども、私たちが違う存在であるからこそ、こうして指先を絡めあったり、言葉を共有することができるのだ。彼は、私の醜い承認欲求や浅はかさをひっくるめてーむしろその欲求のある人間だからこそ、世界を救うことができるのだと言った。その答えさえ知れたならば、私はもう迷わずにすむ気がした。



(20160529/シガレットケースのふところ/エドぐだ♀)

▷「お前はいつの日にか世界を救うだろう」という台詞についての、エドモン・ダンテスとぐだ子の見解の相違の話。監獄島イベントお疲れ様でした。育成しきれず、結果最後までシナリオを読むことが出来なかったのがとても悔しくて、こっそりと実況でストーリーを追ったところ、気付いたらここまで転がっていました。エドモン・ダンテスが元船乗りという部分がサイコーにツボです。