サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の恋人

 

 

 途端、鼻孔をかすめた埃の匂いと投影された色彩のうつくしさにレオは顔を上げた。

 

うすくらい教会内の、一際目立つその場所に飾られたステンドグラス。聖人たちの穏やかな微笑を、淡い朝のひかりが透かしこんでいた。白に統一された精緻な装飾の中では、一層ひかりのいろが引き立つ様に、この光景を設計した遠く昔の偉大な建築家を思う。

 過去に思いを巡らせるその一瞬、レオのもとからざわめきが遠ざかる。畏怖すべきこの荘厳な建築物とレオだけの世界が築き上げられるのだ。

 

性能の良いレオの耳は、観光客のざわめきも隣の汽笛の音もフィレンツェの街を満たす葉擦れさえもシャットアウトしてしまう。波打つように収縮と発散をくりかえすひかりたち。その変則的な動きを追ううちに、感性がゆるやかにメロディとして形をなしてゆく。

これはレオの天賦の才のひとつであり、同時に欠点に挙げられてしまう部分でもあった。誰かが引き戻さない限り、レオは何処までも自分の想像を追求してしまう。加えて、この状態のレオを確実に引き戻せる保証など、誰ひとりとして持っていないのだから。レオはその気になれば、何処までも想像を渡り歩ける器を有していることを、レオを知る人たちはよくよく承知していた。それでも、彼等はレオを呼び止めようと、此方側へ引き戻そうと声を掛けてしまうのだ。

 

「れおくん」

たしなめるような声が、レオの耳元に落ちる。その声が全てだった。葉擦れが、汽笛の音が、ざわめきがレオへと返還される。そうして漸く、レオは傍にいたもう一人の男へと焦点を合わせた。レオの昔からの戦友で、相棒で、インスピレーションの源泉でありつづける男。十字架を背に佇む泉に、レオは見入ってしまう。

……セナ?」

疑問のかたちを呈しつつ、言葉を返した。すると、泉はいつも通り口元をゆるめてみせた。その笑みに、別離に対する淋しさが篭められていることには、見ないふりをして。

 

フィレンツェを拠点として活動する泉とは異なり、レオにとってこの都市は活動場所の一部に過ぎなかった。レオの類まれな才能は、高校生のときより各国に名声を轟かせており、それ故卒業後すぐに多くの仕事を依頼されていた。それでも、せめてと交渉した結果がこの都市での数ヶ月の共同生活だった。住処であるマンションに飛び込んだときの、泉の顔を今でもレオは忘れられない。レオは、憔悴をのぞかせたただ一人の相棒を放置できるような男ではなかった。だからこそ。泉の生活サイクルも安定してきた今こそが、レオはこの地を離れる潮時だった。

 

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の窓を透過しては零れた陽光のなかで、剥離した埃がいろを散乱させてゆく。十字架の影が落ちたサラテリ・グレイの癖毛。まなこの奥に潜む青がゆらゆらと満ちては引いていくさまに、うつくしいと。一体何百回目かの声なき感嘆を零す。何度も見初めなおしてしまう青が、不意に瞼の裏へと隠されてゆくその一部始終を、レオはじっと見つめていた。

指先を重ね合わせる姿に、泉が祈りを捧げているのだと気付く。微動だにしない灰の男に、彼の真摯さを垣間見た。仕切りのはめ込まれていない石窓から、街を巡り巡る涼風が吹き込む。共に流れ込んだ街のにおいとざわめきに、泉とともに過ごした数ヶ月を精彩に思い出した。

カッライア橋の向こう側に位置するカフェに見出した二人だけの特等席。サント・スピリト通りで見かけた子猫が、少しリトル・ジョンに似ていたこと。クロックムッシュを口に入れる泉の幸福そうな表情。アルノ川のせせらぎに耳を傾けながら、泉の初仕事に祝杯を上げた夜。共同生活の最終日に、最初で最後の二人きりの観光をしようと決めた、泉の淋しげな笑い方。どれもこれもが、忘れることのできやしないものであり、同時にレオの想像力の核として刻み込まれているものでもあった。

 

数多くのうつくしい思い出を抱きかかえながら、泉にならうようにしてレオもまた目を瞑った。神様。本当は、神様も仏様も見たことはないから、いまいち想像しにくいのだけれど。どうか、どうか。おれの戦友で、相棒で、一等星でもあるこの男が幸福に生きてゆきますように。この都市で、セナがセナらしさを存分に発揮できて、世界中の誰よりもうつくしいのだと証明できますように。

 

 

「それでなんだけどさ、セナ。さっきは何をあれ程まで真剣に祈っていたの?」

「何、アンタ見てたの? ……別に。これからの俺の生活ができうる限り順調に進みますように、ってお願いしてただけだよ。俺はアンタと違って、海外につてがあるわけでもないし、この業界でひとり上手くやっていけるか心配な面も残ってたしね。」

「わはは、なんだかちょっとセナっぽくないな! いつものセナなら、神頼みするくらいなら自分の努力で賄ってやる! ってくらいの気概を見せるのに。やっぱり海外生活は不安なんだな」

「うるさいな、別にいいでしょ。それよりも、れおくんが俺のこと全部理解しているみたいな話し方するとムカつくんだけど。高校時代の反省点を生かしてよねぇ……

 

 明滅する電光掲示板を確認し、レオと泉はほんのすこしペースを上げた。リノリウムの床の上を、スーツケースの車輪が忙しなく回る。駆け足気味なレオ達に、フランス特有の柔らかな日差しが燦々と降り注いでいる。

鉄筋が規則的に組み込まれた近現代的な駅の上部に、昔日のバザールの面影を見た。その複雑さにこみ上げたインスピレーションを飲み込み、レオはプラットホームへと急ぐ。サンタ・マリア・ノヴェッラ駅10:15発は、もう間もなく発車する。

 それでも会話が途切れないのは、別離を前に膨れ上がった思い出に、整理がつけきれていないからだった。カフェの話、猫の話、祝杯をあげた話。懐かしむようにして話す泉の姿に、彼もまたレオとの思い出を大事にしたためていることを知る。上げれば上げる程きりのない話題の果てに挙げられたのが、先の教会のことだった。あの時、あれ程まで真摯な表情で、泉が一体何を祈っていたのか。レオはどうしてもそれが知りたかったのだ。

 この男の祈りがどうか叶いますよう、と小さく呟いた。この男のうつくしさを全世界に知らしめることは、レオにとっての祈りでもあったから。

 

……バカみたい。そうだよね、アンタには隠しごとなんて通用しないなんて、分かってたのに。アンタは俺のことをちゃんと理解してる。最後だっていうのに、こんなところまで見栄を張っちゃうんだから」

あのね、本当のことを言うよ。と、唐突に泉が言葉を切り出したのは、高速列車専用のホームでのことだった。先鋭的な意匠の凝らされたプラットホームは、宇宙船の発着場のようだ、と柄にもないことを思う。発車間近であることを訴える駅長の声。旅路のお供にと、モノプリ・グルメのブルーチーズを勧める売り子の声に、別離を惜しむ家族の声がこだましていた。

あらゆる人々の道程が瞬きの間交錯しては、発散してゆく場所。泉と自分の辿りゆく道程も似たものなのだろうか、と思う。隣で恋人らが長いキスを交わしている。人目を憚らない恋路に、気の逸れたレオは口笛を吹いていた。

 

「本当はね、アンタの無事を祈ってたの。この列車が無事に目的地につきますように。搭乗する飛行機が無事に発着できますように。ひどい事件に巻き込まれませんように。これから世界中を飛び回る分、危険な目に合う可能性が上がるだろうから。ちょっとした、おまじないみたいな。……らしくない、子供っぽいって、れおくんは思う?」

咄嗟に、後方を振り返った。天井から降り注ぐ木漏れ日がゆるやかに収束と発散をくりかえしている。巷に溢れかえっていたざわめきが、レオの耳からはらはらと零れ落ちてゆく。そうして、レオだけの世界が。レオと泉だけの世界が構築されてゆく。線路を背にし、逸らすことなくレオただひとりを見つめている灰の男。静かな湖畔を想起させるまなざし。サラテリ・グレイの睫毛に星が散る。教会のときよりも、さらに明瞭な陰影がその美を映し出す。例えるなら、其処だけが時の止まったようで。

スーツケースが平衡を崩した。そなえられた車輪がからからと無意味に回る。レオがその取っ手を離してしまった、そのせいで。大きな音を立てて、スーツケースが倒れ込むのを他所に。空いた両手を大きく広げて、そのままレオは無我夢中に泉へと抱きついた。胸元に頭を何度も押し付けながら、レオは泣き出しそうな声で返答する。

 

「すげー、嬉しい。セナがそうやって素直に言ってくれるのも、おれの身を案じてくれているのも。やっぱり、おれたちは根底がよく似ているんだろうな。おれもセナも、相手のことを心配してばっかだ」

自分よりも背の高い相棒を、レオはゆっくりと見上げた。前髪に隠れた泉のかんばせのなかに、気恥ずかしさを認めて、レオは回した腕に力を込めた。

「ねえ、セナ。おれ、セナの顔がみたい」

途端、弾かれたように泉は顔を上げた。隙間から覗いたのは、驚きにゆれる湖畔の碧。その色があまりに克明に情動を反射させていたので、どうしようもなく愛おしく思えたので。衝動的に、レオは泉に顔を寄せたのだ。

数刻の間。それは、さながら映画のワンシーンのように、鮮やかな。りりり、と発車を知らせるベルを合図に、レオはくちびるを離した。転がったまま放置していたスーツケースを慌てて引っつかみ、レオは豪快に泉へと笑いかけた。

「なあ、セナ。おれの戦友で、相棒で、おれにとっての一等星で有り続ける男でもある、セナ! 必ず、必ずおれは此処へ戻ってくるよ。だって、お前はいつだっておれの手を引っ張ってくれるもんな! 再会したらまた、この都市であたらしい思い出を重ねよう。だって此処は」

世界でいちばんお前がうつくしいって証明される、最初の街だから。

 

飛び乗った列車が、ゆっくりと動き出す。平衡を崩しかけたレオは、あわてて手すりに持たれかけた。ホームを滑り出す武骨な機体。その箱の中から窓の外を見つめた。華やぐサンタ・マリア・ノヴェッラ駅のプラットホーム。ざわめく観光客たち。痴話喧嘩を始めたらしい恋人たちと、売り子の怒号。数多の人混みのなか、一際ひかるレオだけの一等星を認めて、レオは口元を緩めた。

 

 

(サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の恋人たち/レオいず/20190514

▷君のいる街は、世界でいちばんうつくしいひとがいる街。

返礼祭後、ぐちゃぐちゃになった情動をなんとか整理したくて、四月五月の間はずっと瞬間日記をとりとめない感情の吐き出し場所として利用していました。五月の末になってようやくフィレンツェにいる二人に関する解釈がまとまったので、「わたしのフィレンツェのレオいずはこうです!」という感想文を書き上げようと思い立ちました。丁度、同時期に物書きの知人と統一テーマで書きあいしようと画策していたので、その時のテーマ「駅」を拝借しています。

なんとなく察されていそうですが、わたしは実在の場所をテーマに話を書くのがめちゃくちゃ好きです。/2019.08