理想と虚像

 起き抜けに1度、寝る前にもう一度。いつからだったか、一日に二度、大鏡を見に行くことが、おれのたいせつな日課だった。食堂に続くひろい廊下に、無造作に置かれた姿見をおれは愛用していた。その鏡に映りこむおれは、決まって藤色の髪をほうぼうに跳ねさせて、眠たげな赤い目を擦ってこちらを見つめている。おれが右手を上げると、鏡の向こう側のおれも右手を上げるし、おもむろに手のひらを押しつければ、鏡の向こう側も、全く同時に鏡に手のひらを押し付けてくる。そうやって鏡の前で意味の無い決まった仕草を数分間繰り返して、それで終わりだ。


 日課を終えたおれは、廊下のさきを辿って子供部屋に向かう。そこにはまったく作りの同じヴィンテージ品の机が二つ並んでいて、伊澄と書かれたプレートが掲げられている方に、おれの兄さんは座っている。ほうぼうに跳ねた藤色の髪と、眠たげな赤い目。おれと同じ顔をした兄さんが、おれとは違う仕草をする。

 俗にいえば、おれと兄さんは双子というらしい。物心ついた頃から、同じ顔をした奴が目の前にいるのが当たり前だった。おれが笑えば兄さんも笑ったし、兄さんが好きなものはおれも好きだったし、兄さんが嫌いなものはおれも嫌いだった。兄さんが出来る事はおれも出来たし、それならば兄さんが出来ないことは、おれもできないのだと、そう信じ込んでいた。

 兄さんが苦心して仕上げた作品をおれがものの数秒で仕上げてしまえる才があることに、おれ自身が気づくまでは。


 神様というやつはなかなか残酷で、おれには類稀な才能を与えた癖に、兄さんには何一つ与えなかった。この才が切っ掛けになったのか、まるで鏡みたいに同じだったおれ達は、別々の行動を取るようになった。おれが何一つ苦労をせずに天才の名を欲しいままにしてゆく度に、兄さんはおれの陰にうずもれていくようになった。兄さんが死を求めるようになったのも、確かこの頃からだった。兄さんの死にたがり癖が、別に生まれつきでないことをおれは知っている。これを伝えないは、優しさからではなくて、そうであった方がおれにとって都合がいいからだ。


 兄さんはおれに対してひた隠しにしていることがある。それはきっと、何も無い兄さんが俺に対して有利な立場で居続けるために兄さん自身が仕掛けた唯一のセーフティーのようなものだとおれは思っている。薫という女の子の存在を、兄さんはおれには話さない。薫が原因不明かつ不治の病に掛かっていることも、兄さんが薫に救われたことも、兄さんが薫という女の子に恋をしていることもおれには話さない。けれども、おれも兄さんに対して薫の話を持ち出さないから、兄さんはおれに対して有利な立場に居続けていると信じている。

 これを伝えないのは、おれにとって都合がいいからではない。おれが持つ、なけなしの良心と優しさからだ。


 兄さんは、薫に対してもう何年も恋をしている。    

 けれどもおれは、その恋がけして叶うことが無いことを知っている。兄さんは、その話を知った時、きっと酷く狼狽する。悲嘆に暮れて、もしかすると身を投げてしまうかもしれない。そう考えると、おれは酷くひえびえとした思いに駆られる。

 結局のところ、おれの隣にいた人間が、虚像ではないおれと同じ顔をした人間が、おれのいちばんの比較対象になってくれた人間が居なくなるのが、おれは恐ろしいのだ。



薄羽蜉蝣は星の記憶と/しぐれの話