回転木馬への13ステップ

 それは、プラットホームから見上げるとろりとした月が素敵な夜のことでした。キドには月を毎晩見上げて、感傷的なこころに浸るひとではありませんでした。しかし、そんなキドですら、ほうと言葉を失くしてしまうほどにその夜の満月はうつくしかったのです。

 しらじらとした光は、夜の隙間からはらはらと零れ落ちておりまして、月にすむうさぎの姿ですらこんなにも明確に見えるのですもの!こんなに素敵な夜はないだろう、とキドは白いエーテルを吐き出すのでした。


 プラットホームには、列車滑り込んでくる気配ひとつ見当たりません。実のところ、この駅には今晩もう列車はやって来ないのです。終電を逃してしまったキドと、もうひとり。皮肉めいた嘘つきだけが、ぼんやりと夜明けを乗せているはずの始発を待っているのでした。嘘つきの名前は、カノというのですが、カノとキドは互いのことをよく理解していました。キドは、今晩の素敵な月について、きっとカノも同じように思っているに違いないと考えていました。

 ところが、隣でふうふうと手のひらを暖めようとしているカノにとってはそうではなかったようなのです。やさしい琥珀じみたふたつ目は、白い息にけぶっていまして、月の光をぱちぱちと弾けさせておりました。いつもよりも何倍もうつくしい虹彩は、どうしてかキドのこころを震わせるのでした。そんなことを知ってか知らずか、素敵な満月の姿を映し出した双眸は、更に色をぼうと灯すのです。
 そうして、素敵な月を一通り見つめた後、うつくしい虹彩の持ち主はころころと笑ったのでした。
「ねえ、キド。今晩の月は何だかカステラみたいだねえ!」

 ああ、なんていう人なのでしょう。キドが素敵だと評した月を、カステラだなんて。しかし、言われてみれば、あたたかい黄色をレースの羽織のようにまとう満月は、ふくふくとしたカステラによく似ているのです。冴え冴えと零れ落ちた光は、ざらめのよう!しかし、かたちだけはカステラには似ても似つかない円形なのです。例えるとしたなら、パンケーキに近いような気もします。

 合点の行かない様子のキドに気付いたのでしょうか。細い瞳孔をさらにぺしゃりとつぶしながら、カノは歌うように付け加えたのです。
「『ぐらがおなべのふたをとると、まあ!きいろいかすてらが、ふんわりとかおをだしました』」

 ああ、成る程!キドは、そんな一文が乗っていた絵本を思い出しました。まあるくて、フライパンいっぱいに焼きあがったカステラ!確かにこの素敵な満月は、あの絵本に登場するカステラにそっくりなのです。
 幼い頃には、なんども絵本の読み聞かせに耳を傾けたものでした。そのたび、このまんまるで黄色いカステラに夢をひとつ、ふたつと詰め込んでいったものです。それから、カステラをほんとうに楽しそうにつくるぐりとぐらの姿にも。


 ぐりとぐら。そういえば彼らはきょうだいだったなあと、キドは幸せなこころの隅っこで思い出します。ねずみのきょうだいのぐりとぐら。キドは、赤いとんがり帽と青いとんがり帽、どちらがぐりとぐらだったかは覚えていませんが、ふたりがとても勇敢で、仲のいいきょうだいだったことはぴりりと記憶に残っているのでした。
 実のところ、カノとキド、あともうひとりの青年はきょうだいなのです。ただ、血は繋がっていませんから、幼馴染といってもいいのかもしれません。ぐりとぐらのように仲がいいという言葉には不釣合いかもしれませんが、キドはカノのことを十二分に理解しているつもりでしたし、カノもまたそうであろうという自信はたっぷりとあります。ただ、ふたりとも酷く臆病でしたから、ぐりとぐらのように勇猛果敢ではありません。それでもカノとキドは、ふらつきながら、すれ違いながらもここまで生きてきたのです。
 

 ぐりとぐら。カノとキド。なんだか心地のいい語呂のせいか、キドはふたつの言葉を交互に口内で転がしました。ころり、ころり。甘ったるくて小さな言葉の粒は、まるでこんぺいとうのようです。
「今日は上機嫌だね、キドは」
「そりゃあそうさ!こんなにも素敵な月夜なのだから」
 ほうほう白い息を吐きながらそう言いますと、つられた様に白々とした自販機が、ヴヴンと唸るのです。この静寂に満ちた駅の中で、そんなに大きな唸り声がしてしまえば、空から星が落っこちてしまうのではないでしょうか。ついでに、カステラじみたお月様も一緒に転がってくるのかもしれない。キドがそんな類のことを楽しそうに呟きますと、そんなカノは、猫目をついと細めるのでした。そう。ちょうど大人ぶった子供を見つめるように、です。


 カノとキドは、ぐりとぐらのように互いのことをよく知っていましたが、勿論互いに内緒の事柄だってありました。例えば、カノが深夜に甘ったるい毒牙の匂いをまとわせていても、キドは何をしてきたのかなんて聞きませんし訪ねません。きっとそれは、カノだけの内緒の事柄なのでしょうから。反面、キドにもちゃんと内緒の話がありました。

 カノには絶対の内緒の話をひとつ。
 キドはカノのそういった二つ目だけは好きではありませんでした。カノとキドは、ぐりとぐら。キドは、カノの大部分のところ(それは例えば目をぺしゃりとしながら笑う仕草とか、舞台俳優さながらの立ち振る舞いとかのことを指すのですが、あげ続けてしまえばきりがありません)を好いているのですが、嘘つきなところとその目だけは好きにはなれなかったのです。仕方がないなあ、と細められる猫目から溢れて、零れるきらきらとした感情は、どこからみても兄から妹に向けられるそれだったのですから。簡単に名付けてしまえば、家族愛、と呼ばれるものです。


 カノには絶対の内緒の話をもうひとつ。
 実のところ、キドはカノのことが好きでした。これは勿論、家族としてでもありますが、それならばキドとカノの大切な兄弟の青年のことも、あの素敵なお月様のことも好きだということになります。
 しかし、キドがやさしい嘘つきに抱いている「好き」はそういった好きの意味よりももっと柔らかくて、こころのたいせつなところにじかに触れてゆくような、こんぺいとうよりも甘ったるい「好き」なのです。この感情には、大昔の偉い人は「恋」やら「愛」やらと名前をつけていたようですが、どうもこのくずぐったい感情にはぴったりの名前をつけてあげることはできません。そうしている内にもキドのまんまるできいろい「好き」はむくむくと膨れ上がるのでした。

 けれども、肝心のカノといえばちっとも、キドをひとりの女の子と見てはくれないのでした。カノにとって、キドは守ってやらねばならない妹というまま、びくとも動かないらしいのです。確かに、キド自身可愛らしい赤のスカートや、ミルクレープのように幾重にも重ねられたフリルへの執着も、とうの昔のある出来事のせいで、炎にまかれて大方を燃やされてしまったのですが、それでもきっと、時期が過ぎれば、キドが守ってもらうような妹ではなくて、したたかな女の子であることに気付くのではないだろうか、と信じていたのです。

 ところが、事は思うようには行きません。キドが膨れ上がる感情になんとか名札をつけようと格闘しているうちに、時は一年、二年と過ぎてしまっていました。どんどんと、髪が伸び、睫毛が長くなり、丸みを帯びほっそりとした身体つきになってゆくキドでしたが、どうやら変わらずカノの中では妹という位置づけのままなのです。カノが上で、キドが下。その証拠がほら、慈しむように細められた猫目なのでした。



 プラットホームの照明はおんぼろなようで、ちかちかと点滅を繰り返していました。てらてらと反射する時刻表をなんども、なんども確認してみるのですが、相変わらずアクリル板の向こう側に貼り付けられたダイヤはすまし顔な様子で、夜明けまで列車はないようでした。隣で、つまらなそうに星を数えるカノを傍目に、キドは月を見上げました。遠く、遠くで全てを達観したように浮かぶ月。ぼんやりと、キドは寒さでかじかんでしまった頭でこんなようなことを考えるのでした。

(ああ、どうすればカノと同じところへゆけるだろうか!)

 どうすれば、あのやさしい嘘つきが、キドがしたたかな女の子で、守ってもらう妹ではないことに気付くだろう。そうして、そのことに気付いたとき、あの優しい嘘つきのかんばせはどんな風になるのだろう?

 甘いこんぺいとうを噛み砕くように、キドは誰にも聞こえないような声で優しい嘘つきの名前を呼んでるみるのですが、相も変わらずひょうひょうとしたかんばせを貼り付けた嘘つきは星を数えるだけなのです。いーち、にぃ。子供なのは、一体どっちなのでしょうか。そう零したくなるこころを掬い上げて、キドもまた、肉眼で見える世界のうちに映りこんだ星の数を数えて見せるのでした。


 くすくすくす。くすくす。笑い始めたのは一体どちらが先立ったでしょうか。つめたい深夜のエーテルを、笑い声が震わせます。これでは、自販機の唸り声のせいではなく、カノとキドの二人のせいで、星や月が落っこちてきてしまうかもしれません。それでは、ここまで数えた星の数が全く違うものになってしまうでしょう。けれども、それでも構わないくらいに今晩は素敵な夜なのです!カステラのようにまあるい月を、こんなにうつくしく見たことはありません。今晩のように素敵な夜には、やはりそれなりに相応しいものが必要ではないでしょうか。ラッピングの掛けられたジュエリーボックスも素敵ですが、やはりこういう夜にはワルツひとつくらいがぴったりかもしれません。

 カノがそう考えていることくらいキドには簡単に分かってしまいます。何にせよ、ぐりとぐら。あのねずみのきょうだいに似た二人なのですから。カノのことをよく理解しているキドにとっては、そんなことは簡単な話なのです。

「今晩はこんなに素敵な夜だから、ワルツの一つくらいどうだろう。ねえ、キド」

 差し出された手のひらは、もうすでにきちんと男の子の手のひらです。その証拠に、カノの手のひらはすこうしですがごつごつと骨ばっていました。こんな風にしてカノの手のひらに触れるのははじめてでしたので、キドの指先がぴりりと張り詰めても仕方がないでしょう。

 そんなやわい乙女心なんてお構い無しに、カノは慣れた風に手を引くのです。ああ、こんなところばかり大人らしく振る舞うカノには、やっぱりかないません。肝心なところ、キドはワルツなんて踊ったことはなかったのでした。昔昔、炎にまかれて灰になったあのお屋敷では、一度や二度くらいそういった機会があったかもしれません。けれどもキドにとっては、灰に巻かれた記憶をきっちり正方形に思い出すことなんて、できやしないのです。

 やさしい嘘つきの二つ目は、きらりきらりと星屑を散らします。どうすれば良いのか、行きどころなく彷徨うキドの左手を、カノはそうっと背中にはわせるのです。そうして、寂れたプラットフォームの舞台上、花形俳優気取りの様子でうたうような調子なカノとともに、ひとつずつ、キドはステップを踏んでみるのでした。


 それにしても今晩はほんとうに素敵な夜です。空にはカステラみたいなお月さま。切れかけた駅構内の白熱灯。静けさで満ちた深夜のエーテルですらきらきらと反射するような夜なのです。こんな月夜では、寂れたプラットフォームでのワルツも本物の舞踏会のようではありませんか!キドは、幼い頃に投げ捨ててしまったまっかなドレスに身を包んで、大人っぽいエナメルの踵のたかい靴を履いて、自分とカノが踊っているように錯覚するのです。ワンツー、ワンツー!三回目でくるりと一回転。慣れないキドは時折ステップを踏み外してしまうのですが、さすがの優しい嘘つきは、よろけるキドの身体を支えてみせるのです。

 気遣われていることにひしひしと知覚しながら、キドはむずかゆいようなこころに駆られます。はわせた手のひらからは男のひとだけが持つ背骨の硬さや、ごわごわとした肌の様子に気付いてしまうのです。そんななかで、どうして澄ました顔をすることができるでしょう!
(ごめんな。やっぱり俺は、どうしたってお前をきょうだいとしては見れない)
 心の底でそんなことを呟いてみれば、自然と眉尻もすまなさそうに下がってしまいます。キドのそんな様子はすぐに、やさしい嘘つきに伝わってしまうのです。

 心地のよいステップを投げ捨てて、カノは心配そうに顔をのぞき込みます。星屑の散った猫の目は、仕方がないなあという風に細められて、キドの嫌いな目をしました。いつくしむような、大人びた目。ああ、どうしてこんな時にも、そんな目をするのでしょう!こんなに素敵な夜なのに、どうしてこんなに哀しくならねばならないのでしょう。

みるみると涙が貯まり出してしまいました。女の子らしい長いまつ毛はあっという間に濡れぼそり、黒曜石の色をした二つ目は宝石のようにつややかに色を宿します。重ねた手のひらにぽたぽたと涙は零れ落ちてしまい、カノは傷ついたような目をします。ああ、そんな目をさせたいわけではないのに!叫びだしたくなる心を押さえつけて、キドは震える声で名前を呼びました。

「あのな、カノ」
「うん」
「俺はな」
「うん」
「……俺はな」
「うん」
 カノは、ただただあやすように頷きました。ぐりとぐらのような二人ですが、ちっとも分からないことがやっぱり二人にだってあるのです。その証拠にほら、やさしい嘘つきは、困ったようにしかめしく眉をしかめています。だけれども半分以上互いのことをわかってしまう二人ですので、キドの言葉のつづきを、じいっとカノは待つだけなのです。ぐずぐずに崩れた表情を見られたくなくて、キドは俯いたまま、自分が言いたいことをひとつひとつ丁寧に考えてみました。
 ほんとうは、キドはきちんと話すことは得意なはずなのです。弁舌上手なカノには構いませんが、それでも常人よりはすこうしだけうまく話せるはずです。だけれども、さむさや他の色々なものにかじかんでいまった頭では、言いたいことをきちんと表せる言葉がひとつも思い浮かばないのです。
 僅かに顔を上げて見ますと、さきほどから一ミリたりとも変わりやしない素敵なお月様が、何食わぬ顔で空に浮かんでおりました。そのひょうひょうとした様子や遠くで澄ました顔は、やっぱりキドの優しい嘘つきによく似ています。そんな様を見ていますと、どうしてかあれだけ浮かばなかった言葉がするりと口をついて出てくるのでした。

「俺はお前と対等な立場になりたい」

 ああ、言ってしまった。とキドは思いました。きっとこれだけ、たったこれだけで。カノには何を言いたいのか伝わってしまうのでしょう。あれだけ内緒にしておこう、とこころに決めておいたことでしたのに!こんなに些細なことで揺れてしまって、こんな素敵な月夜にふさわしくないくだらない願いを口にしてしまったのです。これを失敗と言わずなんと呼べるでしょうか。
 顔をあげてみれば、優しい嘘つきが、酷く驚いたような表情をしていました。それからきゅっと眉をしかめて、むつかしい顔をするのです。その表情は、やっぱりほんのすこうしばかり期待していたものとは違っていて、キドは潔く自分の結末を認めるのでした。ああ、やっぱりカノは、妹としか見ていなかった!納得したはずなのに、キドの二つ目からはらはらと落ちる雫は止まらないのです。


「あのね、キド」
 心もかんばせもぐしゃぐしゃにしながら、キドはやさしい嘘つきの声に耳を澄ませます。ぐしゃぐしゃな視界では、どうしたってカノの表情は滲んでしまってみえませんから。その声に一ミリでも違いを見出したくて、キドは続きの言葉を待ちます。
どうやら少しだけ高揚とした色を滲ませた声で、カノは笑ったようでした。例えるならば、花がゆるやかに綻ぶかのように。そうして、どこか異国の王子様のようにキドの手のひらを恭しくとるのです。それはきっと、何処かの絵画の一シーンのようにうつくしかったのでしょう!何にせよ、キドもカノも顔の整った二人なのですから。舞台俳優さながらの仕草で、お姫様の手をとったカノは、少しだけ温度のいろの違う指先を絡めるのです。驚いて、顔を上げたキドの黒曜石は、てらりと濡れていて、凪いだ月が浮かんでおりました。反対に、いつだってうつくしいカノの二つ目は、更に華やいだ色合いを乗せていて、思わずキドは息を呑みました。

「ほんとうのところを言うと、キドをどうやったら妹としてみれるだろうって思ってたんだ。だってキドは、もう立派で、誰よりもいとしい女性なのだもの!」
 お姫様の頬にぺったりくっついてしまった涙の後を、優しい嘘つきは、強ばった男のひとの手で拭ってみせるのでした。


 それは、とても月が素敵な夜のことでした。夜明けを連れてくるはずの列車はまだまだ見えなくて、二人のその後を知るものは、点滅するおんぼろな白熱灯とつめたいプラットホームくらいでしょう。果たして、カノとキド。ぐりとぐらのように育ってきた二人は、この夜をどう過ごしたのでしょう?まあるいカステラのような満月の下、お姫様と王子様のようにワルツを踏んだのでしょうか。

▷童話のようなやわらかな雰囲気の話が好きで、試しに書き上げてみたものです。深夜のプラットホームは夢があって、とても好きな場所のひとつです。/2017.12