真珠貝のゆくすえ

 それは、例えばの話。どこまでも、どこにでもいけるような切符が、僕らの手元にあったとして。一体全体僕らはどこにゆこうとするのだろうか。

 学校の帰り道いつも通りのつまらない日々も、夏休みに突入すればしまいになるのだろうか。夏期講習中の試験は、鉛筆を転がしてマークを塗りつぶして校門を抜けた先には、一足先に夏を満喫している蝉たちのつんざくような大合唱。アスファルトに反射した陽光の熱 全てが訪れるだろう高校二年の夏を告げているように思えた。
 真珠貝の色をしたパンフレットを、夏の日差しにひらひらと翳してみせた。高校二年生の夏。僕の目の前に用意されているのは、どこまでもいけるような切符なんかではなくて、ただの博物館への割引券だった。
 『ようこそ旭博物館へ』一周回って古めかしさを感じさせるようなポップな字体。踊る文字の下に、『高校生以下の子供は更に200円を割引します』という記載を発見して、少しだけ寂しさを感じた。子供でいられる時間は、あともう少ししかなくて、はやく大人になるよう急き立てられている心持ちになるのだ。

「天川。パンフレットを翳してなにをしているの」
 夏の涼風のような、風鈴のような涼やかな声。聞きなれないその声の持ち主を探して振り返る。刹那、険のある眼差しの少女が僕を真っすぐに射抜いた。硝子の向こう側から覗いている、くすんだ琥珀色の双眸。その双眸の色に絡めとられたような気分になって、僕はオオカミに射抜かれた獲物みたいに、動けなくなってしまうのだ。
「一学年上のクラスの先輩、ですか?」
 少女のことは、確かに聞き覚えがあった。一学年上に、ひどく記憶力の冴えた少女がいると、風の噂で聞いていたから。茶髪に、くすんだ琥珀色の双眸をもつ、すこしだけ「特別」な少女した表情の。自分と同じ小柄な体躯に、膨大な名前の記憶を有している。澄ました少女は、確かに聞き覚えがある容姿そのものをしていた。それなら、教えてもいない自分の名前を知られていてもおかしくない。
 目の前の少女はちいさく頷いて見せた。高校三年生の彼女は、一体全体この期間に何をしているのだろうか、と僕はすこしばかり気になった。三年生の夏期講習はすでに終了していて、この学校にくる必要はないはずなのだ。そんな自分の心内なんて気にせずに、しかし若干躊躇うかのようなそぶりをしたのち、少女は僕のパンフレットに指先を向けた。
「そのパンフレットの割引券をゆずってくれない?譲るのが難しいなら、一緒に博物館へ行こう 勿論、私のおごりで」


 金属製の重ったるい扉を開けば、埃っぽいにおいが鼻についた。空調から吐き出された、つめたさを孕んだ空気は肌を撫ぜて、僕らの脇を通り過ぎていった。隣を向けば、やはり澄ました様子、いつも通りの制服姿に身を包んだ「特別」な彼女。くすんだ琥珀色の双眸は、視線を向けてきた僕を不可解そうにみつめるのだ。
 結局のところ、僕と彼女は高二生最後の夏期講習の日に、博物館に行くことになった。確かに、真珠貝の色をしたパンフレットの必要性は僕にはあまり感じなかったし、博物館に行く気はほとんどないに等しかった。

 けれども、彼女が興味を持つような博物館ならば、少しだけ「特別」な彼女が興味を持つような博物館ならば、つまらない夏のとある日であっても、目も眩むほどに鮮烈な夏の日になるかもしれない。
 それはソーダ水みたいな、あまやかな期待。期待の赴くままに、彼女の誘いに頷いたのだ。勿論、代金は割り勘というかたちで。

「天川、割引券っていつ提示すればいい?」
 頬を仄かに上気させた少女は、同じ目線にある僕の双眸をしっかり見つめて尋ねた。成程、もしかするとあまり博物館に来たことがなかったのかもしれない。彼女が抱きしめていた真珠貝の色をしたパンフレットを借り入れて、窓口で暇そうにしている館員に割引を提示してみせた。手元に渡されたのは,パンフレットと同じ真珠貝の色をしたチケット二枚。
 あくびをこらえている館員が、返すお釣りを間違えてしまい、僕だけ数十円損をしたことはまた別の話。

 入り口という看板を見つけた僕らは、館員の前に、手に入れたばかりの真珠貝のチケットをかざしてみせる。あわい輝きをもつそれは、まるでどこまでも行けるようなチケットで。ぱちり、という歯切れのよい音とともに、チケットにまあるい傷がつく。館員が示した入口は、ほの暗くて、少しだけ非日常じみていた。ほのかに照らすランプに導かれて、僕らは通路を抜けた。


 もしかすると、彼女も自分と同じように、はやく大人になるように急き立てる世の中に飽き飽きしていたのかもしれない。たとえ彼女が「特別」な少女でどんなに大人びた顔をしていたとしても、彼女はまだ十八年しか生きていない。高校三年生の夏、それはきっと大人としての自覚を痔つように二年生以上に押し付けられる時期だ。それは、どこまでも水槽のなかで回遊するさかなみたいに息苦しくてたまらないのかもしれない。「特別」も普通も関係なくて、大人として旅立つことを迫られる日はいつか来てしまう。だからせめて、その前に非現実じみた世界に逃げ出してみたいと思うのは、仕方がないのだ。

 いまにも動き出しそうな恐竜の骨格、ホルマリンの瓶のなかで静かに眠り続けているマウス。遠く遠くの向こう側の宇宙から飛来した隕石は、ショウケースの内側で仲良く並んでいる。燐光をつれている鉱石に目を奪われたり、オルゴールの仕組みを 知ろうと、巨大オルゴールのハンドルを回してみたり。澄ました顔をしている彼女も時折表情を綻ばせていたから、その時の表情があまりにも普通の少女らしかったから、僕は彼女に抱いていた印象が、ただ表面的に過ぎないものだと知ったのだ。

 それは例えば、の話。どこまでも、どこにでもいけるような切符が、僕らの手元にあったとして。一体全体僕らはどこにゆこうとするのだろうか。否、僕らは何処へも行けやしない。ほんの僅かな「特別」な少女も普通の少年も、結局非現実じみたほんとうの「特別」を見つけられないのだ。それでも、僕らはあの夏の日に、ほんとうの「特別」を垣間見た。それはきっと、あの夏の僕らがまだ大人になり損ねていたからなのだ。

 世界各地の人形が陳列している部屋で、僕らは足を止めた震えるような声が、この部屋の中をゆるやかに満たしてゆく。異国の言葉と穏やかなテンポで紡がれる唄は、さながら子守歌のようで。どこかで聞いたような、初めて聞くような唄をうたうものが一体全体誰なのかが知りたくて、僕らは扉の隙間から中の様子を伺った。
 そこはあまりにも人形部屋じみていて。部屋の天井には朝と夜を知らせる天使の絵画が描かれており、壁に沿うように配置されたショウケースには数え切れないほどの人形が並べられて, フランス人形、ドイツのブリキ人形、イギリスのくるみ割り人形、日本独特のおかっぱ髪の人形。よくよく見ると、すべての人形の作りが違っているようだ。 国ごとに異なった特色を備えた人形たちは、子守歌に聞き入っているかのように安らかな表情を浮かべている。そして、中央。休憩用の簡素なベンチに、旋律を紡いでいた主はいた。

 妖精みたいな金髪は、ペンチの下に惜しげもなく垂らされている。まるで、全ての髪先にいのちがあるかのように。そう思ってしまうほどに、金髪の色は鮮やかだった。ペールブルーの色を有したワンピースの裾がひらひらと空調の風に踊る。裾からのぞくのは、球体関節の足 ふ、と。流れるようなメロディーは止む。この部屋にうごめく僕らのことに気付いたのか、はたまた焦る僕らよりも先に、それは僕らがのぞき込んでいる扉の方を向いた。
 春の芽吹きの色をした双眸と視線が重なった。吸い込まれるほどの透明度のある双眸の奥をのぞき込めば、水晶体に映り込んだ光が散って星になった。ゆめ、みたいだ。と隣の少女は零す。少女の抱えているなんでもない特別よりも遥かに超えた、本当の「特別」を有した少女が、今、目の前にいる。それだけで十分だった。

 あどけない、春の妖精みたいな人形が、はなやぐように笑う。真珠貝のいろをしたチケットのゆくすえは、僕らの終着点は、ここにあった。


▷知人たちとの間で、キャラクターをランダムに提供しあって、話を書こうという試みの一環の果てに書きあがったものでした。話の結末になかなか悩みました。
/2018.01