Petrichor.

※R-15程度の描写
※スタフェス前かつ
暗めの話




 肌を合わせるとき、彼女はきまって縋るように手を回す。細い指先でレオのうなじをなぞり、そのままけして健康的とはいえないレオの背骨をたどり、そうしてレオの背中に手を回すのだ。その一連の行為が、これから自身の身体を割り開こうとするレオに対する許可なのか、其れとも彼女にだけしか理解し得ない意味があるのか、はたまた唯の無意識なのか、レオには分からなかった。ただ、そうしなければならないのだ、という観念が彼女には――泉にはあるのだろう、と思う。


 かたちのよい泉のくちびるが、息継ぎをもとめるように薄くひらいていた。はくはく、と。しろい肢体が、酸素をもとめてうねる。その姿は、打ち上げられた魚のようだ、とレオは似合いもしない詩的なことを思った。白藍のいろをした、ウェーブのかかった髪が惜しげも無くシーツに広がる様。おなじいろの儚さをやどした睫毛が快楽にふるえる様。それは成る程うつくしく、やはり幾つのときにか見かけたちいさな熱帯魚を彷彿とさせた。あの銀の魚の名前は、そう。エンドラーズ・ライブベアラ。おれの、おれだけのちいさな熱帯魚。無音の呼びかけに応じるかのように、泉がうすらと瞼を開いた。濡れ落ちた浅瀬のいろの双眸が、劣情にかられたレオの姿を映し出す。
 流れるような銀の髪をもてあそんでは、レオは愛おしげにくちびるを落とした。一筋すくい上げては、また一筋。焦れたかのように。あえかな吐息を零す泉に、仕上げのように、呼吸するために開かれたくちびるにキスを送れば、器用にも泉は目だけで笑んでみせた。目尻に滲む涙を、荒れた指先でぬぐい取ると、泉はレオのうなじにゆっくりと指を伸ばす。レオのものとは本質的に異なる、傷ひとつ知らない指。それはレオの浮き上がった骨のかたちをなぞって、背の軸をたどった。まるで儀式かなにかのように執り行われる行為を、黙ったままレオは受け入れる。最後に、泉はレオの背中に手を回す。縋るように、確かな何かを求めるように、泉はレオの背に爪を立てた。れおくん、と。熱に浮かされた、うつくしく気高い熱帯魚は、久しく使われていなかった名でレオを呼んだ。
 そうして、限りなくひとつにとけあった温度に、熱を帯びた劣情が透けた。カーテンの隙間からのぞく洛陽のひかりを受けて、二人の肢体が橙に滲んでゆく。背に回された泉の指先に刹那ちからが篭り、ひりつくような痛みとともに、レオの皮膚に傷をつくる。どちらともなく零れた吐息は、酷く火照っていた。



 他愛のない夢を見た。つきの裏側の砂漠地帯を旅する、そんな夢だった。砂漠の旅人であるレオはひとつの水槽を大事にしている。正しくいえば、水槽のなかを遊泳する熱帯魚を、だ。流線形をえがく銀の背に、橙の横線が入ったうつくしく小さな魚。その魚をどこで手に入れたのかも、どうしてこの魚をレオが有しているのかすらも、レオは思い出せやしない。けれども、夢というのは元来そういうものだ。隔絶された空間と時間の狭間で、ありふれた現実のもしもを、人間たちは見ている。
 ともあれ、レオはそのうつくしい魚をとても大事にしていたのだ。其れは、恋とも置き換えることができるような。羽化したての翅によく似た色合いの背のひれも、ひかりを弾く浅瀬のいろのまなこも、レオにとっては全て全て愛おしくてたまらなかった。ただ、硝子で隔てられた、その向こう側を満たしている水はやけに冷たかったことを覚えている。熱を放つ星くずのかけらを放り込んでみても、小惑星に咲いた一輪のバラの花弁を投げ入れてみても、ちっとも水槽は暖かくならなかった。絶対零度にちかい小さな世界で、ただレオの熱帯魚はうつくしいまま在り続けていた。
 夢の中のレオには、この小さな相棒とともに様々な場所を渡り歩いていた記憶があった。或いは冥王星の脇を、或いは赤い花の咲き乱れる花園を。エンドラーズ・ライブベアラ。エンドラーズ・ライブベアラ。おれの、おれだけの小さな熱帯魚。つきの砂漠を歩きながら、唄うようにレオは水槽に呼びかける。呼びかけに応じるように、うつくしい魚はくるくると回遊していた。さながら、この熱帯魚はレオの言葉を理解しているかのように。


 レオの大事な熱帯魚は非常にうつくしかったものだから、当然レオ以外の様々なひとにも見初められることとなった。百頭のラクダをしたがえた砂漠の商人も、花園に住む法螺吹きも、果ては言葉すら通じないような冥王星の生命体だって、皆レオの熱帯魚を欲しがった。商人は百頭のラクダを差し出すと請うたし、法螺吹きは花園に咲いた花の全てを渡すと大ほらを吹いた。冥王星の生命体だって、一等きれいな宇宙シャトルを押し付けようとしたのだ。けれどもレオは全ての申し出を断った。レオが家族以外に唯一譲れないものがあるとしたら、それはこの熱帯魚だったからだ。代わりに、たわむれに生み出した音の羅列を渡せば、かれらは存外納得した様子で引き下がっていた。レオの生み出した音には、億は下らない価値がつくからだ。そうやって、少しずつ身を削りながら、時には戦うことすら厭わずに、レオはうつくしい熱帯魚を守り通してきたのだ。
 けれども、と。水槽を抱えたレオは立ち止まる。身にまとっていた豪奢なケープは擦り切れており、レオが生来持ち合わせていた才能はからからに乾ききってしまっていた。退廃しきったつきの砂漠は、レオが振りかざしてきた正しさによって砕け散った、名も覚えていない誰かのかがやきだった。
 もしも、此処がつきの裏側の砂漠地帯ではなくて、このうつくしい熱帯魚のほんとうの住処である海だったならば。もしもその海に、熱帯魚たちの仲間が棲んでいたならば。そして、もしもレオの熱帯魚がレオの元を離れたがったら。もうレオにはこの熱帯魚を守れるだけの才能は持ち合わせていないし、この熱帯魚を引き止められるだけの器はボロボロになった自分にはないのだ。
 そうなったならば。レオの熱帯魚は仲間たちと共に自由に生きて、いつしかレオのことを忘れていくのかもしれない。仮定の先に思いを馳せるのが恐ろしくて、耐えられなくて、その日レオは、レオの大事な熱帯魚にみにくい痕を残した。それは一生消えることの無い、深い深い。どれだけ上手に隠そうとも、けして隠しきれないような。砂漠に横たえた熱帯魚が、ちいさな口を開いてあえぐものだから、レオは肺に溜め込んでおいたなけなしの酸素を渡してやる。はじめて触れたその背びれは、絶対零度の世界を生き抜いている割には思いのほかに暖かくて、ただしく生きているものの温度を知覚させた。
 レオの熱帯魚は、彼女は何も言わなかった。ただそのうつくしいまなこで、レオを見上げるだけ。彼女は、堪えるようにかたちのよいくちびるの端を噛みしめていた。その反動か、目のふちに滲んだ涙が、整った輪郭線をつたってほろほろと流れてゆく。ああ、そうだった。魚には涙腺なんてものはない。泣くことがゆるされているのは、夢を見ることをゆるされているのは、この世界で一番狡猾ないきものだけなのだ。そうしてようやく、レオはこれが夢であることに、この愛おしい熱帯魚が誰なのかに気付いた。そして、自分が二度と取り返しのつくことがない事をしてしまったということにも。
 他愛のない夢を見た。つきの裏側の砂漠地帯を旅する、そんな夢だった。いちばん忘れてしまいたい、忘れてはいけない、あの一年前の冬の夜のような夢だった。



 少し眠っていたようだった。やるせなさを振り払うように、今しがたの夢をはたきおとすように、レオは緩慢な仕草でかぶり振る。既に横には泉の姿はなく、代わりにぼんやりとした照明が、レオの部屋から浴室につづく廊下を照らしだしていた。微かに水の流れる音が聞こえるので、おそらく泉が使っているのだろう。相反するかのように。脱ぎ散らかした衣類はいつの間にか一人分に減っており、数時間前に書き散らかした数十枚の楽譜には影が落ちている。愛用している目覚まし時計はすっかり宵闇にとけこんでいる。いつの間にか暗くなった自身の部屋の有り様に、季節の移ろいを見た。ああ、そうか。冬が、忌々しい冬がふたたび巡ってきたのだ。
 からだの芯まで凍らしてしまうような冷え込みに、レオは毛布から抜け出すことをためらった。ぬくくなったとはいえ、此処には未だふたりぶんの体温が残留している。けれども、情事の名残がかおるこの毛布のなかで、大人しくうずくまっているのは少し気恥ずかしい。ただ、何も身につけていないレオが毛布を手放して仕舞えば、風邪を引くことは目に見えていた。そしてそれを泉は望まないだろうことも、今のレオはよくよく分かっている。
 数秒の逡巡。レオはぐっと毛布を引き寄せる。深呼吸をひとつ落とせば、この乱雑に散らかりきった部屋には似つかわしくない、林檎の清廉なかおりが鼻孔をとおりぬけた。目をつむると、同じかおりをまとう白藍の髪がこのシーツの上で扇状に広がった様を、どうしても連鎖的に思い出してしまう。夕暮れ時のひかりに滲んだ、しなやかな白い肢体。ぴんと張り詰めたつま先。そして縋るように回された、細い指。居た堪れなくなったレオが、おもむろに腰掛け直したところで、耳に馴染む声に呼ばれた。


「王さま」
 廊下の薄ぼんやりとした照明を背にして、泉が立っている。呆れかえったようなその口調も、身に纏った淡い春色のセーターも、もう既にいつも通りの泉のもので。ただ、その濡れぼそった髪先から僅かにつたう雫だけが、常を異にしていた。そしてレオは理解している。あのセーターの下に、みにくい傷痕が残っていることを。
「王さま、シャワー先に借りたよ。寝ちゃってたみたいだから、事後報告になってごめん。あんたも身体冷えちゃってるだろうし、シャワー行ってきたら?」
 しっとりと何時もよりも落ち着きのある髪を結び直しながら、泉は訥々と言葉を並べてゆく。その言葉たちに曖昧に頷けば、肉眼では見えない傷痕に縛られた、うつくしくて気高いレオのエンドラーズ・ライブベアが少しだけわらう。廊下へ続いている照明の明るさが、いやに眩しく思えた。



 あの夜のことを忘れてしまいたくて、けれども忘れてはならないことは、レオが一番分かっていた。身体にはりついた汗と欲と夢の残滓を、ざあざあと流れ落ちる温水で洗い流しながら、レオは一年前の冬のことを思う。巻き起こった革命も残りは収束の一途を辿るばかりであった、あの冬。レオと泉の関係性は、そんなことを同意もなく許されるような仲ではなかったし、ましてや恋人同士ですらなかった。確かに、あのときレオの方は既に泉にたいして恋に似たものを抱いていたが、レオは其れを口にすることはなかった。一緒に肩を並べてきた戦友で親友で、はじめて此処で巡りあった大切な友人。たった其れだけの言葉ですべて事足りるような関係性だった。だから、あの夜レオがしてしまったことを怒る権利がただしく泉にはあるし、絶交すらされてもおかしくなかった筈なのだ。
 けれども、泉はレオを責めなかった。人のいない空き教室、その端っこ。よれたシーツにくるまって、恒温のいきもの同士で背中を押し付けあって、ただ朝が来るそのときを息をひそめて待ち望んでいた。安価なシーツはざらついていて、熱をくすぶらせた素肌には、少し痛かったことをよく覚えている。触れ合わせた背中から伝わる、泉の線の細さがレオのこころをかき乱した。分からなかった。このうつくしい女が一体全体何を考えているのか、レオにはちっとも分からなかった。いっそのこと、泣き叫んだり、責めてくれたり、怒ったりしてくれた方がまだ良かった。泉にはただしくその権利があったのだから。
 ただ、その一方――ひどい罪悪感がレオを苛んでいたその一方で、レオは確かに満足していたのだ。其れがどれだけ、最低でみにくくて浅ましいことなのかレオ自身がいちばん分かっていた。けれども、他でもない自分が、泉の身体を割り開き傷痕を残した、という事実は、レオの過剰とも思える不安症をおさめてくれた。
 例えレオのエンドラーズ・ライブベアラが自由になったとしても、その身体には、みにくい男が残したみにくい傷痕がある。レオの大事な熱帯魚が、本当の意味で自由になることは、もう一生ない。
 レオと泉の関係が恋人同士ではない、世間一般的にみればただれた関係性だったとしても。一夜のあやまちと指をさされるような仲であっても、レオにはその事実だけがあれば充分だった。充分、だったのだ。


「わたしと恋人になってほしいの」
 秋めいた風が白藍のうつくしい髪をゆるるかに攫うさまは、一枚の絵画のようだった。その白藍の髪のちょっと下、月の毀れた睫毛から覗く碧は一年前の冬から変わらない硬度を保っている。この凛とした気高い声を、立ち振る舞いを、目のかたちをレオは良く知っていた。けれどもレオがよく知る彼女は、こんな不安そうに眉をゆるめることはなかったのだ。はて、レオの目の前にいる女は、本当に泉なのだろうか。気まずく思ったレオが、視線を外してしまおうとしたところで、射るような視線を投げかけられて、逃げ場を塞がれてしまう。そうして、もう一度。レオの目を見据えたまま、泉はおなじ言葉を口にした。「恋人になってほしいの」と。少しだけ、ほんの少しだけ不安定に揺れた声のいろは、レオが心底愛している泉のものに違いなかった。迫られた言葉に、レオは頷く以外の選択肢を、疾うのむかしに失っていた。
 泉がレオに対してその申し出を口にしたのは、今年の秋のことだった。具体的には、秋の中頃――ちょうどフルール・ド・リスのステージが終わったあたりだっただろうか。泉にこう言われたとき、レオはひどく驚かされたのをよく覚えている。最後に記憶している、一年前の冬の泉がレオに向けている感情の内には、親愛の情こそあれ、それがけして恋愛の枠に入らないことは、レオ自身がよくよく分かっていたからだ。それだというのに泉は帰還したレオに対して、恋人になってほしい、と求めてくる。泉が、そのうつくしい双眸のなかで何を思っているのか。レオにはやっぱり、このうつくしい女の真意が分からなかった。
 自分と恋人になりたいと言う言葉に、舞い上がらなかった、と言ったら、其れは嘘になる。けれども泉からしたら、レオは泉の身体を一方的に蹂躙した、けだものと変わらないいきものである筈なのだ、そうでなければいけない。レオに対して裏切られたことに対しての嫌悪や怒りこそあれ、恋を抱くというのはあまりに矛盾していた。
 何にせよ、泉がレオに新たな関係性を結ぶよう求めて来た理由に、あの一年前の冬の夜があることは間違いなかった。あの冬の夜にレオが刻みつけたみえない傷痕が、今も泉をとらえていて、自由に泳げないようにさせている。其れを知ることができたならば、レオは十分だった。
 スコールのような、シャワーの音は止まない。小さな浴室に満ちたうすくらい自己満足とかたちにならない哀しみとが、緩やかにレオの心を浸水していた。


「いてっ……」
 ぼんやりと考え込んだまま、身体を洗い流していると、ひきつるような痛みが神経をはしった。少し首をめぐらして背中を見やると、自身の背中に引っ掻いたような傷があることを知った。長く、細く、それでいて火傷したかのような熱を帯びている傷痕。儀式か何かのように丁寧に。そして何より縋るように。浮き上がった骨のかたちをなぞり、それから背の軸を辿る泉の指先を、レオは思い出す。これはさきほど、自分の背中に手を回した泉によるものだろう。
 はやく、はやく居なくなってくれ。思わず眉を寄せながらも、じっとこの痛みが消えてゆくそのときを、レオは息を殺して待ち望んだ。そのまたたきのような数秒が、数分にも数日にも思えた。皮膚のしたで疼いていた痛みが、やがて細胞の内側にしみてゆく。最後の一滴まで其れが消えて、ようやくレオは息を吐いた。
 レオの背中にも、傷痕がある。けれど、これはレオが泉に残した傷痕と似て非なるものだ。引き攣るような痛みをもたらしたこれは、結局のところ数日、数週間で消えてしまう。けれども恋人となった泉と肌を合わせるたびに、残されるようになったこの傷痕は、いつだってレオに忘却を許さなかった。


 浮き上がった骨のかたちをなぞり、背の軸を辿り、そうしてレオのエンドラーズ・ライブベアラは手を回す。儀式めいた一連の行為が、これから泉の身体を割り開こうとするレオに対する許可だったのか、其れとも泉にだけしか理解し得ない意味があるのか、はたまた唯の無意識なのか、レオには分からなかった。ただ、その行為は、泉なりのささやかな報復なのかもしれない。現に、泉によってつけられた傷痕はレオに忘却を許さないのだから。
 忘れてはいけない。あの夜とったレオの行動が、どうにもならなくなっていたレオの不安症を収める唯一の方法であったとしても。その行動によって、うつくしくて傷ひとつしらなかった泉は、一生消えない傷痕を残されたことを。忘れてはいけない。こうして一生消えない傷痕を残したことで、レオがどれだけ満足して居たとしても、泉はそうではないことを、けして。レオは忘れてはいけないのだ。



 シャワーを浴び終えて脱衣所の扉を開けると、もう既に時刻は午後六時半をまわっていた。乱雑に髪を拭いていると、洗濯かごに無造作に置きすてていた携帯が通知音を鳴らす。慌てて確認をしてみたところ、出かけている家族からの連絡が滑り込まれていた。どうやら雨で車が渋滞しているようで、今日中には帰ってこれないらしい。耳をすましてみると、確かに外からはくすんだ雨が屋根を叩く音が聞こえた。ああ、これから泉を送りとどけるためには、二人分の傘がいるだろうな。そう思いながらお気に入りのパーカーを身にまとって、ぼんやりとした照明のついた廊下をぺたぺたと歩いたその先で、はたとレオは気付く。


 泉の気配がないのだ、この階のどこにも。
 現に今、廊下のいちばん奥まった場所にあるレオの部屋は光をとぼしておらず、この階のどこにも人のいる痕跡はどこにもなかった。レオの心臓がおおきく、一度跳ねた。背筋をなにか尖ったもので貫かれたような気分だった。此処にあるのは、ただ一人の人間の温度だけ。其れは先の夢で見た、寂寞としたつきの砂漠の景色をレオに彷彿させるのには充分だった。目蓋を閉じれば、うつくしい小魚の銀の背びれが遠くでひるがえる様が浮かんだ。あの魚の名をレオは知っている。エンドラーズ・ライブベアラ。レオが大切にしていた熱帯魚だ。
 水槽は壊れてしまった。あの冬の夜は、彼女にとって、きっと疾うのむかしのことだ。逃げてゆく。何処かへ行ってしまう。レオの、レオだけのエンドラーズ・ライブベアラが、つきの砂漠から逃げ出してしまう。うつくしくて聡明で、したたかなおれの熱帯魚。おれのセナ。泉はきっとレオが刻みつけた傷痕のことを忘れて、そしてレオのことも忘れて、何処かへと自由に泳ぎ去ってしまうのだ。レオはこんなにも、泉にとらわれているというのに。


 玄関先でかたりと人の身じろく音がした。反射的に、レオは階下へと駆け降りる。何も考えてはいなかった。レオの脳内を占めていたのは、泉を何処かに行かせてはいけないという、ただそれだけだった。逃してはいけない、行かせてはならない。折角とらえてきたのだ。レオが、レオがどうしても欲しかったひとなのだ。
「セナ、セナ」
 無我夢中のなって階下まで駆け下りると、見覚えのある背中が玄関から覗いた。あの線の細い背中が、たまらなく愛おしくて、たまらなく遠く思えた。セナ、と。レオはもう一度泉を呼んだ。先程の春色のセーターに加えてトレンチコートを身にまとった泉が、呼ばれた名前に緩慢な仕草で振り向く。雨にけぶる、彩度の落ちた浅瀬のいろの双眸。何を考えているのか分からない女の双眸が、僅かにゆらいだ気がした。
「王さま……」
 寒さのためか、少しばかり色を失った泉のくちびるが、レオの呼称を口にする。レオが心底好いている、低めのこえ。呆然とした様子の泉が玄関先に佇む様に、レオはどうしようもなく安堵した。ああ、良かった。まだ、手の内に彼女はいる。行き所をなくした泉の指先をつかまえて、自分のそれとしっかりと絡めあった。泉の手のひらから伝わる体温は暖かくて、レオが引きずり続けている不安をとかしてゆく。
「ごめん。書き置きしておいたから、大丈夫だと思ったんだけれど。雨足が強まっているから、帰ってこれなくなる前に早く帰ってきなさいって、ママが言うものだから」
 行かないと、と。ゆるり、絡めていた指先を解かれる。泉の指先が代わりに傘を掴んで、ブーツの爪先が確かめるように数回足元を叩いた。レオに背を向けた泉が、気怠げな様子でドアノブに手を掛けている。開き掛けた扉から、冷めきった雨の街と光をとぼさない冬の夜がのぞいている。ざあざあという、雨の音だけがやけにレオには鮮明に聞こえた。
 トレンチコートの裾が魚の尾のようにひるがえる。手の内を滑るように、彼女は行ってしまう。行って、しまわないで。


「行かないで、セナ」
 雨傘を握りしめている泉の手首を、レオは咄嗟に掴んだ。そのまま縋るように、こちら側へつよく引けば、虚をつかれたような様子の泉の身体の軸が傾いた。一瞬、林檎のかおりをまとう長い髪が宙を舞って、そうして傾いた軸に沿って流れてゆく。小宇宙に銀砂を零したならば、こんな光景を見れるのだろうか。持ち主に手を離された雨傘は、玄関の先に転がり落ちた。
 がしゃん、と扉の閉まる音がする。外の世界と切り離された此処に、二人の人間だけが取り残された。重心を崩した泉のかぼそい身体を、レオはおもむろにかき抱いた。恒温のいきものの温度は、不安症なレオに安堵をもたらしてくれる。華奢な泉の肩にひたいを押し付けて、呼吸をくりかえせば、レオには此処が世界の中で一番神聖な場所で、一番いるべき場所のように思えた。泉の左胸に位置しているちいさな心臓が拍を繰り返す、そんな確かないきものの音の裏側で、不規則に雨の打ち付ける音が響いている。ただ、じっとレオは生の拍動を聴いていた。
 ためらいがちに。為されるままだった泉が、レオの背に指先を這わせた。レオのうなじをなぞり、けして健康的とはいえないレオの、浮き上がった背骨をパーカ越しにたどり、そうしてからレオの背中に縋るように手を回す。其れは、肌を合わせるときのように。レオに忘却を許さない、刹那の傷痕をもたらすときのように、泉は決まりきった一連の動作をおこなう。そのまま流れるように目蓋をつむるが、泉はその指先で、レオの背をさするだけだった。なんども、なんども、やわい指の腹がレオの背を過ぐる。


「セナ、おれのセナ」
「うん、うん。……王さま」
 二人、ちからなく抱き合いながら、そうやって何度も確認するように、互いの名前を呼び合った。セナ、王さま。きっと他の、二人以外の見知らぬ誰かには意味のない言葉たちが、二人にとっては唯一無二の共通言語だった。
「何処にもいかないでくれよ、お願いだからおれを置いていかないで」
「……わたしは、」


 どこにもいかないよ。
 泉の、ゆらぐことのない確かなこえがエーテルを震わせて、それからレオの鼓膜を震わせた。その声は、まるで前世からそうであったことを言い聞かせるような、それでいて縋るような響きを残していた。その声のいろは、否応無くレオを物哀しくさせた。まだ、まだ、泉に残した傷痕は、泉を縛っているのだ。レオのエンドラーズ・ライブベアラは、自由に泳ぐことができない。そのことに満足して、けれどもじきに泉が手元を離れる日が来ることを知る。こんな夢のような細い関係性が続くはずがないのだ。きっと、こんな忌々しい冬が終わって、春の足音を聴く頃。二人が夢ノ咲学園を卒業したならば、泉はこの二人のいびつな夢から醒めるのだ。レオの手元を離れて泳いでいってしまうのだろう。
 むずかゆい、林檎のかおりが一際鮮烈に立ち込めた気がした。おそるおそる、泉の肩口にうずめていた顔をあげれば、泉の整ったかんばせに埋め込まれた、うつくしい碧に巡りあう。雨夜のせいで、すこし陰影が深くなって滲んでいる双眸が、レオただ一人をじっと映しこんでいた。外国の凪いだ湖面を想起させる女の双眸は、感情を凍結させているように思えた。
「何処にもいかないよ。だからさ、泣かないで」
 そう囁かれて、レオは始めて自分が泣いていることに気付いた。頬におずおずと手を這わせれば、確かに目のふちから浸み出した水が輪郭を伝っていた。いきものというのは、何処からこれほどの水をつくりだしているのだろうか。


 背中に回されていた手のうちで、右手だけが離された。右手が、レオのかんばせをなぞる。白魚のような泉の指先が、レオの目元のふちをぬぐった。其れは、先のレオの仕草を真似て。そうしてから、泉はさらけ出されたレオの喉元にくちびるを寄せた。レオの肌の内側にくすぶっている不安も何もかもを、食べてしまおうとするかのように落とされるくちびるに、レオはくすぐったくなる。そんな何気ないじゃれあいが、いつしかレオの思考回路を夜に沈めてゆく。泉に触れられた部分が、火傷するかのような熱を帯び始めて、ゆっくりと身にまとっていた理性がはがれおちてゆくのを知覚する。
 こうやって、人間の全てをはぎとった後に一番みにくい部分だけしか残らないのは、もともと野を生きる獣だった紛れも無いあかしなのだろう。他人には絶対に見せたくないような、みにくくて仕方がない部分。けれども、このみにくい部分を衝動のまま互いに押し付けあって、なにも考えることなく、熟れきる寸前までぐずぐずにとかしあうことは、ひどく心地がよかった。そんな情動に急かされるように、レオもまた泉の喉元にくちびるを寄せた。ひくり、と泉の身体が魚のように跳ねた。
セナ。吐息だけで、レオはあまったるく泉を呼んだ。すると、何もかもを分かりきっているようなかしこい碧が、睫毛の下からうすらと覗く。レオの不安を全て吸い込んでしまおうとする、冬の雨の夜には似つかわしくない、澄んだ碧。いーよ、とレオのひたいに自身のひたいを合わせて、泉が小さく笑った。夜の隙間でひかった、淡い色のくちびるにむさぼるように喰らいついてしまえば、なにか続きを口にしようとした泉の言葉は、音になることなく雨の音に融解していった。


 その代わり、わたしを置いてどこかへいってしまわないで。



 

  気高く聡明で、どんなものよりもうつくしいと評された、不安症のエンドラーズ・ライブベアラの話をしよう。
 羽化したての翅によく似た色合いの背のひれに、ひかりを弾く浅瀬のいろのまなこをもつ彼女を、誰しもが褒めそやしたのだ。其れは彼女にとってとても幸福なことだったし、血の滲むように重ねて来た努力が昇華されていることを意味していた。けれども、彼女がいちばん幸福だと思えたのは、レオとともに過ごした時間だったのだ。ちいさな水槽に押し込められながらも、巡り歩いた旅のすべてを彼女は愛していたし、とても満足していた。そこがひかりも見えないようなつきの砂漠地帯だったとしても、レオと一緒ならば何だってよかったのだ。
 彼女はレオの生み出す音も、心の底から好いていた。自分にはない才能が、ゆっくりと花開いて、音楽としてかたちを変えていく瞬間が好きだった。レオが生み出す音を一番ちかくで聞き遂げることのできる、レオの側を彼女は愛していた。何処にへだっていけた彼女が選んだ、ただひとつの譲れない場所だった。


 だからこそ、段々と傷ついてゆくレオを見ることは、彼女にとって心臓が張り裂けてしまいそうなくらいに哀しかった。自分のために、純粋無垢だったレオは剣を抜いて、才能を切り売りしてゆく。その様に、ただ一言言えたらよかったのだ。小さな水槽を満たしている水は、エンドラーズ・ライブベアラの声の振動をつたえない。ガラス越しで、ただ見つめることしか出来ないのだ。幾千数億のはじまりの音を星にしていた、新緑の双眸が色を失ってゆく。虚ろに変わってゆくそのさまに、彼女はついぞ言葉をかけることができなかった。
 そうしてとある冬の夜、けして触れることのなかった彼女に、レオは手を伸ばした。なにひとつの恐れはなかった。其れは予感でもあった。ここで、おそるおそる伸ばされたレオの手を受け入れなかったら、きっとボロボロな彼は、自分のことを忘れてしまうのだ。一生消えないであろうみにくい傷痕が残して、この男は泉を忘れてゆく。忘れないで、忘れないで。蛍光灯のうすぼんやりとしたひかりを背負った、レオのみじかい眉が哀しげに寄せられる様に、彼女は肺がつぶれるような衝動に駆られた。レオの哀しみや孤独が、自分を抱くことで少しでも軽くなってくれるなら、彼女は――泉はそれでよかったのだ。
 けれども、その冬の夜から数日して、レオは泉の前に姿を現さなくなった。レオの側にいることすら、叶わなくなってしまった。きっとレオは、レオしか見つめることのできない暗闇の、その先へ行ってしまったのだ。あれほど一緒に居たはずなのに、泉にはレオの見つめていた暗闇の一部すら垣間見ることができなかった。どうしようもない後悔と恐れがないまぜになった衝動が泉を貫いた。其れは漠然とした、針を刺すような不安だった。


 何処にも、いかないでほしかった。
 それでもレオはいってしまった。こんな常春に泉を、泉だけを置き去りにして、もっと昏いところへあの男はいってしまった。言葉にすることなく繋いでいた、細い結びつきは疾うに切れた。結びつけていた痕だけが、指の腹に残存していた。
 もっと、強く。そして明確な結びつきがあったならば。泉はレオを何処にもいかせることがなかったのだろうか。たとえば恋人という関係性で繋いで仕舞えば。そうすれば、レオは何処にもいかないだろうか。もう二度と、こんなとてつもない不安に身をかられることはないだろうか。



 玄関先はあまりにつめたかったものだから、結局二人はレオの自室へと戻ることになった。泉の華奢な手首を、レオは部屋にたどり着くまで一度も離さなかった。家族は、と泉が短く問うと、今日は戻ってこない、とレオは泉の方を見やることなく答えた。ああ、ママに連絡しないと。うつむき加減のまま泉がぼんやりとしていると、不意に足が止まる。前を見やれば、灰にけぶったままの新緑の双眸が泉の方を見つめていた。
「雨が強いから、もう家に帰れないな」
 ぼんやりと、それでいて縋るような調子で呟かれた言葉に、泉は頷いてただ首肯する。もう、帰れない。泉もレオも、今日は何処にもいけやしない。きっと、二人とも考えていることは一緒なのだ。ふたたび引かれた右手の熱が、ちいさくひかりをとぼした。


 止まない雨は、街をゆるやかに浸水している。このままではきっと、朝になればこの辺りの街は一面海になってしまっているのかもしれない。そう口にしようとして、吐き出した泉の言葉は、音を内包することなくあぶくになって、天井へ立ち消えた。
 何処にもいかないで、とレオが繰り返す。泉が、レオの元を離れてしまうことなんてないのに。それよりもずっと、レオの方が何処かへ行ってしまいそうなのに。そんなとりとめのない思考を夜に融解させながら、レオにほどこされた愛撫から逃げるように、ぺたり、と。泉は膝をつけシーツに座り込む。癖の強い銀の髪が泉の身体に沿って流れてゆくさまは、寄せては引く白波のよう。レオの骨ばった手のひらが、なにも身につけていない泉の身体の線をたどってゆく。節くれた指先が、なにか期待に満ちたように泉のうすい腹を撫でるのは、どうにもくすぐったかった。はぁ、とこぼれ落ちた吐息が、存外にあまやかに色付いている。
「王さま、くち」
 とっくの疾うにうまく回らなくなった頭を、むずかるようにレオのはだかの胸板に擦り寄せて、泉はレオにキスをゆする。顎をもちあげられて、上を向くようにされると、噛みつくようなキスが降る。なんども、なんども食まれてしまうので、明日にはくちびるは腫れているだろう。けれども、それすら些細に思えてしまうくらい、今はこの男の存在を確かめたかった。
 じくじくと、身を焦がすような快楽が泉の理性を飲み込んでゆく。もっと、もっと。エンドラーズ・ライブベアラは、誘うように身をくねらせた。白い肢体が、夜の隅であわく透明な色をもつ。その様子を捉えたレオは、柔く泉の身体を押した。呆気なくバランスを崩した泉は、既にくしゃくしゃになっているシーツへと倒れこむ。雨のにおいと林檎のかおりがないまぜになった、なんともいえないつめたいにおいが二人の鼻孔をかすめた。分かり合えない、孤独のにおいだった。


 泉の名を呼ぶたびに、レオの双眸に欲の焔がともる。その様を間近で見つめることが、泉はすきだった。理性も余裕もなにもかもをはがれ落ちた、ただの月永レオを見ることができるからだ。掴み所なく、はげしく、そして柔く。音楽というものを体現するならば、其れはきっと、この男のことだ。男のひとらしい喉仏が、ゆっくりとつばを嚥下してゆく。ひとたび仕舞いこまれていた双眸がふたたび姿を見せて、その色に肉食獣めいた、捕食者の鋭さがあることを知る。
 見上げた双眸にその鋭さをみとめてから、泉はレオのうなじにゆっくりと指を伸ばす。レオのものとは本質的に異なる、傷ひとつ知らない泉の指。それはレオの浮き上がった骨のかたちをなぞって、背の軸をたどった。いちばん最後に、泉はレオの背中に手を回して、緩慢な仕草で爪を立てた。熱に浮かされたまま、それでもこの行為だけは忘れることなく。
 其れは、この男を繫ぎ止めるだけの痛みをもたらすために。けして、けして、もう二度と。この男が何処かにいかないように。この指先がつくる傷が刹那のものであることは、泉がいちばん分かっている。それでも、泉は縋ってしまう。夢見てしまう。この男を、一生自分の腕のなかに閉じ込めて仕舞えたならば、と。音楽をかたちにした男を、ひとつの場所に留めて置くことなんて、平凡な泉にとって到底叶わない願いであることは、分かっていた。


 雨は、夜明け前に止んだ。



(20171207/Petrichor./レオいず♀)

▷背中に傷のあるレオくんはサイコーだな、という話。エンドラーズ・ライブベアラの語感が良くて、書いている最中は繰り返し唱えていました。タイトルもこれにしようと思ったのですが、流石に全面的に押し出し過ぎるのでやめにしました。骨の話と雨の日の話がたいへん好きなもので、書きたい二人を書きたいシチュエーションで書けたのでとっても満足です。/2017.12