褪青

空気のような男だ、というのが月城に対する第一印象だった。それほどにまで彼は掴みどころがなく、そしてやさしい人間であったから。
月城湊。それは季節外れの転校と人智を超えた美貌という、ありがちなテンプレート二つを引っ提げてやって来た男であり、そしてとてつもない音痴だった。

透き通るようなましろの髪と、たいまつのようにあかあかとした双眸。それは、とある夏の日のことで。月城の物珍しい容姿に転校初日は男女問わず多くの人が詰め寄ったし、勿論志田もその一人だった。アルビノをみたのは初めてだったし、そんな珍しい人が自分の友達であったならどんなに楽しいことかと思えたのだ。輪から外れて居た人間といえば、引っ込み思案な集団と、相良くらいだったか。
誰もが彼の気を引こうとして、様々な話題を振った。今日のトップニュースであるクジラが打ち上げられたという話から始まり、天気の話、ドラマの話、アイドルの話、夏休みの話。全く今までどんな田舎に暮らしていたのかと呆れてしまうくらいに(とは言え此処も相当に辺境の地ではあるが)、それら全ての話題に月城は疎かった。ただひとつ、音楽の話題に対してだけ食いつくような反応を見せたものだから、話題が音楽一方に片寄ってゆくのは仕方ないことだっただろう。
ただ、相良のようなピアノ少年でも、垂水のように身内に音楽家のいる訳でもない。そんな自分達がこの専門的な知識が必要とされる話題に触れられる範囲は限定されてはいた。それでも、志田は吹奏楽部に所属していたものだったから、多少なりとも話を噛み合わせることが出来たのだ。

うたをうたうことが好きなのだ、と。月城は朗らかにわらった。未だかつて理解されたことはなく、きっとこれからも理解されはしないけれども、いつか誰かが自分の孤独すらを抱き締めてくれる日を夢見ているのだと。白いカーテンを背に、訥々と話す白い青年をただ黙って見つめる他なかった。詩的めいた彼の言葉の半分も理解できやしなかったのは、きっと自分以外のクラスメイトも同じだろう。ただ、そのとき彼の孕んでいるうつくしさの根本にあるのが、そのはかりしれない孤独なのだろう、と知った。そして、深海よりも昏くつめたい眼差しをする彼を、きっと自分は一生かかっても理解できないのだろうということも。

それは、あまりに淋しいことだから。だから。

思わず喉元までせりあがった志田の言葉は、月城に歌をせがむ生徒達の声に押し潰されてしまった。あっ、という間に遠ざかる月城の後ろ姿に、声をかける訳でも、まして手を伸ばす訳でもなく見送った。それが自分と月城の間に横たわる唯一の思い出であって、悔恨の記憶でもあった。

月城のことを音痴と例えたが、それは些か語弊を招く。
月城の歌声は、どうしようもなく人間の嫌悪感を掻き立てる類のものなのだ。それは丁度、黒板に爪を立てた時、本能的な忌避感を持つような。錆びがったような、奇妙で深みのある声は、否応なく不快感を煽る。肌の奥から粟立つような異質さ。今尚思い返すだけで、背筋に嫌な汗がつたう。
彼が積極的に歌いたがらなかった理由を、彼の歌を理解するものがいない理由を身をもって知った時には、疾うに手遅れで。志田は月城の異質さに恐れて距離を置くようになってしまった。

それは、月城の歌声を聞いたクラスメイトも同じようで。
彼の周りには、転校初日の後にも常に人が取り巻いていたし、傍目から見る限りけして孤独だとは思えない様子だった。けれども、月城とクラスメイトの間は、常に緊張感の糸で繋がれていたことを、きっと誰もが気付いていた。月城に手を伸ばすものおらず、月城の方も手を伸ばすことをしない。どれほど明るくわらおうと、月城はやっぱり孤独なままだった。



「……ただ、ね」
「ただ?」
「昔、おれの歌を聞きとってくれたひとが居たんだ。おれの仲間ですら聞き取れなかったのに、そのひとは言葉を返してくれた」
「仲間……家族のことか?おかしな言い方をするんだな」
「そうだろうか?ともあれ、おれはあのときだけきっと、孤独じゃなかった。おれのことを、ほんの端っこでも理解してくれたひとがいたから」
「それだったら、今のあんたはどうして淋しいと言うんだ?」
「……消えちゃったんだ。三年前に。それ以降、おれはそのひとと会えてない。会えていなかった」
「?」
「いや、此方の話さ。ありがとう、志田くん。おれに手を伸ばしてくれて」

うつくしい夢をみる。それはあの日、月城に手を伸ばすことのできた、もしもの夢。蝉時雨が降り注ぐ中、たおやかに揺れる白いカーテン、緩む月城のまっしろな眉。教室のざわめきはすっかり遠ざかっていて、此処には自分と月城しかいないようにすら思えた。
寄りかけた椅子がかたん、と音を立てる。開け放たれた窓から幽かに潮のにおいがする。そんな空間の真ん中で、月城は飄々とわらっていた。
やっぱり、詩的めいた言葉の半分すら理解できなかったけれど、ただ、彼のわらいかたが僅かにやわらかなものであったから。何故だか自分までも救われたような気がしたのだ。
こころに去来した安堵を噛み締めていた時、に。

窓の向こうから、月城のうたう声が聞こえた。

奇妙で錆び付いたようなこえが、朗らかに歌詞を歌い上げている。そこに、彼が抱いていた孤独はなく、彼の人柄のようなあたたかさだけが残存していた。それは、花降るような。月城の異質な声質が変わった訳ではない。だと言うのに、以前と明確に違うこの明るさの所以を探って、はたと気付く。うただけでなく、伴奏があるからなのだ、と。
伴奏の弾き手は相当の技量を有していることは、素人である志田にすら分かった。些細な長短を用いて、多彩な音をあやつる。零れ落ちてゆく音の粒をひとつひとつ丁寧に揃えながら、曲として形を成す。声と伴奏、ふたつでひとつとしてうつくしい芸術に昇華されてゆくのだ。月城の異質さに、どうもうまい具合に噛み合う器用な伴奏に、思わず舌を巻いてしまう。
そして何より、歌い手も弾き手も、どちらも心底楽しんでいるのが、見ずとも分かってしまう。それは、旧友との再会を楽しむような。歌声が先をゆけば、伴奏も負けじと後を追う。音の坂道、転がるように連鎖する様は、さながらじゃれあう子犬のようで。思わず笑ってしまう。急上昇、結末へ駆けてゆく音たちを、自分のことように息を詰めて見送った。

そうして弾けとんだ、音の洪水。
最後の一音が遠のく頃には、志田はすっかり目が覚めてしまっていた。遅れてじりじりと鳴り出したアラームが、朝の七時を告げているものだから。遅刻してしまう、と慌てて掴んだ制服に染み込んだつめたさに、今が冬休みであることを思い出す。かじかんだ部屋のなかで、開きっぱなしにしてしまっていた窓だけが、何故だかひかって見えた。

「『くじら』、お前先走りすぎだよ。せめてもう少し、伴奏を聞いて歌ってくれよ」
「ごめんね。伴奏がつくことなんて滅多になかったから、つい浮かれてしまって」
「ほらみろ。だからここのパート、少しだけ上がってしまうんだ。せっかく完璧に聴音ができるのに、気持ちひとつで揺らいでしまうのは勿体なくないか?」
「やっぱり完璧が好きだよね、少年。そう言っても君だって浮かれていたじゃないか。二ページ目の五小節目、少し音を外していた」
「俺はお前と違って天才ではないからな。常に完璧を目指していたいけれど、そうは上手くいかない。人間という生き物は、どうも失敗をしやすいものなんだ。……ところでなんだけどさ、そろそろ少年って呼ぶの辞めてくれないかな。他の皆を呼ぶときみたいに、相良くんって呼んでくれると嬉しいんだけど」
「だったら少年も、『くじら』呼びはなしだよ? その名で呼ばれると、こう、むずかゆくなってしまうものだから」
「そう言ったって、あんたは『くじら』に他ならないんだから仕方ないだろ。一応俺だって気ぃ使って、二人でいるときにしか呼んでないだろ」
「それを言ったら、おれがきみのことを少年って呼ぶのも二人のときだけじゃないか。人間社会では二人称を『少年』とするには無理があるからね」
「分かってるならいいけどさ……わっ、馬鹿。海に引きずりこむなって! キーボードが浸水したらどうすんだ。それに十二月だぞ、こんな寒い中水に使ってしまったら陸の動物は風邪を引くんだ」

ばしゃん、と誰かが海に落ちる音。すんでの間を置いて響いたわらい声に、ようやく思い当たる。嗚呼、そうだ。こんな熱量を抱いた演奏を弾きこなせるのは、この小さな街ではたった一人しかいないではないか。街にひとつの小学校、頻繁に空席だった彼の席。中学校の壇上で、何度も何度も讃えられた彼のコンクール実績。休み時間に音楽室を通れば、大抵彼がピアノを弾いていた。何かから逃げるように、ひたすらに鍵盤に指先を叩きつけるさまは、傍目で見ていても痛々しかった。
そんな彼――相良蓮が、今や声を立ててわらっている。心の底から楽しんで音楽と向き合っている。それは以前の相良からは考えようもできない変転で。きっとそれをもたらした所以は月城だったのだろうとは想像に難くなかった。

そして月城もまた。

月城もまた変わったのだ。彼の声質はやっぱり奇妙なままだったけれど、彼のこえが孕んでいた孤独は疾うにとけさってしまった。朗々と張り上げられたこえ。錆びがった、月城だけがもつ音が、潮のにおいと混じりあって春を連れてくる。滲むよろこびの色が、彼の変転を表していた。

(もしかして、月城。あんたは相良に会いに来たのか)
どうしようもなく孤独だった月城に、その昔言葉を返したというひと。淋しい同胞。それが相良だったのかもしれない。きっと彼らを食らう孤独はよく似ていた。どれだけ友人が多かろうと、理解されないという淋しさが拭いさられることはない。共鳴しあった寂寞が、朝の窓から零れ落ちてゆくうつくしい音達に収束したのだ。
どうしてもつよく、つよくそう思えてしまう。そう思わせるだけの衝動が、彼等の音楽にはあったから。

さあ、それで君はどうするの、と。
そう問いかけるように。朝のひかりが扉のノブの上で踊っていた。今尚窓の向こう側から、月城と相良の笑い合う声が聞こえる。波のさざめきに紛れて聴こえる音たち。あの日掴み損ねたその手を、取るべきか否か。選ぶべき答えは、きっと目覚める前から決まっていた。つめたいフローリングをぺたぺたと横切り、楽譜を掴んだ。

唇を噛み締めて、それでも少しだけ微笑みながら。志田は思い切り良くノブを回した。


(20181226/創作/褪青)