るりの祈り

 目蓋を閉じれば浮かぶ情景はいつだって青だ。透明で、汚れをしらない青色。それは、彼女の硝子細工じみた瞳の色によく似ている。そう、80分ごとに記憶を失ってしまう彼女のようなそこまで思いを馳せた後、僕は不意に苦しくなる。ああ、きっと今日も薰を起こしに行けば、彼女は世界のどんなものよりきれいにわらって、そして残酷な言葉を紡ぐのだろう。「はじめまして」と。


 薰の体温は、深海魚のようにつめたくて、僕はつくづく心配になる。うすいシーツから見え隠れする踵は日の光を知らないかと思うほどに白く、皮膚の下のあかい血管だけがしずかに彼女が生きていることを示している。頬は少しだけ赤く、シーツにうつくしい白髪が散る。ちいさな唇が、二酸化炭素を吐き出す作業を繰り返していた。かたくなに閉じられた目蓋を、すこしだけ撫でてやると、薫はちいさく身じろきをした。今日もまた、薰はなにもない80分を過ごせる幸せを手に入れた。ならば、明日もまた、こうして目覚めてくれるのだろうか。明後日はどうだろうか?いつまで薰は、この僕に――伊鶴ではなくこの僕にだけ、汚れをしらない青い二つ目をほそめて笑ってくれるだろうか。

 記憶を失うたびに短く昏睡状態におちいる薰が、ほんとうの眠り姫になる日が、僕はひどく恐ろしかった。


 死に否応なく惹かれてしまう。非人間かなにかのようにうつくしくて、そして誰よりも死にたがりの母さんは僕と伊鶴にそんなのろいを残した。幼いころから死に惹かれてしまう僕を掬ってくれたのは、伊鶴でも、柘榴色の目をした父さんでもなく、唯の他人である薰だった。此処にいる薫が僕のことを覚えていなくても、伊澄というちっぽけな少年が薫に掬われたことに変わりはない。薰が差し出した救いが、たとえ蜘蛛の糸を垂らしたお釈迦様のような気まぐれだったとしても。僕は薰に感謝をしているし、薫のためだったら、この身をさそりのように燃やしてしまったって良かった。


「かみさま。どうか、どうか。彼女だけは」

 そんな独り善がりの祈りを、僕は今日も喉の奥にしたためている。



理想と虚像/伊鶴の話