諦観に酔う


逃げ出してしまおうか、れおくんと俺で。誰の悪意も届きやしない、太陽の裏側まで。

その日は確か、酷い土砂降りが予報されていた冬だった、と記憶している。というのも窓枠を打つ雨音が一際大きかったからだ。記憶というのはいつだって自分のために改竄されてゆくから、もしかすると土砂降りなんて予報されていなかったかもしれない。日常に紛れた非日常、在り来りが氾濫するこの世界において、名づけられた特別は一際眩むような光を放っている。眩い光は些末な情報たちをすっかり暗闇に潜めてしまうから、人は無意識的に記憶を改竄してゆくのだ。特別な人、特別な私情、特別な事情、特別な夜。その日のレオにとって、泉のそんな言葉は間違いなく特別に分類されるものだった。レオは手に取るように思い出せる、吐く息が凍りそうな練習室の隅と泉の憔悴しきった顔を。互いの呼吸音ですら聞こえてしまうだろう距離で、ひび割れの見えるうつくしい瞳が、逃げ出したいと零していた。
「いーよ。セナがいるならどこへだっていけるだろうから」
震えた唇音。かすかに笑えば、すぐさま隣にいた泉も口元を緩めた。有難うねえ、と掠れた声がつめたい夜に落ちる。雨の間の静寂。このぼろぼろな身で何処へだって行けるだなんて、到底思っていなかった。それでもこんな世迷言に縋るしか、二人には生存を図る術がなかったのだ。
きっと自分は酷い顔をしているのだろう、と思う。もう何日も眠れていなかったし、耳が捉えられるのはもはや世に蔓延する騒音しかなかった。網膜はすっかり駄目になってしまったようで、どんな風景をうつくしいとは思えない。この身に通るすべての感覚が死に絶えてしまったようだ、なんて。唯一、の例外は。つきの色をしたこのうつくしい男の、氷のようなつめたい眼差しと、冬のような声だった。
「それじゃ今夜は逃避行だ。太陽の裏側までなんて我儘は言わないから。出来るだけ遠く、へ行きたい。せめて、燃料が切れるまで 」
唯一知覚できる冬の声の主が、そんな言葉を口の端に載せ手を伸ばしたから、レオは躊躇うことなくその手を取った。おれのセナ、おれだけの王様。おれの、青春だったものの共有者。そんな泉の手を取らないなんて選択肢はとっくの疾うに霧散していた。レオの手に負けず劣らずの傷だらけの手のひらに、すこし苦い痛みを覚える。あのチェックメイトのステージで、おれがお前に見せると誓いをかけた世界は、こんなものではなかったのに。泉に手を引かれるまま、レオは練習室を横切る。逡巡、そして焦燥。ばたん、と扉は閉まる。白紙の楽譜と白紙の参加届、それからあの日の誓いを部屋に置き去りにして。


浸水し始めた街は、よく知る街のはずなのに酷く他所他所しく思える。雨音はバイクの駆動音ですっかり掻き消されてしまった。幽霊ビル、鈍く光を灯す街灯、下世話なネオン。今や忌々しくて仕方が無いそれらの合間を縫うように、バイクは疾駆する。色彩と刺激の暴力に塗れた薄汚い現実を捨てたら、もうすこしは軽くなれるのかもしれない。そんな祈りをしたためて、遠く遠くへ。廃水臭いマンホールの蓋が浮いている。草臥れた顔をした会社員が差した傘は嫌悪感を募らせる色をしている。雑踏を掻き分ける野良猫はすっかり濡れ落ちている。きっと自分もあの野良猫に匹敵するくらいにはずぶ濡れなのだろう。雨合羽を着ているとはいえ、この雨の中ではずぶ濡れにならない方が可笑しいのだ。笑い出したい気持ちを抑えて、レオは唇を噛み締める。踏切音、終電近い列車を追いかけて、次の街へ。
急停止がかかり、思わずレオは回していた腕に一層力を込める。遅れて、地を打つような重い衝撃。どうやら赤信号のようだった。昂揚していた気分はゆるやかに現実に引き戻される。目まぐるしく移り変わっていた視界は減速して、やがて目の前の泉の濡れぼそった髪先に焦点が合う。鼻につくような湿気と、酷い雨がアスファルトを打ち付ける耳障りな音がレオの感覚を殺してゆくなかで、灰鼠の髪先だけが眩むような光を抱いていた。

うつくしい、と思う歓喜と同時に衝動的な嫌悪感が顔を出した。誓いは置き去りにされて、雨はすっかりとレオに張り付いていた建前を洗い流してしまっていた。憔悴しきっていても、この先の展望に期待なんて見えやしない中でも。こんな星の光さえ届かない逃避行のさなかでさえ、レオの青春の共有者は美しかった。それはレオにとって愛すべき事実でありながらも、そう。本当のところは、どうしようもなく疎ましかった。あの氷のような眼差しと冬のいろをした声に焦がれながら、悪意に感覚を殺され、いつしか心を殺され、きっと自分ひとり真っ暗な夜に沈水してゆくのだ。それは、淋しいことだしと思ってしまった。ひとりきりで星になれず死にゆく意味は、裸の王様にだって理解出来るから。「お前の望みを叶えてやる」だなんて、白々しい。本当は共に死んでほしかった、なんて。
そうだった。自分は泉と共に生きたい訳でも、逃げたい訳でも無い。星になれず地に堕ちゆくその今わ際に、孤独を覚えていたくはないのだ。
そう、確かに自覚してしまう。自覚した浅ましさから逃れることはできやしない。自分のなかにあるものから、当の自分がどうやって逃げ出せるというのだろうか。逸る心臓の音が遠くなり、バイクの不規則な振動がレオに張り付くような生の感覚を訴えかける。泉が逃げ出したい、と切に願ったのは人の悪意からだった。遠く遠くへ向かうほど、悪意は掠れて不鮮明に変わりゆく。レオが逃げ出したいと思うものは、遠く遠くまで行ったとしても振り落とすことはできやしない。
自覚したうすくらい情動をゆっくりと咀嚼して、見えない胃へと押し込んだ。それでも、泉の手を取ってしまった今、レオはこの逃避行が行き着く先を知りたかった。それは切望と言い換えてよいような、祈るような衝動だった。クラッチをつなぐ音で、滑るようにバイクは発進する。再度加速を始める視界に、レオは瞼を閉じた。風を切る音や降りしきる雨はつめたく、然ししがみついた泉の背中は泣けるほどに暖かった。


ブレーキが引っかかる音がして、終着点に着いたことを知る。瞼を開けば、見慣れたファミリーレストランの看板の色彩が網膜をつらぬいた。どうやら見知っている街は疾うに過ぎ去っているようで、しかしながら終着点は在り来りなチェーン店や住宅のひかりに溢れていた。出来るだけ遠く、遠くへ。それでも辿り着いた此処は、泉たちの街と同じような、現実によって均一にならされた無個性な街に過ぎない。そう、知った。
高校二年生、十七の冬。やっぱりレオたちは、何処にも行けやしなかった。ほんとうは、少しだけ。期待、していたのだ。人の悪意も、自分自身の浅ましささえ置き去りにできるのではないか、と。それはやはり祈りでしかなく、レオと泉は薄汚い現実を生きてゆくほかないのだ。

れおくん、と名を呼ばれる。顔をあげれば、ヘルメットを外しながら、疲労を浮かべた泉がレオを真っ直ぐに見つめていた。そうして、整ったかたちのくちびるがゆっくりと笑みをつくる。そのさまから、レオは目をそらすことが出来なかった。何故、彼は笑えるのだろう。こんな八方塞がりの状況下で、どうして。その疑問は、次の泉の言葉に明るみに晒されることになった。
「なんにもなかったけれど、楽しかった、ねえ」
つきの色をした青年が、そう朗らかに言う。びしょ濡れの輪郭を伝う雨粒は、鮮やかなネオンの色彩を内包している。眦に隈をつくり、傷だらけの手のひらでハンドルを叩く。そんな泉のうつくしいまなこは、ひび割れていれど諦めてはいなかった。闘鶏のような激しさを抱くその青を形容するならば、つめたい焔のようで。

嗚呼、と嘆息を零す。おれは、この男とともに死ぬわけにはいかない。だってこの男は、まだ生きることを諦めていない。人の悪意に晒され、後ろ指を指されて憔悴しようと、泉は足掻き続けるのだ。きっと今まで何度でも泉は人の悪意に晒されて、何度でもこうして抗ってきたのだ。その激情をゆっくりと融解させながら、泉は今まで生きてきた。そして、これからも生きてゆくに違いない。
そう理解したとき、真っ暗だったこの先の展望のなかで、レオがこれからすべきことが一筋のひかりとなって射し込んだ。レオがこの青春の共有者に報いることが出来ることが、たったひとつだけ。この方法が正しいのか、間違いなのかはきっと神様だって知りやしない。それでも可能性を賭けたい、と思った。二人がはじめたナイツというユニットが、この先も存続してゆく可能性を。レオのいないユニットで、泉が世界の一番たかいところで瞬く一等星になる、そんな瞬間を見たいと望んでしまった。

きっと、自分達は随分と遅くなった夕飯を食べ、空っぽになった燃料タンクに燃料を詰め込んで、あの現実をかたちにした街へ帰るのだろう。そしてきっとレオは白紙の参加届にただ一人の名前を書き込むのだ。学院の王者である天使を気取るユニットとの対決書類に、月永レオというただひとりの裸の王の名を。


(20181029/諦観に酔う/レオいず)

▷今は懐かしきホラーナイト・ハロウィンイベント。

かの有名なホラハロの直前に、「世界一救いがない二人を書こう」と思い立ち仕上げたものです。

あの頃のレオくんは瀬名くんのことを愛しつつも恨んでいるのではないかな、と邪推していました。ネクストドアが来てしまった今、実際どうだったのか答えは出せていません。/2020.08