5.カンタータは歌われない・前半

カンタータ…単声のための器楽伴奏付きの声楽作品のこと。元来は動詞「歌う」の分詞形であり、「歌われるもの」を指し示す。



 実のところ、蓮は、転校生の月城をなんと呼ぼうかと考えあぐねていたのだ。まぶたを閉じるたびに、転校生の深淵を覗き込んだような孤独な双眸のことを思い出すからだ。ひとの血の通うあたたかさのない、柘榴色の双眸。いつもの蓮ならば、クラスメイトのことを呼び捨てにするのだが、どうにも転校生のこの少年を、「月城」と呼ぶには違和感を覚えた。けれども、それ以外にどういう言葉でこの不思議な転校生を表現するべきだろうか。悩んだ挙句、蓮はこの転校生を、こころの内側では「くじら」と呼ぶことにした。この転校生がやってきたその日に、世界で唯一と言われたクジラがこのちいさな街で息絶えた。孤独な二つ目を大きな図体にかくしながら。


 ヘッドホンの向こう側、流れ続けるエチュードよりも向こう側で、女子たちは未だ月城をー「くじら」を囲んでいた。どうも女子たちの纏う甘ったるい匂いは自分には合わない。熟れ過ぎた果実を混ぜ合わせたみたいな香水から、反射的に蓮は顔を背けてしまう。けれども「くじら」は、特に気にしたふうもなく、女子たちと雑談を交わしている。

 気になった蓮は、「くじら」を観察することにした。全体的に見て、「くじら」は中世的な容姿をしている。容姿端麗、身長も通常に比べれば大分高身長。加えて、「アルビノ」という幸か不幸か曖昧で言い切れないオプションを備えている。その性格は、どうやら穏やかな気性のようだった。現に今、女子たちに言葉を返す「くじら」はのんびりとしていて、角が立つような言い方はしない。だけれども、意見に流されやすいというわけでもないようだ。自分の意思をしっかりと握っていられる、芯のつよい性格なのだろう。口元で微笑をつくる「くじら」を横目に、蓮はふたたびエチュードの正しい音に耳を澄ました。きっと、「くじら」と自分の関係性は転校生とクラスメイトというものから進むことはないのだろう。

 「くじら」に何かない限りは。

 宛てのない確信が、心臓を貫いた。それは、浮ついた雰囲気の抜けきれない、ありきたりにほぼ近いような、朝のことだった。


「ええー、そうだったの?それじゃあ月城君さ、」

 歌ってみてよ。

 女子たちと「くじら」の会話が、思わぬ方向に進んだのは、エチュードの「黒鍵」が疾うに終わり、「雨だれ」の穏やかで単調な音色をはさんだのち。「英雄ボロネーゼ」の序章部分が軽やかに流れ出していたときだった。空気がかちりと変わる音が、聞こえた、そんな気がした。変化した雰囲気に、思わず蓮は顔を上げる。ヘッドホンを外せば、ピアノはもう聞こえない。浮かれこんだ空気が鼓膜を刺した。

 視界に映り込んだ「くじら」は、相変わらず小さな笑みを乗せていたが、その求めに対しては少し困ったように眉を寄せていた。人前でうたをうたうという行為は、どうやら彼にとって抵抗感があるらしい。うつむいたその双眸の奥にひろがる、深淵を覗き込んだかのような孤独をはらんだ柘榴色。あの日見上げた、世界一昏いそのひかりと同じ色合いに、思わず蓮は魅入ってしまう。

 不意、に。「くじら」は顔をあげた。底の見えない柘榴色の視線と自分の視線が、絡み合う。「くじら」は少しばかり驚いたような素振りをみせていた。唇はうすく開かれており、かたちのよい眉はハの字に下げられていた。まあるい優しげな形の瞳には驚きがひそんでる。ソーダが弾けているみたいだ、と蓮はぼんやりと思う。


小さな唇が、言葉の形をとる。「ひさしぶり」と。


 この小さな町では顔見知りのものとは自然と距離が近くなる。この小さな町に越してきた、転校生と顔見知りになる機会なんて、今の今まで一度たりともなかったはずだ。けれども、彼は確かに「ひさしぶり」という言葉を口にした。不思議そうに首を傾げた蓮を、「くじら」はいったいどう思ったのだろか。

『それじゃあまたね。いつか君がその音を愛せるようになったら、』


「月城君の歌声、俺も聞きたいな」

 脳で思考をめぐらすよりも先に、脊髄で言葉を返していた。知りたい、聞きたいという衝動が唐突に蓮を突き動かしていた。聞きたい、知りたい。それは最早使命のようにも思えてしまった。蓮は、この真っ白な青年のうたを聞かねばならない。

 その声に、跳ね上がったように月城はー「くじら」は蓮を見つめ直した。奇妙な感覚が、震えるような予感が蓮を襲った。さながら、この空間には、彼と自分しかいないような。深い海の底で、泳ぎ方の知らない蓮は「くじら」とともに沈殿してゆく。怖くなかった、この世界一孤独なクジラと一緒ならば。

「ねえ、相良くん。ちょっと、割り込まないでくれる?」

 流れを失っていた教室の言葉たちを巻き上げたのは、クジラではなく、真っ白な転校生を囲んでいた女子たちの声だった。突如会話の輪の中に割り込んできた蓮のことを、じろろりと睨めあげるように見上げてくる。けれども、そのときの蓮にとって女子たちの不満げなブーイングは届いていなかった。今の蓮が聞けるのは、「くじら」の唇音だけだった。彼の静かな息衝きの音を連の耳は正確につかみ取る。宛てのない確信をする。「くじら」の声を聞き遂げられるのは自分だけだと。


6.カンタータは歌われない・後半