まなじりに滲む

 

 

 からだ中を巡りに巡っていた熱がゆっくりと凪いでゆく。おおきく拍動していた心臓が、徐々にいつものリズムに還ってゆくさまを、レオはどこか他人事のように感じていた。

 はっ、とみじかく一息つけば。途端、輪郭をつたう汗がぱたぱたと垂れ落ちた。サイドランプの柔らかなひかりを透かして、ひととき宙を浮いた水滴は、そのまま組み敷いた女のひたいへ。僅かに上気した肌のいろはまるで熟れた白桃のようだ、ととりとめのないことを思う。この白さが、彼女が毎日ささやかな努力を重ねた結果であることをよく知っていた。気の赴くまま、濡れたひたいとひたいをくっつけてやる。途端、寄せられた眉に、知らず知らずのうちに口角が上がってしまう。れおくんのくせに、とひっそり毒づく口を、自分のそれで塞いでやる。意表返しのつもりでキスを深めてやれば、耐えきれなくなったように胸元を叩いてくる。

 幾度繰り返してみても、深いキスには慣れないらしい。その不器用さが、彼女の——泉の可愛らしい点でもあるのだが。おそるおそるといった風にして、積極的に舌を絡めようとするさまに、ほんの少し悪戯を仕掛けたくなるものだから。くっつけあったくちびるをわざと離してやれば、睨めあげる視線とぶつかった。鮮やかな青が、波紋を描くようにして滲んでいる。ああ。きれいだ。なんて、この女の瞳を前にしてしまえば、どんな言葉を並び立てたところで陳腐に感じてしまう。

 

「……わざとでしょ」

「ん〜? どうだろ。セナはどう思う?」

 

 勿論、返答はない。レオの恋人は滅多に本音を口にはしてくれないのだ。それでも、明るくとろけた双眸はただあまいから。すこしだけ調子に乗ったレオがさらけだされた首元に頭を載せてみれば、あつい、重いと容赦のない泉の言葉が飛んだ。その言葉を無視して、仕返しとばかりに鎖骨の出っ張りを舌でなぞった。ひゃっ、と色気のない声。その声をとらえたレオは、喉奥ですこしだけわらった。

 スーパーモデルである泉の背筋が震えるようなうつくしさも、その美を維持するためにかけた努力の大きさも、レオは側でずうっと見ていた。雑誌の上ではにかむ泉の姿を見るたびに、世の中の男たちはきっとひと目で彼女に恋するだろう、なんて考える。洗いたてのシャツみたいにまっしろなにおいを纏わせて、流行の口紅を引いた彼女は、ほんとうにうつくしいものだから。

 それでも、とひとりほくそ笑む。

 それでも、自分の容姿の価値をただしく認識している泉が、この寝室にいるあいだだけは、ただの恋する女のひとになる。

 

 ひたいをくっつけあえば気持ち良さげに瞼を閉じるし、キスを焦らされれば拗ねた様子をみせる。どれもこれも、雑誌の中の泉ならけしてみせないような表情の数々だ。世の中にいる星の数程いる男たちのなかで、ただひとり、レオにだけ。おもむろに首筋に顔を埋めて、めいっぱいにおいを吸い込んだ。鼻孔をくすぐる汗のにおい、泉のにおい、それからレオのにおい。

 

 未だうすぼんやりとした視界の端で、しろがねの色をした髪がさざめいた。くすくす、と。ため息にも呆れにも似た声が降ってくるので、思わずレオは顔を上げる。

生の温度が滲むシーツのうえで、泉がわらっていた。一体全体、なにがおかしいのやら。小首を傾げて問うレオに、心当たりはない。

 

「なんか、おれ、変なことした?」

「んー……別に。ただ、かわいいなって思ったの」

 

 なんというか、子猫みたいで。そう付け加えた泉は、しょうがないなぁと眉をゆるめてはまた可笑しそうにわらう。ふと、伸ばされた手が、レオの髪をくしゃくしゃになるまでかきまわす。拾ってきた子猫を撫でる女子高生みたいだ、なんて。さっきまでのあまったるい雰囲気はどこへやら、すっかり気の抜けた様子の泉に、レオの方も脱力してしまいそうになる。しかし、仮にも二十歳過ぎの男を捕まえて「かわいい」とは。レオはむつかしそうに眉を寄せた。

 

「おまえの恋人は、かわいい男なの?」

 

 返答を期待していないその言葉に、瞬間目を丸くした泉は、ふふっと口元をゆるめてわらう。それは、ささくれたレオのこころを見透かすようで。どことなくいたたまれない気持ちになったレオが視線を外せば、つかの間。橙の髪をくるくるともてあそびながら、レオと視線を合わせた泉の眼差しに、さっと熱が滲む。それは、あざやかに爆ぜる焔のようで、うつくしく。そのまたたきの間の移り変わりに、見惚れてしまう。

 

「世界一どうしようもなくて、世界一かわいくて、そのくせ世界一かっこいい男のひとだよ」

 

 ねぇ、れおくん。そんなあんたがすきだよ。

 

 真っ直ぐな言葉に射抜かれる。はれはじめた唇のふちが、ランプの灯をのせて柔らかくひかっていた。燃えるような夜のいろにけぶった瞳が、氷星を砕いたような熱を浮かべている。レオが愛してやまない泉の双眸は、ばかみたいに恋人に溺れている自分の姿を映しこんでいた。

 

 それは、まるであわいにあるような。この光景が、レオにだけ与えられた光景であることを、レオはゆっくりと噛み締めた。彼女のえらんだ唯一無二の「特別」が、自分であるということを。彼女に与えられた幸福のおおきさを、彼女にゆるされているという、彼女に愛されているという安心感のおおきさを。それは、ああ、なんて。まなじりがゆがむ。鼻がつんと痛くなる。泉が愛用する香水だろうか。ベルガモットのかろやかなにおいが、レオの鼻腔を気まぐれに掠めていった。

 

「わ、ちょっと。なんで泣いてるの?」

 驚いたような泉のこえに、ぐるぐると重ねていた思考が途切れた。ぱたぱたと溢れる涙の伝う湿った感触から、自分がほんとうに泣いているらしいと気付く。

 それにしても、組み敷いた女の上で、感極まって泣いてしまうなんて、全く情けないにも程がある。普段通りを装って返そうとした「なんでもないから」はか細く遠のいた。しょうがなく、黙ったままにぐりぐりと頭を押し付ける。湿った肌のあたたかさのなかで、なんとかして自分のこころを一巡りしたことを伝えようと試みるけれども、喉につかえてしまって上手く言葉にはならなかった。全く、だから言葉ってやつは不自由なんだ。

 おもむろに、泉の身体を抱き起こして、その背中にゆっくりと手を回す。折れそうな程にほそく、しかしきちんと芯の通った身体をできるだけやさしく抱きしめた。肌理のあらい不器用な男の手が、柔肌をゆっくりと滑ってゆく。なされるがままの泉は、レオに理由を聞くわけでもなく、ただ瞼を閉じていた。とくとく、と少しだけはやさの違う心音を、できるだけくっつけあって。

 こんな拙い手段では、きっと百億分の一も伝わりやしない。と、レオは強く思う。それでも。それでも、知って欲しかった。どれだけ自分が泉を愛おしく思っているのか、どれだけこの人肌のあたたかさに安心感を覚えているのか!

 

 泉の指先が、なにか確かめるようにレオの身体の線を辿った。しなやかで品の良さを感じさせる、整った指先が、サイドランプのひかりを乗せて星をはなつ。腰から胸元、鎖骨を過ぎたら、輪郭に。まなじりにまで達した指先が、丁寧に涙を拭う。その温度に回した腕のちからを緩めれば、泉は猫のように囲いを抜け出した。瞬間、指先が宙を掻いた。唐突に、遠ざかっていった温度をゆっくりと手繰ろうと、顔を上げようとすれば、途端覆いかぶさるようにして抱きしめ返される。再びくっつきあった心音が、おんなじタイミングで拍動した。

 

「大丈夫、わかってるから」

 声音に滲む慈愛のいろ。その言葉に、決壊した情動とともに揺れていた焦点が定まってゆく。もう一度、ゆっくりと泉の方を見れば、泉もまたレオの方を見ていた。深呼吸、すこしの間を置いて。色の落ちた泉の唇が再び開かれて、やさしい色に滲んだ。

 

「あんたがどのくらいあたしを好いてくれているのかなんて。初めて出会ったときから、ずっとずっと。あんたから愛とかいうやつを貰い続けてるんだから」

 だから、泣かないでよ。あんたの泣いている顔も嫌いじゃないけれど、どっちかといえば笑ってる顔のほうが好みだし。

 

 ああ、この女は。飾り気のない、率直な泉の言葉にレオはゆっくりと口角をゆるめた。ちゃんと知って、ちゃんと汲み上げて、その上でちゃんと返してくれる。否。ちゃんと汲み上げて、ちゃんと返してくれるようになった。一方通行でも構わないと思っていたこの愛が、めぐりめぐって言葉として還元されていること、言葉の足りないレオごと抱きしめてくれたこと。その全てに愛おしくて、たまらなくて、セナにはどうしたって適わないや、と小さく言葉が溢れた。

 

「何か言った? れおくん?」

 小首を傾げて問う泉の髪先が、一房分垂れ落ちる。鈴なりに連なった星が尾を引くみたいだ、なんて。その様を目で追いながら、すっかりいつもの調子に戻ったレオは、泉の影のなかでひっそりとわらう。

「ん〜、セナ。キスしていい?」

 いいよ、の返事は待たなかった。途端、唇が触れるかどうかの距離にまで詰めたレオは、ゆっくりと息をついた。うすくひらいた唇から溢れた吐息は、悩ましげな色を乗せている。鼻筋を擦り合わせて、目を細めて。それでも互いに視線だけは離すことなく。

 

   愛してる、と恋してる、をめいっぱいに詰め込んで。囁くように、わらうように。たった三文字に、万感の思いを込めて。そうして、レオは世界で一番いとおしい恋人の名を呼んだ。

 

(20191119/まなじりに滲む/レオいず♀)

▷月永に瀬名ちゃんを名前で呼んでほしい気持ちとあだ名で呼んでほしい気持ちが常にせめぎあいを起こしています。余談ですが、いつか絶対に「氷星を砕くような」という表現を使って文章を考えてみたかったため、達成できてうれしい思い出があります。/2020.08