Good-bye, My .

そこはゆらりとたゆたう透き通った青色で満たされる世界の中。

ひとつ、メモリーの一欠けらがその中に飲み込まれて、そしてまた世界は鮮やかな青色で満たされる。

 

そんな世界のなか、少女は静かに息をついた。

 

こぽりと小さく口から零れた言葉は、空気を震わすことなくただただ青色に飲み込まれてゆく。

 

「    」

言葉にならない声は少年の名前をひとつ、呼ぶ。

 

うっすらと開きかけた瞳の色は、この閉塞的な空間と良く似た鮮烈な、蒼。

硝子のようなその瞳はふと閉じられて、少女はまたひとつ息をつく。

 

もう分かっていたのだ、自分はこのまま無機質の青で満たされた世界に飲み込まれてしまうことなんて。

 

耳障りなノイズとともに崩壊してゆく電子はひとつ、ふたつと零れて、消えた。

そっともう視えない、視ることのない世界へ手を伸ばして、少女は震える唇でまた言葉を綴った。

 

言葉は届くことはなく、ただただ青に飲み込まれてゆくだけ。

 

もしもこれで最後ならば、私は。

赤色の瞳を失った少女は電子の海に沈んでいく。

 

 

 

Good‐bye, My   .

 

 

 

「時々泣きたくなるんだ、自分の弱さに」

 

夕焼けの綺麗な放課後に遥はぽつりとそんな言葉を零した。いつものように笑いながら、でもどこか寂しそうに。

空を見ているはずなのにその遥かかなたを眺めているような彼はゆっくりと目を細めた。

傷一つない、繊細な指がくるりと弧を描く。

「きっとこんな弱弱しい手じゃ誰も救うことなんかできやしない」

黄金色の光がかすかに揺らいで、ふたりきりの理科室を橙色に染め上げる。

 

淡いけれども鮮やかな色で満たされるその場所で私は息をついた。

 

 

遥という人間はとても優しい人だった。

いつだって穏やかな微笑を浮かべて、争いを好まず、丸く黒い瞳を時折寂しげに細めて、静かに息をつく。

それでいて何かの終わりの瞬間に酷く怯えて、ぽつりぽつりと涙を零す、そんな少年。

淡い色の夕焼けを見つめながら指を絡めて笑う遥は呟くのだ。

「幸せだなぁ」なんていうありふれた言葉を。

 

「貴音」

 

ふと呼ばれた名前に振り向けば、彼はふわりと笑みながら手を伸ばした。

「一緒に帰ろう」

ああ、何故その笑みと声に惹かれてしまったのだろうか。

その言葉に頷き返して、伸ばされた手を取った。

流れ込む温かい温度。私はその温もりに安堵しつつ、口元を緩める。

 

今、私は。私たちは。

 

白色のレース模様のあしらえられたカーテンは柔らかくはためいた。

 

 

** * **

 

 

朦朧とした意識の中、果てのない青に沈んでゆく自分をどこか他人事めいたように感じていた。

自分自身はあと少しでこの青に飲み込まれてしまうのに。抱き続けた記憶だって大切にしていた想いだってなくなってしまうのに。

 

それなのに、何故だろう。

 

その事実は自分の中にちょうど良く収まったのだった。

 

雑音交じりのノイズとともに微かに聞こえるのは、必死に私の名前を呼ぶ声。

分かっていたじゃない、あの時からもう私が崩壊するだけのただのプログラムであることなんて。

 

だからさ、そんな必死な声で呼ばないでよ、ねえ。

 

叫んだ言葉たちは届くことはなく、青色に溶けた。

 

 

** * **

 

 

鈍い色の広がる空は今にも雨粒の落ちてきそうだ。

そっとそんな空に手を伸ばしてみれば指の先で水滴が跳ねた。

水滴の冷たさにぎゅっと目を瞑ってまた一歩アスファルトを踏みしめる。

片手で握り締めた傘を差してみれば、ビニール越しの町並みが広がった。

 

もう一方の片手に温もりは、ない。

 

伏せ目がちにそっと所在なさげな左手を見つめた。

これが「あたりまえ」だったのに。

 

どうしてこんなにも寂しいと感じてしまうのだろうか。

 

静かに息をついた。とくりとくりと打つ鼓動は確かに在る。

大丈夫だから。

自らに言い聞かせて、そっと雨に濡れる街へと駆け出した。

 

「九ノ瀬がいないんだ」

 

聞きなれた低い話し声が全てのはじまりだった。

記憶はおぼろげで、ああきっと気を失ってしまったんだなあとぼんやりとした意識の中で気づいた。

ゆっくりと目を開けばただただ白い、よく見慣れた空間。

「授業が終了したすぐ後に、泣きそうな顔をしながら飛び出して行って、それきりだ」

不安そうな担任の声と足音。外を見上げれば夕焼けの代わりに濃灰色の雲が一面に広がっていた。

 

ふと、鮮やかな夕焼けの黄金色が教室を満たしたあの日のことを思い出した。

 

何かの終わりに酷く怯えてしまう、彼を。

繋がれた手から伝わる温もりに酷く安心した、自分を。

 

ひとつの憶測が弾けた時、私は重い木の扉を押してつんとした薬品の匂いが漂う保健室を飛び出したのだった。

 

 

色とりどりの傘を弄びながら談笑する人々の間を駆けて、息をゆっくりと吐いた。

倦怠感の残る体でまた一歩、歩を進めて必死に彼を探してみても、見当たらない。

ぽつり、ぽつりと降り注ぐ雨は止むことを知らず、アスファルトに水溜りを生み出した。

 

 

** * **

 

 

不意に襲われる孤独感に崩れてゆく自らの身体を抱きしめた。

 

ああ何故こんなにも無機質な、温度のない世界に沈むことに恐れを抱くのだろうか。

もう何を望んだって変わらない、なんて気づいているはずなのに。

後、もう少しだけ。もう少しだけ時間がほしいと思ってしまうのだ。

 

青色の世界に沈む少女はゆるやかに息をついて、そして。

 

 

* * * **

 

 

彼を見つけたのは、降り注いでいる雨がふと止んだそんな時だった。

不安げに空を見上げる人々はそっと傘を折りたたんで、何事もなかったように流れてゆく。

その間をくぐりぬけて、震える肩に声をかけた。

 

「…遥」

 

名前を呼ぶと、歩みを止まったその背中を見て、ああやっぱり彼だ、と笑みがこぼれた。

 

「…なあに?」

 

返ってきた温かな声に何かがあったわけじゃないんだと安心して息をついた。

ぽつぽつと水滴が垂れる緑色の葉は傘から滴る水滴で大きく跳ねる。

 

「ごめん」

零れた言葉は謝罪の言葉。

「心配させて、ごめん」

ゆるりと口元を緩めて、私はその濡れた手を握り締めて告げた。

 

「大丈夫。私はちゃんとここにいるんだから」

 

だから大丈夫、と何度もうわ言の様に繰り返す。少しでも彼が安心してくれるように、と。

ぽつりぽつりとまた降り出した雨に濡れてゆく彼のほっそりとした手はぎゅっと握り締められたまま。

 

「…怖かったんだ、もしかしたら貴音がいなくなっちゃうんじゃないかって。ああ、やっぱり僕は誰も救うことなんてできないんだなんて不安になってしまったんだ」

 

震える唇から紡ぎだされる言葉たちは雨音とともに鼓膜を振るわせた。

 

「貴音、凄く怖いんだ。握った手の平から温もりが消えてしまうことが。柔らかく笑う貴音が息をつくことがなくなってしまうことが。

 

いつか必ず来るだろうそんな時に怯えてしまうんだ」

ぽつり、ぽつりと雨に紛れて彼の頬を伝う雫は水溜りにぴしゃりと跳ねる。

横切る人々は忌々しそうに濁った空を見上げて、水溜りを蹴り飛ばした。

 

「…約束をしよう」

 

そんな言葉がふと零れたのは何故なのだろうか。

彼の白い手を握り締める。流れ込む、温かい人の体温。

 

「私だって怖いよ。もしも遥がいなくなってしまったらなんて考えたら、凄く怖い。

だからさ、約束をしよう。

二人でさ、明日も互いを確かめ合って、笑い合おうよ」

 

その言葉に彼の黒い瞳はゆらりと揺らいで、そしてふうわりと穏やかに笑いながら小さく頷いたのだ。

 

それは明日がないかもしれない少年と少女が交わした約束。

 

そんな不安定なものでさえ少年の温もりが消えてしまうことで酷く不安になってしまう少女にとって、そして少女がいなくなることに酷く怯える少年にとって大きな存在となったのだ。

 

 

** * **

 

 

どれ程の時間が経ったのだろうか。

 

もう何も聞こえない。もう何も感じられない。

手元に残されたのはぼんやりとした意識と失いつつあるメモリーたちだけ。

言葉を発したとしてもそれは誰の鼓膜を震わすこともなく、ただただ青い世界に落ちてゆくだけなのだろう。

 

透き通った青で満たされる世界でひとり、少女は思う。

 

「明日も一緒に互いを確かめ合って、笑いあおう」なんていう約束を果たすことができないなんて、気づいていたのに。

 

おぼろげで不鮮明な記憶の一欠けら。もうあと少しで砕けて消えてしまうであろうそれは胸を締め付ける。

 

その痛さにふわりと笑んだ。ああまだ私はここで生きている。

 

ゆらり、ゆらりと遠ざかる意識。

もしもこれで最後なら、私は。

 

 

無機質な電子世界に少女は飲み込まれて、そして青色に溶けてゆく。

 

 

** * **

 

 

そこはただただ白いだけの空間。

上も、下も果てしない白だけが広がる中、ひとつの明るい声が響いた。

 

「…ニセモノさん」

 

ふと呼ばれた声の主は、もう会えることがないと諦めていた少女のものだった。

 

あの日、ループ世界から抜け出すために犠牲になった少女。

「もうひとり…必要なんです。このループ世界の帳尻あわせには、ここに残らねばいけない人が、もうひとり」

「コノハと私は無理やりひとつの命を半分に分けられたんです。

半分の命では両方とも出ることは出来ません。

だから、私がここに残ります」

綺麗な青い瞳で真っ直ぐと先を見つめて、最後まで笑みを絶やすことのなかった少女。

どこか懐かしい雰囲気を持つ、凛とした少女は最後に僕にいつものように笑いながら告げた。

 

「約束を果たせなくてごめんなさいね。ニセモノさん。

あなたはその手でひとりの少年を救うことが出来たんですよ。

もう、大丈夫です。ニセモノさんは」

 

その時僕はふと気付いた。彼女の瞳の奥に寂しさと悲しみと怯えが揺れていることに。

 

鮮明な青い髪をそっと撫でた。硝子越しで伝わることのないその感覚に彼女は驚いたように目を見開いて、それからくすぐったそうに笑った。

 

「ああ、やっぱり貴方は遥なんですね」

 

そうぽつりと呟かれた言葉に僕は曖昧に微笑んだのだった。

 

ループ世界の中へ置いていってしまった少女がもう一度、僕の名前を呼んだ。

「なあに?」と返すと、彼女はふうわりと柔らかく笑んで手を握った。

 

電子体と人造人間、温もりは伝わらない。伝えられない。

 

「ニセモノさん、たったひとつだけ伝えたいことがあるのです、いいですか?」

真っ直ぐに僕を見つめるその瞳はぶれることがなく、ぴたりと定まったまま。

 

「生きてください、貴方は。たとえその右手から温もりが消えたとしても。たとえ何かを失ってしまったとしても貴方はもう大丈夫です。

もう、貴方にはその手で誰かを救うことが出来るのですから。」

 

ぽつり、ぽつりと雫が滴り、彼女の頬を伝う。

それを拭おうとして、初めて彼女が透けていることに気付いた。

 

「たとえひとりでも大丈夫です。貴方は靭いのですから」

 

くるりと一回転をして彼女は緩やかに笑みを浮かべながらゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「さようなら」

 

白色だけの世界に刹那鮮やかな色が溢れて、弾けた。

 

 

** * **

 

 

うっすらと揺らめきながら差し込む朝焼けの光が今日を告げた。

 

うとうとと微睡んでいた少年はおぼろげな意識からゆっくりと引き戻される。

そっと窓を見上げて淡い橙色に色づいた空に手を伸ばした。

細められた薄紅色の瞳は先を見据えていて、ピントがぶれることはない。

寂しそうに右手を眺めた少年はその手を握り締めて、悔しそうに唇を噛みしめた。

手元においてある携帯のスクリーンに触れて、電子世界へのパスワードを急いで開いた少年はくしゃりと顔を歪めた。

 

少年の瞳から溢れた涙は画面の上で弾けて、砕け散る。

 

 

誰もいない、無機質の青い青いスクリーン。

 

それを見つめて、少年は泣き続けた。

 

 

 

Good-bye, My   .

 

(愛した少年へさよならを告げて)

(愛された少女は緩やかな眠りへ落ちる)

 

 

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