午前零時、ソーダポップに揺られて夢をみる

 どこまでも透明な青で満たされる午前零時。つめたさもあたたかさも知覚できな身体を抱いて、少女は夜から目を閉じる。夏の色を湛えた鮮烈な色の双眸は瞼の奥へと仕舞いこまれてしまった。ゆるやかに発光するメモリーを指で弾いてみれば、乾いた音ともに電脳世界の彼方へと流れて、消えた。

交わされる言葉のやりとりと、二進法の信号。夢うつつな少女の周りを漂うそれらは、海のなかでたゆたうくらげのようだ、と呆と考える。光の落とされない水槽に詰め込まれたくらげ。それは閉塞感を連れるこの世界を、無意味にたゆたう自分に良く似ていた。どうしようもない息苦しさを抱えながら、少女はひざを抱え込む。

こころのない会話たちは少女にとっては耳障りなノイズにすぎない。キーボードで入力された文字列たちはどこか無機質で、薄い壁で隔てられるような心持ちにさせられる。すこしだけ音の消えた世界が欲しくて、少女は耳を塞いでみる。青く透明で、傷一つないうつくしい世界をたゆたいながら、少女は浅い夢をみる。

 

眩しいアリスブルー、べったりとした暑さが連れる不快感。不器用で、つぎはぎだらけの音に惹かれ、つんとした薬品の匂いで満たされる教室をこっそりと抜け出した、夏。新調したばかりの上履きはまだ履きなれず、少女に微かな違和感をもたらす。見慣れてしまった廊下を先へと駆けて、軋むドアを開け放つ。

涼やかな夏風が少女の肌を撫ぜる。木の葉の摺れる音とともに吹き込む風は心地よく、そっと目を閉じる。校舎の窓から落下する木漏れ日は、たなびく白いカーテンに模様を刻んだ。どこまでも青い、蒼い夏。ピアノと戯れるひとりの少女は不器用な音を奏でる。しっぽのように揺れる赤いマフラーと、たゆむはちみつ色の髪。綻んだ口元は楽しげで、この練習室が彼女の世界であることを暗に示していた。

ぎこちない音のなか、少女は水で満たされた空間へと落ちてゆく感覚に囚われる。どこまでも底のない、けれども明るい水のなかへと落ちてゆく感覚。それは電脳世界を飛び回る感覚に良く似ている。言葉を紡ごうとすれども、それはただの泡沫へとかたちを変えて手の届くことのないところへと漂うのだった。

不意に音は止む。楽譜へと視線を走らせていた彼女はついと顔を上げる。驚いたような色を連れて、彼女は黒鍵をひとつ、弾く。交差する視線の後、彼女は向日葵のような笑顔をみせた。「こんにちは、貴音さん」と。

 

オルゴールめいた金属音がはたと一音だけうたい、深夜の空気を震わした。

 

淡いなつの日を彷彿させる音はエネの意識を揺らしてやまない。透明な青の電脳世界のなか、たゆたう少女は目を開く。こころの奥底へと仕舞いこんだはずの記憶は、カセットテープのように何度も繰り返される。青い、蒼い夏。暑さが連れた不快感と、涼やかに吹き込む夏風。捨てきれない過去と感覚を小さな体躯に抱え込んだまま、エネはきょうも閉塞感を連れる世界を旅する。

先ほどと変わることのない雑多な会話たちと、瞬くメモリーの破片。うつくしい世界には似合わないそれらは、ネットワークの海に飲み込まれて、行方知れずに。

 

「また今日も眠れないのですか、ご主人」

驚いたような表情をみせる彼は、こちらを振り返り、それから薄く笑った。

片手にはちいさな、装飾の剝がれたオルゴール。かぶせられたグラスドームには埃が積もり、かつて黄金色だったであろう歯車はすでに錆びてしまった。古ぼけたねじを廻されることで音を弾くそれは、夜の底、閉塞感を与えるちいさな部屋を少しだけ鮮やかに灯すのだ。それは彼女がピアノと戯れたとき、部屋のなかを満たした水の色を回帰させる。

やるせないような、そんな形容しがたい様子で目を細める彼はわたしの名前を呼ぶ。何度も、なんども口内で転がされるその名前に、その分だけわたしは肯定の言葉を口にする。何かを確かめるかのような儀式を、二人は繰り返す。

ディスプレイ越し、光のない三白眼の奥で揺れる感情。それは行き場のない怒りと、それから後悔。

 

深夜のこの時間、過去に囚われ続ける彼は少しだけ放たれる。それは、鳥かごの鳥を遊ばせるかのような非情さだ。鳥かごの鳥が完全に解き放たれることがないように、彼もまた過去を抱いたまま息をしている。焼き付けられた記憶は常に彼を苛ませて、ちいさな部屋ひとつに閉じ込めてしまった。青年のちいさな世界は、酷く薄暗くて息苦しい。それは、このうつくしい電子世界と良く似ている。カーテンすらも閉じられてしまったその世界で引きこもり青年だけがひっそりと過ごしていた。

乱雑する電子機器だけが彼をとりまくようになったのは自然なことだった。ポータブルディスクと真っ白なコード、USBメモリーと着信音を鳴らしたことのないスマートフォン。随分と古い金属製のオルゴール、それから青く発光する640ピクセルの電子体。

 

彼はもう一度、躊躇うような手つきでオルゴールを廻し始める。

歯車は緩やかに加速して、金属製の円筒も回転を始める。跳ね上げられた音は、薄暗く息苦しい部屋に水の流れをもたらす。青、蒼、なつの色。深い底から覗き込んだ水面は不規則に揺れて、眩しかった。

 

彼女は夏期講習の合間を縫って、いつもピアノと戯れているようだった。

つぎはぎだらけのピアノの音が三階の窓から零れて落ちたならば、それが彼女との内緒の合図だ。人工的な水色のアイスバーを二本分を片手に提げ、逸る心持ちを抑える貴音は緩んだ口元を隠すことはない。たどたどしいピアノが鳴り響く練習室へと踏み入れれば、部屋をめいっぱい満たした水は貴音をすくう。

浮遊感と、指先から伝わるつめたさ。ゆらり揺れるマフラーを視線で追っていると、はたと音は止んだ。

「シンタロー」

演奏者である彼女は、嬉しそうに青年を呼んだ。はしばみ色の綺麗な瞳を爛々と映し出し、頬を軽く赤らめる彼女は少しだけ大人に見えた。彼女は青年の手のひらを掴んで、花が綻ぶかのように笑う。そして、彼を窓側まで引っ張ってゆくと貴音に手招く仕草をした。

「下手な演奏ですけど、よかったら聴いていってください」

そしてまた、部屋は透明で緩やかに流れる水で満たされる。

 

それは、大切で、同時に二人を捕らえ続ける夏の記憶。

 

減速を始めた歯車は停止して、静寂が部屋に落下する。

「忘れちゃいましょうよ。全部、ぜんぶ」

何十回、何百回と繰り返し告げてきたその言葉は唐突に口元から零れた。スピーカを通じてちいさな部屋に響き渡る提案への解答はいつだって同じであることをエネは知っている。それでも繰り返される提案を彼は拒まない。

馬鹿みたい。淀んだ青年の世界に、震えた少女の声は透明度を伴って落ちた。

「ほんとうに、そうできればいいのにな」

苦しげに、途切れ途切れで言葉を返す青年はゆるやかに笑む。諦めたかのようなその表情は哀しげで、エネは耐え切れずに目を伏せる。

知っている。彼は、あの少女を忘れることなどできない。赤いマフラーをしっぽのように揺らして、花が綻ぶかのように笑った少女。口元に指を一本かざして、悪戯を仕掛けたかのように口角をあげてみせた少女の様は彼の脳裏を鮮烈に灼いたまま、離れはしないのだろう。夏の色が良く似合う少女の影を、いつだって追いかけていることを知っている。

彼の知識の詰まった脳内ではとうの昔に最善策を導き出しているはずなのだ。

少女と交わした会話、眺めた飛行機雲、過ごした日々を全て記憶の彼方へと葬れば、青年は苦しまずに済むはずだ。それはファイルデータをゴミ箱へと移すような、簡単な作業。それでも彼は少女を忘れることを拒んでやまない。矛盾した葛藤を抱えながら、今日も青年は夜の底でひざを抱える。

 

画面の先、足掻きもがく青年の様をエネはただただ見つめていた。うっすらと青く発光するウィンドウから覗いた彼は、酷く痛々しくて、うつくしくい電脳世界をたゆたう自分を想起させる。閉塞感を連れるせかいのなか、過去を忘れることができず無意味に息をつく様は、傍目から見るならば滑稽で仕方がないのだろう。それでもエネはどうしようもない愛しさに駆られるのだった。それは庇護欲とも依存とも捉えることのできる歪んだ感情。

酷く薄暗くて息苦しい部屋のなか、椅子の上でただただひたすらに葛藤する彼へと手を伸ばす。その葛藤を取り除けるのは自分以外にはいない。そんな戯言を囁きながら震える身体を抱きしめたい、そんな衝動はエネのこころをゆるやかに満たしてゆく。ゆるり、指先に触れたディスプレイはひとのあたたかさを遮って、硬質な感覚を与えるだけ。ピクセルで構成されたこの手のひらは画面の向こうへと届くことはない。だから病弱なほど白く設定された肌も、美少女系のしなやかな身体つきも、ぱっちりとした青く澄んだ双眸も、エネは苦手だ。ただただつめたさもあたたかさも知覚できないこの身体を抱いて、下らない応答を繰り返すしかないのだから。

 

もしも、この過去を忘れることができたなら、きっと。

 

少しだけ寂しそうにエネは笑う。捨てきれない過去、それから二進法で成立する電子の海の息苦しさを共に少女は青年を愛しげに呼ぶ。柔らかく、透明に。

「ご主人」

眉をすこしだけ寄せて、青年は目を細める。片手に古びたオルゴールを抱きしめて、ふと息をつく彼は弱りきった鳥のようだ。こんなときの彼はどこまでも優しい。誰に対しても否定の言葉しか吐けない青年は既に鳴りを潜めて、ただただ子供のように不器用な手つき少女をあやす仕草をする。データの一部に過ぎない透明な青の髪を丹念にスウィープし、緩く結ばれた口元は少女の名前をひとつひとつ区切りながら発音する。何かに縋るような彼の様子は救いがなくて、針を差したかのような痛みを覚える。

黒曜石の色の目に湛えるはあの子への狂おしいほどの慕情。口元には共犯者めいた微笑を乗せて、青年は優しく言葉を紡ぐ。

「おいで」

鮮やかな青のウィンドウがエネの目の前に出現する。壊れかけたメモリーも、雑多な会話たちも既に融けた。この電脳世界でたゆたうのは、過去を捨てきれない電子の少女、それから彼が作り上げたウェブサーバーだけ。デスクトップいっぱいに表示されたそのウィンドウは青く発光しながら、透明な青のなかをたゆたう。ああ、今日も彼は、そしてエネはこの選択をとるのだ。何も変わりはしない、それでも一抹の救いを得られる選択を。

手招きされた空間へと飛び込んでみれば、ひとつ弾かれたオルゴールが透き通った響きを連れる。聞きなれた金属音が小さな空間を満たす。


水滴が、落下する。底なしの部屋のなかを鮮やかに灯すために。

うつくしい装飾がされていただろうの円筒と、錆びた歯車が廻りだす。過去へと還るような様子のそれに、エネはひざを抱いた。


刹那、少女は夢を見る。深い底から覗き込んだかのような水の色を連れた夏の夢を。


 

結局のところ、少女と青年は変わることなく、閉塞的な世界のなかで息をする。

午前零時。つめたい深夜の指先が空をなぞれば、過去を捨てきれない二人は、戻れやしない記憶のなかをたゆたうのだ。