剥製のあしあと

 視界を灼いたのは群青の海だった。さんざめくペンライトの波が、ゆらゆらりと一体になって揺れている。穏やかに高まりつつある期待と緊張感が、うすくらいステージへ波のように打ち寄せている。ぱたん、上から落ちる照明が、明度を一段階あげたら。ステージ上で息をひそめていた五人の騎士達が、視線をあげて。眼差しに静かな熱をとかして、騎士は観客達に開演を告げた。
 途端歓声は連鎖して、熱気は反響する。蒼、蒼、蒼。点が集まりあって一個のかたまりのように見えるそれは、けれども紛れもなく人一人分の意思を灯している。苛烈さを増した波は、絶える間もなく押し寄せる。おのおの口上を張り上げては、轟音。ああ、さらわれてしまいそうだ。講堂に渦巻く蒼と熱気は、いつだって司を吞み込もうとする。波の侵食する足元がゆらめく、ゆらめいている。
 ステージ上、最初のワンフレーズが流れる直前こそが、司は一番すきで、一番不安になる瞬間なのだ。大きな波が目の前に迫るとき、どうしようもなく自分が無力ないきものになった気がする。自分は朱桜の血を引く息子、このユニットの騎士の一人であるというのに。今も、そう。この巨大な波を前にして足が竦んでしまう。ああ、呑み込まれる。

「ちょっと、ス〜ちゃん。ちゃんと前を見てねぇ」
 目の前に回り込んで。司に迫っていた波を横一文字に切り裂いたのは、鋭い凛月の声だった。そのままくるりと少し後ろに引くように手を引かれ、逆に前に出た凛月は軽やかにステップを踏む。フォローしてもらったのだ、と気付く。慌ててお礼を言おうとすれば、もう既に凛月はこちらを見ていなかった。
 ひとつひとつ、練習で教わったことをなぞりながらも自分らしさを付け加えて。押し寄せる波に負けじと精緻な仕草で司は舞う。挑発的に視線をあげれば、観客が震えた様子を肌で知覚する。少し前で踊る凛月は、押し寄せる熱気と轟音を気にした風もなく、寧ろ心地よさげにしている。眠たげな二重まぶたは、今はきちんと開かれており、柘榴石じみた赤には、燃え上がりかけた熱がちろちろと覗いていた。一旦ステージに上がれば練度のたかい剣として振る舞う凛月たちの姿は、何度も目にしても慣れない。
 ワンツー、ここでターン。もう一度くるりと回り込めば、おんなじ仕草をした凛月が肩を寄せた。熱気を蹴散らすように。声を揃えて何度も練習したフレーズを歌い上げると、声質のちがう二人の声が群青に溶け込んでゆく。満足そうに目だけで器用に笑んでみせた凛月に、司は早口で囁いた。
「先程はありがとうございます、凛月先輩」
「いーのいーの。今回は初めての五人パートでの振り付けだし、ちょっと慣れないのは仕方がないよ」
 五人、そうだ。今回は五人全員が揃っている。ぱちん、目が覚めたような素振りをみせた司に、凛月が踊りながらステージの最前方に目をやった。釣られて視線を向ければ、群青の海をかろやかに游ぐ王がーーレオがそこに居た。
 
 紺を着飾った衣装の裾が、ゆるるかに揺れている。ちいさい脊中だ、と司は思う。現にレオと一年生の司は一センチしか背丈は違わない。けれどもちいささを感じさせない熱量をはらんでいる背中は、王の貫禄をつれている。のびのびと、けれども鋭さを交えた切っ先でなぞるように、レオは群青の海で踊っている。司が凛月とともにサビを歌い上げると、レオはすこし後ろに下がって。ワンツーで回転するステップを踏んで、レオは隣にいた嵐と背中合わせのかたちになる。自分と同じステップだというのに、なんという差なのだろう!端正なかんばせに、肉食獣めいたグリニッジグリーンを忍ばせたレオは、完成されきった動作で嵐とのデュエットを歌い切る。疲れを知らないレオは、嵐とハイタッチをした後に、また騎士達の先端へと繰り出していった。
「かさくん」
 ふと横を見れば、いつの間にか凛月は向こうの端へと立ち回り、代わりに涼やかな顔をした泉が怪訝そうにこちらを伺っていた。迫る蒼と熱気の波に器用に立ち回りながら、泉は眼差しだけで大丈夫かと問い掛ける。泉も凛月も、このユニットの先輩は自分勝手な部分が多いというのに、ステージの上ではいつだって周囲に気を配るのが上手い。小さく肯定の意を込めて頷けば、すぐ踵を返した泉に対して、司は言葉を零した。
「Leaderは、やはり私達のleaderで王なのですね」
 ついと泉が振り返る。すこし先の泉は満足そうに笑った気がした。あの皮肉屋な瀬名先輩があんな風に笑うなんて。泉の挙動に驚きをひそめた司を急かすように、泉は前方へと司を押し出した。
「ほら、あんたの仕える王が呼んでるよぉ」
 視線を向けようとして、途端湧き上がる歓声と、タイミングよくラストのサビへ突入した音源。ぐるぐるりと急速に熱気が上昇してゆく。蒼、蒼、蒼。抗うこともできず刹那、司は群青の海に溺れてしまった。最後に見えたのは、動揺した様子の泉の表情で。

 脳細胞を伝達してゆく刺激がゆっくりになる。神経の先が繊細に尖ってゆく。ふと、視界の端で橙が踊った。一秒が一日にも思えるような波の狭間で、黄昏にとろけている、結われた髪が揺れている。揺れている。スポットライトの中央で、期待と熱量を受け止めながら。群青のなかの一筋の蜘蛛の糸のように、奔放な獣の尻尾のように、導くものとして揺れている。この目印を辿ればきっと、自分を導く王がいるのだ。そう気付いたとき、司はどうしようもなく安堵した。あれ程不安に思えた群青の波も熱気すら、もう怖くはなかった。此処には司を正しく歩かせてくれる先輩と、絶対的熱量を背負った指導者がいる。あの髪の先を辿れば、レオがいる。
「スオー!」
 太陽のように華やいだ声で、振り向いたレオが司の名前を呼んだ。どうやら自分は群青の波に呑まれていたらしいと数秒、そうしてあの永遠にも思えた波間が一秒にも満たなかったことを知る。レオの後ろで獣の尻尾が揺れている、熱に浮かされた司の衝動をさそいだすように。衝動のまま司はレオに対して挑発的に睨めあげた。その表情に対して満足気に口角をあげたレオは、走り出したサビを噛みつくように歌いだす。負けじと追いかけた司は、もう群青の波を怖がりはしなかった。

 熱気に満たされたステージの上、怯むことなく先陣を切るレオの脊中を、司は今でも思い出す。群青の海で、黄昏にとろけているレオの髪のしっぽが揺れている。闘争心や本能を誘うような髪先を辿れば、恐れを知らない指導者の髪先を追えばなにも怖くはないのだと、あのとき司は強く思ったのだ。


***


「司ちゃん、髪伸びたわよねェ」
 暮れなずむ初秋の日。司は、ユニットリーダーとしての来週末のライブ書類に追われていた。嵐はとっくり一時間鏡と向き合っては緑のネクタイを結び直していて、新たな新入生二人ーーもう既に半年は在籍しているのだから新入生と呼ぶのは些か正しくはないーー は、スタジオの片付けに勤しんでいた。相も変わらず、意地でも布団から出てこない凛月は、じぃっと息をひそめている。全く、一年経っても凛月先輩は進歩がないんですから、と口にしようとして、今年の凛月は留年せずにきちんと三年生となったことを思い出した、そんな時だった。おしろいを叩いていた嵐は、驚いたようにそう声を零した。きっと、意外にも長さのある司の髪が視界を過ぎったのだろう。
 以前も髪の長さはやや長めではあったが、今の司の髪は後ろでひとつに纏めあげてしまっても、短い尻尾が揺れるくらいの長さがあるのだ。署名欄に自身の名前を書き込みほうと息をついた司は、そうですね、と小さく嵐に言葉を投げ返した。
「ええ。春頃から髪は切っていませんから」
 ぱたぱたぱたん。おしろいを叩く音がほんの少し止む。少し不思議に思い書類から目をあげれば、鏡の向こう側の嵐が眉をあげていた。どうやら意外だったらしい。
「あらァ、そうだったの?司ちゃん、長髪でも似合うからいいと思うわァ」
 きれいな男の子は好きよぅ、と零しながらにこにことする嵐は、司に比べて去年から殆ど変わっていない。丁寧にケアの行き届いた肌の白さも、斜めに流した飴色の髪もそのままだ。変わったことといえば、互いにひとつ歳を重ねたということ、それから王と騎士という名目上の新しい関係だけ。暫しの間。ポーチからお気に入りのピアスを取り出してた嵐は、少しだけ髪を搔きあげてそれを身につける。今日は紫色を着飾りたい気分らしい。似合うな、と司はぼんやりと思う。嵐はどんな色でも着こなしてしまえるが、やはり彼には彼の目の色とおんなじ紫がいちばん似合う。

 未だ凛月はじぃっと息を潜めている。もうそろそろレッスンの時間であるから、起きているだろうとは思うのだが、眠る格好の凛月はまるで屍体かなにかのように見えてしまう。そうこうしている内に、眠たげな瞼がゆるりと開いてとろけるような緋色が覗いた。数秒、司の像を写しこんだ双眸は、またとろんと揺れて瞑られてしまう。
 花柄の手鏡で、入念に身だしなみを確認し終えたらしい嵐は、思い出したとばかりに会話の続きを掬い上げた。
 「けれども、司ちゃんのおうちの家柄からして、ご両親はいい顔をしないんじゃないかしら。やっぱり古い人は長髪を快く思わないらしいって」
 アメジストのかたちをした嵐の双眸には、心配そうにゆるんでいた。この先輩はいつだって優しいのだ。昔からずっと、未熟な司を見守っては心配してくれている。司は感謝の意を込めて見上げながら、口元に笑みをつくった。
「春ぐらいは煩かったですけれど、夏になってからはもう何も言わなくなりましたよ。それに父と約束をしたので……卒業するまでの一年と少しだけ、こうさせて欲しいと」
「けれどもやっぱり問題にはなったのねェ。良い子の司ちゃんが、そこまで我を通すなんて珍しいじゃない」
 ポーチを自身の鞄に仕舞い終えた嵐は、おもむろに散らばっていた雑誌を手に取った。きっと、嵐はこの会話の続きをつよく求めてはいないのだ、と司は気付く。
 嵐はなぜ髪を切らないのかという部分を避けてくれている。いつだって彼はそうだった。嵐は程々に介在しては来るものも、いちばん内面に踏み込みそうな話に関しては、一歩引いた距離から伺うのだ。そういった嵐の距離の測り方が、司は物寂しく思いながらもありがたかった。髪を切らない理由が、どうしようもないものであるから、あまり他の人には知られたくなかった。
「あ、セッちゃんと王さまだ」
 会話の間の沈黙を割ったのは、先程まで眠たげであった凛月だった。鬱陶しそうに寝癖のついた髪を振り払い、緩慢な様子で凛月は嵐の方に手を伸ばす。どうやら嵐の手元の雑誌は、表題からして最近の流行の俳優やらユニットやらを特集しているようだった。それならば、現在巷で話題のレオと泉のユニット、ナイツが特集されていてもおかしくはない。凛月の動きにつられて司も覗き込めば、紙面に印刷された懐かしい顔ぶれとかち合った。挑発的なグリニッジグリーンと、つめたさを内包したシャレイブルー。視線を落とせば、レオの髪先がちいさなリボンで結わえられていることに気付く。獅子の髪先が、ゆれている。

 卒業したレオと泉は、互いの本職との折り合いをつけながらもナイツを再結成した。今度は夢ノ咲学園内だけの箱庭ではなくて、絶対零度のアイドル業界で、だ。現在のメンバーは2人だけしかいないが、その圧倒的熱量と技術で業界を沸かせているようだった。同じ時期に再結成した、アンデッドの二枚看板に負けず劣らずの勢いだという。
 雑誌で見かけるレオと泉は、司の知っているレオと泉とはまた違った様子だった。そういえば、レオと泉が対になった動きは、極々稀にしか披露されなかった。それでも、雑誌やテレビで見るレオと泉は、まるで昔からそうであったかのように息のあった動きをしていた。舞って、肩を合わせて、そしてうたう。群青の海をかろやかに游ぐ二人は、司の知らない二人のようで、綺麗だった。
 けれども、レオは現在の自分のナイツを未完成、と評している。5人が揃ってこそのナイツなのだ、と雑誌のインタビューで見かけたことがあった。きっと残りの3人は、レオの忠実な騎士であった凛月と嵐と、そして自惚れでなければ司自身のことなのだろう。そこまで思考を巡らせたところで、どうにも最近の自分は弱気になりやすいと苦笑する。一年生の頃はもっと大胆で、恐れを知らずに突っ走ってきたはずなのに。一体どこから自分は臆病になってしまったのだろう。宛てもなく記憶の糸を手繰る。すると、青と白の情景に行き着いた。ああ、そうか。返礼祭の終わったあたりからだったか。あのあたりだ、レオがこのちいさな箱庭の王位を、司へと受け渡したあたりのことだ。

 返礼祭の後、レオはナイツの後継者を、リーダーを司に指名した。ナイツの中でいちばん技術的に未熟でいちばん幼いのは、司であったというのに。戸惑った様子で周りを見渡すと、嵐も凛月も全く訝しむ様子はないようだった。司は嵐や凛月が出来た人であることは知っているし、そういった立ち位置に不満を持ったり嫉妬したりする人でないことは分かっていたが、やはり年長者をおさえて自分が上に立つというのは中々納得がいかない。「スオ〜はまだまだ未熟だけど、お前たちでなんとか支えてやってくれ!」とレオは騎士たちに最後の勅命を下そうとしている。そこで、手を振りかざして司は反論しようとすると、王者の風格のかおるグリニッジグリーンと視線が絡みあった。そう、それは司がレオと最初に出会った時に知覚した、圧のある熱。有無を言わさないその熱に、司は黙りこむしかなかった。
 そうして奔放な王とその忠実な騎士が学園から去り、司に残されたのは、二人分の空白と二人のレオの騎士、そしてリーダーという責任ある立場だった。嵐と凛月は、司にとってとても頼れる先輩だ。本当に色々なことを嵐と凛月に手助けをしてもらった。けれども、嵐と凛月は王ではなく、またこのユニットの指導者でもないのだ。今度の箱庭の王は、司自身であるのだから。司を導くものは、もうステージ前方にはいないのだ。

 ふ、と。長い物思いから目がさめると、もうとっくのとうにレッスンを開始する予定だった時間は過ぎていた。「あれ、セッちゃん痩せた?」やら「王さまはまた海外を飛び回っているのねぇ」やら。あいも変わらず、雑誌を覗き込んでいる嵐と凛月に声をかけて、それからスタジオの掃除をしながらも此方を伺っていた新入生たちにも声をかける。始まりの体制を整えて、深呼吸。今回のライブで使うのはレオが帰還した時と同じもので、懐かしい五人用の曲だ。リーダーを前方に押し出して中心に据えた後、舞い踊るようなこの曲を、凛月は好んでいた。今回のこの曲を提案してきたのも、珍しく凛月であった。「新入生くんたちも馴染んできたし、もうそろそろこの曲を踊ってみてもいいんじゃない?」とCDをゆるゆると振りながら、構成に割入れられたその曲を王として踊り振る舞えるか、司は自信がなかった。
 ステレオから耳に馴染んだ音楽が流れ出した途端に、嵐と凛月は顔の色を変える。研ぎ澄まされた刃を彷彿とさせる表情は、やっぱりいつまで経っても慣れやしない。流れるような動作で司の方へーー王の方へと回り込む二人は、そのまま剣を振る仕草をする。ブレス音。揃えて張り上げた歌詞は、変わらないまま。ただうたう人物が、うたうべきパートが変わっただけだというのに、司は少し違和感を抱いてしまう。司の縛った髪が揺れる、揺れている。違和感をころせないまま、サビへと変転して。司は前方へと駆け出してゆく。ワンツー、ここでターン。瞼の裏で、あの舞台の上でかろやかに群青の海を游いでいたレオの背中が浮かび上がる。ああ、いけない。咄嗟に足元がふらついた。音楽の波に、ほんのひととき溺れそうになる。
「リーダー……?」
 溺れかけた司を支えたのは、今迄無言を貫いていた新入生であった。声に振り返れば、嵐と凛月はきっかりとテンポの速いこの曲を踊りこなせているが、新入生たちは、まだこの速さに慣れていない。ぎこちない仕草で踊る二人を、嵐と凛月が少しずつサポートしているようだった。ああ、と司は自身を恥じる。今の箱庭の王は、レオではなく司なのだ。司がこのユニットのリーダー、指導者であるのだ。今の自分には、見本として、先輩として、指導者として振る舞い踊るべきだった。後ろを追うものの道しるべにならなければならないのは、司だ。
「すみません、集中できていませんでした。ステレオを止めさせていただいてもいいでしょうか」
 素直かつ自分の非を認めるような言葉を発するのは恥ずかしい。恥ずかしいが、今の自分はあまりにもこの曲を踊るには未熟過ぎた。王として後ろにいるものを配慮しなければいけなかったのに、それを怠ってしまったのは司の責任だ。嵐と凛月がちいさく頷いて肯定してくれたので、司は軽く頭を下げてステレオを止めた。途端、ぐるりぐるりと円環を描いていた黒い円盤は止まり、音楽は霧散してゆく。
「後、一年生の二人はこっちに来てもらってもいいですか。ええ、怒るわけではないですよ。ただ、手本となればいいなと思っただけです」
 ちいさく手招きをしてみると、少し不安そうな顔をした新入生二人が、戸惑うように司の方へ向かってきた。その緊張した様子に、一年生の春頃の自分を重ねてみてしまう。笑みを漏らした司に、一年生は少し肩の力を抜いたようだった。やはり一年生にとって、先輩というのは少し恐ろしい存在らしい。だからこそ、そういった先輩の新しい一面を覗けると、打ち解けられたような心持ちになるのだ。
「この辺りの振り、私も最初は全然上手くできていなくて。ここで、拍を置くのがコツですね。ええと……ちょっと踊ってみます」
 見られていることを意識して。まあるい指先をぴんと張り詰めて、視線はきつく上げる。足元の位置は少し引いて、ブーツの踵が上がるように。アメジストの色をした透明度のたかい双眸が、陶酔しきったように宙を見上げている。音楽は流れないが、この耳が覚えている。司の仕えた王が作り上げた、このユニットのための曲を。
 司は舞う。騎士然とした態度で、気品を損なうことがなく、司は舞い続ける。跳ねて、踊って、飛んで。少しバレエの動きが入るのは、この振り付けを考えた皮肉屋の先輩が、バレエを嗜んでいたからだと嵐に聞いた。バレエは美、なのだという。ひとつひとつの仕草でさえ、指先を天に向けるその数瞬でさえ気を遣わねばならないのだ。剣を振り上げる仕草をしながら、司はかろやかにステップを踏む。早いステップももうお手の物だ、一年生の頃から実力派と謳われていた司は、二年生に上がってその技術に磨きをかけた。爪先で優美に床を蹴り上げて、司はここが舞台であるかと錯覚させるかのように、うつくしく踊る。
 深みを帯びたルネッサンスレッドの尻尾が、司の激しい動きにつられてゆるりゆるり振り子時計のようにゆれている。ターンをするたびに、宙に浮き上がる尻尾が、新入生たちの視界に映りこんでは消えてゆく。流星のような尻尾の軌跡は、導くものの道しるべになった。司は、挑むように口角をあげると、かさむ熱量が司へとのしかかるの。けれども、恐れを知らない司は、鋭い切っ先じみた所作で熱量を切り裂いた。そうして遅れて付いて回るルネッサンスレッドが、もう一度新入生たちの視界を横切った。
 司は舞う、うつくしい騎士の剣舞を完璧に、手本となるように舞っている。その視線の投げ方や、気品を損なわない足取りは、この箱庭の前王と酷似していることに司は気付いていない。司の結んだ尻尾は、確かに後方のものたちの道しるべになっている。現に、嵐も凛月も知らず知らずのうちに司の髪先を目で追ってしまう。ゆれている、恐れを知らない指導者の尻尾が揺れている。きっと、この背中を見た新入生たちは安堵するのだろう。「この指導者の後を追って身をまかせて仕舞えばいいのだ」と。  
 指先の角度にも、レオの落とした影響の影がちらついている。ちいさく息を押し殺す音が聞こえた。気丈そうな司の双眸にほんの僅かな不安が翳り、しかしそれはすぐに融けてゆく。

 リーダーとして振る舞う司は、不安定な印象を嵐に与えていた。髪を伸ばすようになってからの司は、特にそれが顕著だった。確かに司は、一年生の頃よりも技術的にも精神的にも向上している。リーダーとして申し分ない働きぶりを示している。けれども、時折ぼんやりとしている司の横顔を見ていると、どうにも心が落ち着かないのだ。それを嵐は直接的に司に言うことはなかったが、きっと凛月あたりは先に不穏を知覚していたのだろう。司が髪を結んでいる理由は、指導者として道しるべを示すための分かりやすい目印のためだと、嵐は目星をつけていた。けれども、この模写とも言える動きや、不安そうに翳る双眸を見ていると、それだけではないのだろうと嵐には思えた。其れはレオへの尊敬や憧憬というよりも、どちらかというともっと切実で深刻なもののように思える。咄嗟に凛月の方を見遣ると、凛月もまた途方にくれた様子で嵐の方を見返してくる。凛月も嵐も、司のことはよく理解しているつもりである。司がまだ幼く未熟であった頃から、二人は司のことを見守っていたのだから。けれども、あまりに近くで見守り過ぎたせいか、今の司の全体像を見極めきれていないのだ。こういう時は、あのひとに頼るしかない。凛月との間で、どちらがメールを送るかを押し問答をする。逡巡。渋々といった様子で携帯を取り出した嵐は、もう何度も見慣れたアドレス宛に件名を打ち始めた。




 ライブは大成功を博した。講堂いっぱいに詰めかけた人々の熱をかろやかに受け流した五人の騎士たちが、深々と頭を下げると、途端割れんばかりの拍手が会場を包む。今回のライブは、一般客も受け入れるような大規模なもので、だからこそ自分たちを目当てにしてやって来た人も多いのだ。観客席で、自分たちのユニット名の垂れ幕を掲げた女性客に、意図的に視線を投げかけると黄色い声が上がる。昔から、凛月がよく使う手である。ファンサービスに厚いことで名の知れているナイツで、こういったサービスが上手かったのは、泉と凛月だったな、と司は火照る脳内で思考を浮かべた。対照的な色合いをした二人の騎士は、それぞれ左右の観客に対してたいそう丁寧に気を配っていた。未熟だった司は、そういった先輩たちの背中を追うことしか出来なかったが、今は違う。ほんの僅かだが、余裕を作り出せるようになった司は、舞台を見回しては後輩や観客に対して気を配るようになっていた。

 今ではもう、群青の海を恐れることもない。振り幅の大きい熱の波をやり過ごす方法を、司はもう知っていた。歌や踊りには呼吸があって、観客と呼応している。歌が絶頂に近づいているとき、観客の熱気もまた最高潮になり押し寄せてくるのだ。だからこそ、歌や踊りとの間合いを縫って息を吸う。音を紡ぐ。そうすることで、一歩引いた距離から舞台を把握することができる。きっと、レオはそうした間合いの測り方を才能だけで知覚することのできる天才だったのだろう。感覚で舞台を游ぎ渡り、適切なタイミングで息継ぎをする。恐らく、嵐も凛月も、間合いの測り方を教わらずとも知っていたのだろう。けれども司は、そういった芸当はできなかった。

 惜しむようにさんざめいているペンライトの海から遠ざかり、各々舞台裏に集まってミーティングをした後のことだった。既に一年生たちは帰り支度を始めており、残っていたのは嵐と凛月と司の三人だけであった。火照った身体を冷ますため、ちいさめのシャワー室へ駆け込んですぐ戻って来た司に、「おつかれ〜」という馴染んだ凛月の声が掛けられる。「凛月先輩も、鳴上先輩もお疲れ様でした」と生真面目にも司が返せば、ちいさく頷いた凛月が、ぽつんと独り言のように言葉を零した。
「繁華街の喫茶店、17:00だってさ」
「……?凛月先輩、なんでしょうか。暗号ですか?」
「ううん?ス〜ちゃん宛の伝言だよ」
 繁華街の喫茶店のことはよく知っていた。一年生の頃、嵐と同級生たちと共にパフェを食べに行ったあのお店のことであろう。そこへ行けということなのだろうが、誰がそんなことを?熱烈なファンなのか、と思考を巡らすが、きっとそれならば凛月がこんな風に伝えてくる筈がないのだ。そうすると、必然的に凛月の知っている人物に限られる。この学園で凛月をよく知っている人物といえば……と指を折り始めた矢先、嵐がびっくりしたように声を上げた。
「17:00だなんて、ちょっと無理があるんじゃないかしら?後20分もないのよォ、あいも変わらず横暴ねェ。アタシ達のライブを見に来ていて、しかもライブの裏事情だって知っている筈なのに」
 慌てて司が腕時計に目を落とせば、成る程嵐の言う通り、伝言として渡された時間まで殆ど余裕がなかった。会話の流れからして、どうやら嵐もまたこの伝言を渡した相手のことを知っているらしい。そうすると、かなりの数に絞られてくるのだが、焦る司には、もう誰の伝言なのかなんて考えている余裕はなかった。慌てて髪の水滴を拭い、靴を突っ掛けた司は、素早く嵐と凛月に頭を下げた後、外へと飛び出していった。

 からんからん、と時代情緒のある銅の鐘が鳴った。 木製の、少しばかり重ったるいドアを押すと、途端良いコーヒーの香りで満ちた空間に出迎えられる。昔から言わずと知れたアイドル学科たち御用達なのだと言うこのお店は、根強い人気があるのにも頷けるほどに居心地が良い。ぼんやりと吊るされたレトロな照明の明るさが、夕方の今にはちょうど良い。前に来た時にも腰掛けた、ワインレッドの色をした品のあるソファー、ちいさく沸騰した音を立てているサイフォン、抑え気味の白で、空間の色合いを調節しているレースのカーテン。それらについつい目移りしてしまいそうなのを堪えて、人もまばらな店内で待ち人の姿を探すと、いるはずのないだろう月のいろをした青年の姿を司は見つけてしまう。
「瀬名先輩……」
思わず溢れた言葉は、間違いなく無意識だ。けれどもその無意識の言葉すら拾い上げてしまうのが、泉という人間である。つい、と文庫本に落としていた視線をあげた泉の、眼鏡越しにうつくしいシャレイブルーの双眸と目が合う。刹那、絡みあった視線を外した後に、泉はちいさく口角を上げた。ああ、司の良く知る皮肉屋の、先輩のままである。
「かさくん、久々だねぇ。元気にしてた?」
 呆気にとられている司に、なんてことがないように泉は声をかけた。流れるような仕草で人差し指で軽くテーブルを叩いて、司に座るように勧めてくる。かつん、と音を立てる丁寧に整えられた爪先のまるさに、変わらない泉の美意識を垣間見た。ちょうど、真向かいに泉の顔を見据えられる位置に座ると、泉はソファーと同じ色で統一されたメニューを、司の方へ向ける。泉の手元を見ると、からんと涼しげなアイスコーヒーが汗をかいていた。もう秋に突入して幾日が経過したというのに、未だ半袖が相応しい陽気が続いている。
 パフェかケーキセットかを逡巡した後に、悩める司と掲載されているパフェの写真に対して泉が冷ややかな視線を向けるものだから、司は慌ててチーズケーキとアイスティーのセットを注文した。しずしずと頭を下げたウエイターが厨房に去っていくと、店内に静寂が落ちた。泉と司以外の客は、殆どが読書や勉強といった作業に没頭しているようだった。
 先に会話を切り出したのは、泉だった。「あんた達のライブ、観たよ」とアイスコーヒーを一口流し込んだ泉が、独り言のように言うものだから、司は数秒遅れてから其れが自分に向けられていることに気づく。感謝の言葉と共にちいさく頭を下げると、泉はぼんやりとした調子で、会話を繋げた。
「大分良かったと思う。俺たちが抜けた後のナイツがどうなってるのかなんて分からなかったけど、かさくん達5人であのナイツは完成されていた。見事なものだと思うよ」
思いも寄らない泉の言葉に、思わず頰が緩んでしまうのを司は知覚した。泉はまず自分に厳しく、そして他人にも厳しい人間だ。泉が在籍していた頃のナイツで、泉の理想に適わず叱られた日々を思い出す。そんな泉が、自分達のパフォーマンスを褒めてくれている。それは司にとって、自身が成長したことを認められた気がするのだ。泉を前にすると、司は一年前のただの騎士であった頃に戻った心地がする。まぁ、俺が仮にも一時的にリーダーをしていたユニットが、これよりも酷いパフォーマンスをしていたら許してはいなかったけどぉ、なんて付け加えた泉は、気だるそうに頬杖をつく。変装用であろう黒縁の伊達眼鏡に、ステンドグラスを模した照明のひかりがゆらゆらと映り込んでいた。
「ああ、そうでした。leader……ではなく月永?先輩はどうしているのでしょう。瀬名先輩と同じユニットで活動されていますよね」
「あー、あいつは今海外だよ。ちょっと名の知れた海外映画の最新作の劇中歌を任されたんだってさ。だから、数週間は俺たちの方のナイツの活動はお休み。俺は集中的にモデルの仕事をこなしているところ、って感じかな」
 リーダー、と舌で転がした所で、慣れ親しんだ呼称がもう使えないことに気付いて、慌てた司は慣れない呼び方をしてしまう。雑誌の特集を飾る程に巷を賑わせているユニット、ナイツの片割れである泉が、忙しくない筈がないのだ。其れなのにどうして、司とお茶を飲む時間があるのだろうと首を捻っていたのだが、成る程そういった事情があったのか、と司は納得したように頷いた。「そっちの様子はどうなの?」と尋ねた泉に、二人の新入生が新しく加入したことや、相も変わらずの嵐と凛月の話を掻い摘んでは話をする。「凛月先輩が、雑誌に掲載されていた瀬名先輩のことを『痩せた?』なんて評していましたよ」とこっそりと暴露してやると、途端眉をしかめた泉が「こっちがどれだけ理想体重を維持するのに必死だと思っているの、痩せる訳がないんだよぉ。ああもう、くまくんってばチョーうざい」と此処に居ない相手に対して恨み言を積み上げた。
 そこで、司の注文したチーズケーキとアイスティーが運ばれて、一旦、会話は途切れてしまう。かたちのよい、澄まし顔のチーズケーキを頬張る。そんな様子を見ては呆れた顔をする泉を横目に、司はぼんやり思考を回していた。それにしても、泉はどうして自分を呼んだのだろうか。ライブの感想を伝えるだけならば、今日でなくてもいいはずだし、ましてや司でなくてもいいはずなのだ。それに加えて、泉とレオが忙しいとはいえ、数ヶ月に一度は元々のナイツのメンバー5人で顔を合わせる機会はある。未だに測りきれない泉の真意を訝しみながら、司はアイスティーに口をつけた。

ところで、と少なくなったコーヒーにミルクを注ぎいれた泉が会話の続きを拾い上げた。洒落た色付き硝子のマドラーがぐるり円を描いて、白と黒の境界線を曖昧に揺らした。カップに映り込んでいた泉の像が、広がる波紋によってふやけては融解していった。
「かさくんは、どうして髪を伸ばし始めたのぉ?」
 しん、と一瞬だけ言葉の流れが停滞した。1度分冷え込んだ互いの間の空気に、会話の方向性が変わったことを知る。そして恐らく、会話の本命はこちらであることにも。司は黙って、唇の端をしろくなるまで噛んだ。
 今でも司の後ろでは、小さく結んだルネッサンスレッドの尻尾が垂れ下がっている。差し込む夕日の色にとろけきって、やや橙の色味を強く帯びた髪先が、窓から吹いてくる秋風によって揺れた、揺れている。きっと泉は此処に司が到着したときから、その髪先のことを知っていた。黒いリボンで飾ったその尻尾は、司が小さな箱庭の王となった頃から存在している。一体何故、自分は髪を伸ばし出したのだろう。瞼を閉じる、群青の海に飲み込まれてゆく司自身の姿と相反して、群青の海をかろやかに游ぐレオの姿が浮かび上がった。黄昏の色をした髪先が、司を導くように揺れている。ゆらゆらと、司の本能を誘い出すように、勿体ぶった様子で揺れている。 
 徐ろに目を開けば、曇りのないシャレイブルーが司を見つめていた。透明度のたかい青は、ただ司をじぃっと映しこんで、質問の返答を求めていた。ああ、と司はこっそり嘆息する。この皮肉屋でうつくしい先輩には、ごまかしは効きやしない。
「……月永、先輩が。leaderが帰還して初めてのライブで、未熟だった私はあまりの熱気にのみ込まれそうになりました」
 訥々と、散らばった言葉を繋ぎ合わせて文章にしてゆく。そんな様子を、泉はただ見守っていた。二人の頭上で、換気扇がわりのプロペラが回遊している。
「けれども、熱気の波間でたゆたっている内に、先を走るleaderの背中を、結わえられた髪先を見て私は思ったんです。あの髪先を追いかければ、指導者がいるのだと。導くものがいてくれるのだと、気付いた私はとても安堵したのです」
 空気をかろやかに受け流していく、プロペラの回遊はやまない。薄氷のような風を切る音だけが、断続的に鼓膜を揺らした。スタッカート、一分休符。司の独白は、ちいさな息継ぎで繋がれてゆく。
「leaderに次のleaderとして指名されたとき、本当のところ、私はほんの少し恐ろしかったのです。今度は、私が。5人の騎士の中でいちばん未熟な私が、あの熱量に対して先頭で立ち向かってゆかねばならない。後ろにいるみんなを導いて行かねばならないのだと思うと、どうしようもないくらい臆病になってしまいました。恐れるものなんて、あの頃はほとんどなかったのに」
 アイスティーに浮かんでいた透明ないかだが、ぱきんと涼やかな音を立てて割れた。「そうだねぇ、かさくんは生意気で、怖いもの知らずだった」と小さく相槌を打った泉が、空になった自分のグラスを指で弾いた。きぃん、と硝子らしい音に夏の影をみる。
「だから、私は髪を結んだのです。後ろにいる騎士たちの導くものとしての道しるべになるように。例え道を見失っても、北極星のように、方角を知る手がかりになるように。ええ、始めはそのつもりだった」
 そこで一旦司は言葉を切った。空のグラスから泉が視線をあげれば、濡れ落ちたアメジストのまるい双眸が在った。眉を下げて、少し困ったように笑う司を、泣きそうだ、と泉は評した。決壊しかかったダムの水を彷彿とさせる表情に、泉は掛ける言葉を失ってしまう。司の次の言葉を、泉はじっと待ち続けるしかなかった。
「けれどもどうしてなんでしょう。いつからか、私は髪を結ばなければならないと思うようになってしまった。十字架に縋る敬遠なキリスト教徒のように、髪を結ぶ行為に私自身が縋るようになってしまったのです。後ろにいる誰かのために、ではなくて私のために、私は髪を結んでいるのです。……あのステージに立ってから、目蓋の裏側でleaderの感性のひかる足取りが、群青の海を游ぐ髪先が焼き付いてしまったから」
 肺にとりためていた淀みを吐き出すかのように、司は一気に言い切った。司の言うステージが、どのステージであるのか、泉は分かってしまった。きっと、王の帰還して初めてのステージのことだ。何時もよりも増した熱を、楽しそうに切り裂いてはうたうレオの姿を、泉はぼんやりと記憶していた。レオは天才なのだ、人の心を掴む素質を持って生まれてきた、純粋な天才だ。計算をせずしてレオは正しいステップを踏み、正しい音階を歌い上げることができる。凛月も嵐もまた、レオとは違う方向性で人を魅了できる天才肌だ。泉は、泉だけは、努力を積み上げることでしか、歌い踊ることしかできない。
 顔を伏せ切ってしまった司の横で、また音を立てて氷に亀裂が入る。その音に弾かれたように、泉は司の頭部へと手を伸ばした。綺麗に整えられた髪先を泉の丸い指先で梳くと、質の良い髪がゆるゆると隙間から逃げ出してゆく。そのまま、髪を乱さないように、数度撫でてやる。スロウテンポで、何度も何度も。珍しい泉の行動にも、司は顔を伏せたままだ。ああ、と人知れぬところで泉は嘆息する。きっと、この後輩も。

「……天才の、呪いだねぇ」
 静けさの満ちた空間に、一粒の水滴が落ちるかのように。泉は誰に言う訳でもなく言葉を零した。ぽつと距離感を揺らした言葉に、司が少しだけ身じろぎをした気がした。視界の端、窓の向こう側で歩行者が慌てたように傘を差していた。天気というのは、本当に突然変わってしまう。
「天才っていうのは、そこにいるだけで無意識に周りの人間に多大な影響を与えてしまう。あいつは、天才だよ。圧倒的な才を与えられた、純粋で無垢だった天才だ。あいつの足取りは、自然と誰かの心をからめ取ってしまうし、あいつの指揮は心地が良くて身を任せてしまいたくなる。……くまくんも、なるくんもそうだ。あの二人も、元々人を魅了する素質を兼ね備えている」
 髪を梳くのを辞めずに、泉は言葉を重ねてゆく。あやすように、泉はちいさな箱庭の王に触れてやる。司は俯いたまま、一言も発さない。レアチーズケーキが、とろりと温度を帯びて少しだけ溶け出していた。
「俺はねぇ、そんな才能はなかった。俺はただ、見てくれが綺麗なだけの平凡な人間だよ。だから、あいつらを見ていると、あの圧倒的な才に飲み込まれそうになってしまう。あいつらの何気ない所作のひとつひとつが、遅効性の毒みたいに……呪いみたいにほんとうに少しずつだけども俺を蝕んでいった。あいつらの行動に、どうしようもなく影響を受けてしまうんだ。今のかさくんみたいにねぇ」
 窓の向こう側で強まる雨の音だけが響いている。少しだけ昔を思い出す目つきをしながら、泉は口元を緩めた。遠くに思いを馳せた青春は純度を失って泉のなかですでに朽ちてしまった。
「縋ってしまいたくなった、天才的なあいつに。一瞬でも神様だと思った、俺たち騎士の先頭を走りぬけて舞うあいつを」
少しだけ後悔の色を混ぜながらも、柔らかい声音で泉は言葉を続けた。はく、と小さく司が息を飲んだようだった。それに気づかない振りをしながら、淡々と泉は独白をやめなかった。
「けれども、例えどれほど神様のような才能を持っていても、結局のところ天才はただの人間なんだよねぇ。化け物じゃない、ただの人間が呪いなんてかけられる訳がない。あまりにも天才が背負う熱量が圧倒的なものだから、俺たちが勝手に過大妄想してしまうだけ。だから、今のかさくんを縛っているのはあいつの影じゃない。かさくんの思い込みだ」
 そう泉が言い切ると、司が一度息を止めた。戸惑ったように呼吸が不規則になる。けれども、泉はそれを指摘してやらねばならなかった。其のことを司に対して面と向かって指摘できるのは、天才ではない泉しかいない。司と泉の周りには、あまりにも感覚的の秀でた人間ばかりしかいなかったから。

「けれど」と泉は語調を変えた。その様子に気付いたのだろう、司がまた身じろぎをする。泉は、そんな様子を少しの慈愛を込めてみつめた。泉にとって、司はやはり手間の掛かるが大切な後輩なのだ。
「かさくんには力がある。縋るべきものなんていらないくらいの、強かさと度胸があるはずだ。かさくんがその気になれば、かさくんを縛っているものはすぐなくなるはずだよ。だって他でもないあんたが、その度胸と強かさであの王さまを帰還させたんだから。呪いのせいで思い込みに囚われてしまっても、あんたがどうしようもないくらい未熟でも、間違いなくかさくんは俺たちの光なんだよ」
ただただ素直に、泉は司をそう評した。泉にとって、あの頃の廃れきっていたナイツに目を輝かせながら入ってきた司は、泉たちにとって間違いなく光だった。好奇心と度胸で先を駆けてゆく司が、どれほど未熟であっても。新しい立場を与えられて不安がって、その強かさを引っ込めて縋ろうとしてしまったという告白を聞いても、変わらず司は泉たちにとっての光なのだ。
 小さく嗚咽を零し始めた司を淡々と撫で続けながら、泉はじっと後輩の姿をみつめた。恐れを知らなかった一年生の司に比べて、今の司には小さな箱庭の王の責務がある。背負うものの増えた司は、ほんの少しだけ臆病になった。臆病になったからこそ、天才の呪いにかかってしまったのだろう。けれども、指導者というのは常に臆病である必要があるのだ。毎回考えうる最悪を想像して、けれども成功をもたらすために自信があるように、恐れを知らないように堂々と振舞わねばならない。司の憧れたレオもまた、そうだった。きっと司は、あの群青の海をかろやかに游ぐレオを恐れを知らない指導者だと思ったのだろう。けれども、泉たちは知っていた。あのときのレオが、ナイツの一員として舞台に立つことを不安がっていたことを。嵐は背中を合わせたときのちいさな震えから、凛月は一瞬掠れた声質から、泉はそのゆらいだ指先から理解をしていた。きっと、そうも経たない内に司もまた其のことに気付くのだろう。 司は非常に聡い人間であるから。
 段々と、司の嗚咽が収束してゆく。そうして規則正しい寝息へと完全に変わるまで、泉は司を見守っていた。この後の司は、髪を切るのだろうか。切らないのだろうか。どちらにせよ、肩を震わせている司がちいさく眠りに落ちた後、再び瞼を開いたときには司を縛る呪いが解けているといい。呪縛が解けた後、司が導くものの目印のために髪を結ぶのなら、それもまたありなのかもしれない。完全に頭を落として眠ってしまった司を横目に、泉は伝票を手にして席を立つ。この小さな箱庭の王のゆくすえは、もう泉の管轄内ではない。司を迎えに来るのは、箱庭の騎士たちでなければならない。二人ぶんの会計を支払ったのちに、泉は馴染みある電話番号宛にコール音を鳴らす。電話に出た相手に対して端的に要件を告げて、泉は夕立のやまない外へと傘をさして歩き去っていった。


***


意識の彼方で、来客を知らせるからんからんと銅の鐘が鳴った。どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。ぼんやりと顔を上げた司は、目の前に座っていた泉が立ち去っていることに気付く。きっと忙しい泉のことだ。司との時間を取った後にまた仕事をこなしにいったのだろう。顔を起こすと、長く伸ばした髪先がうなじをくすぐった。回らない頭のままにおもむろに伝票を探すが、司の手元には伝票がない。不思議に首を傾げていると、馴染みのあるーーけれども此処には居ないはずの声がふたつぶん、入り口で聞こえた。

「さっきよりも雨は弱まったわねェ。夏や秋は急に天気が変わっちゃうからホント困るわァ」
「けれど、ナッちゃんは傘を持ってたじゃん。俺は傘ないからもうずぶ濡れだよ」
「んもぅ。傘半分貸そうとしたのに、凛月ちゃんが逃げるからじゃない。しかも凛月ちゃん、雨天兼用の黒い日傘持ってたわよね」
「あれは兄者のだから使いたくないの……」
木製のドアの前でスロウテンポで軽口を叩きあう二人は、間違いなく司の愛すべき先輩、嵐と凛月だ。どうやら傘について話しているらしい二人は、頭を起こした司に気付くと小さく手を振った。一体どうして、嵐と凛月は此処にいるのだろう。思考が眠気で上手く回らない。そうしている内に、嵐と凛月はまだとろんとした眼をしている司の元へ歩み寄って、空いてしまった向かい側の席に座り込んだ。
「アタシは、チーズケーキとアイスコーヒーのセット。凛月ちゃんはどうするの?」
「ん〜俺はチョコレートケーキとハーブティーにしよっかな」
 店員さん〜、と気だるげに手を挙げた凛月と対照的に嵐がてきぱきと注文をする。先程のウエイターがしずしずとメニューを下げて、ようやく今のめまぐるしい状況に目の覚めた司は、凛月と嵐の顔を交互にみつめた。その司の表情に納得がいったのだろう。ああ、と凛月が言葉の端を切った。
「ス〜ちゃんが喫茶店行った後に、突然大雨が降りだしちゃったんだよね。ちょっと傘があっても帰れなさそうだから学園で雨宿りしててさ。そーしたら小雨くらいになったときにセッちゃんから電話があったの」
 セッちゃん。その凛月の言葉にぱちんと意識が覚醒した。ああそうだった、泉と話をしたのだ。途端に先程の泉との会話の記憶が、洪水のように司の脳内に押し寄せた。その会話ひとつひとつを噛みしめるように思い出す。黙りこくった司の様子を心配したのだろう。嵐は確かめるように声をかけた。
「そうそう、ここに泉ちゃんがいたでしょ。どうだったかしらァ、あいも変わらず皮肉屋の毒舌苛烈マシンガンだった?」
その言葉に司が小さくかぶり振った。今日の泉は、何故だかとても優しかった。いつもなら、その毒舌で非難するばかりだというのに。今日の泉は、司の弱さを指摘して、そして滅多に語らない自分の過去の話を語って、俯いてしまった司の頭を撫でただけだった。そこに毒舌は一切なかった、と司は思い当たる。
「ねぇ、ス〜ちゃん。目元赤いね」
するりと。凛月のしろい指先が司の目元をなぞり上げた。司の目を覗き込もうとする、紅の色をした双眸に一瞬こころが絡め取られてしまう。ただ、そのうつくしい柘榴石の色はただただ心配と慈愛の色だけが映り込んでいた。
「……私は」
喉元を振り絞って声を出すと、何日も使っていなかったかのような掠れた音が落ちた。ああ、そうか。ライブで声を張り上げたあと、嗚咽を零したせいで喉を酷使してしまったのだと気付く。けれども、嵐も凛月もただただ何も聞かずに、司の言葉の先を待ってくれている。
「私は未熟者で、どうしようもなく臆病です。瀬名先輩は私のことを強かで度胸があると評してくれましたが、今の私は自分がそんな大層な代物を持っているとは思えないのです。髪を結びつづけた理由だって、本当にどうしようもない。……けれども、これからも私をこのユニットのリーダーでいさせてほしいのです。……良いでしょうか?」
 おずおずと、気恥ずかしく思いながらも司はやっとの思いで言葉を並べ切った。すると、目の前に座りこんだ二人の先輩は、同時に目を丸くしたのちに、司の方へと手を伸ばした。目落ちてしまうのではないかと心配しかけたその双眸をぐっと細めて、少し口元に笑みを載せながら二人の指先が司の髪先を過ぎる。一瞬身構えた司は目を強く瞑るが、与えられた刺激は柔らかな、頭を撫でる感触だけだった。くしゃくしゃと、泉とはまた違った撫で方に司は嵐と凛月との差異を知覚する。「当たり前じゃん、未熟でもなんでもス〜ちゃんは俺たちの光なんだから」と凛月が笑って、「そうよ、司ちゃんはそういうけれども、泉ちゃんのいう通り司ちゃんには、皆を引っ張って行ける素質があるもの」と嵐がからからと声を立てた。

「司ちゃんの長い髪、とっても素敵だからそのままがいいわァ。後ろから踊っている姿を見た時に、流星の尾みたいにみえるもの」
 嵐がちいさく付け加えて、そしてルネッサンスレッドの尻尾を一度少し持ち上げてみせた。そうした後にまた、嵐は司の頭をくしゃりと撫でる。自分が縋るためでなくて、誰かを導くために。この長い髪は切らずにもう少しの間は結んでおこうか。二人の手のひらから伝わる熱がどうしようもなく優しくて温かかったので、こころの奥底で冷え込んでいた司の呪縛はゆるやかに溶けだしていった。



(20170809/剥製のあしあと/朱桜司)

▷司くんの在り方が大好きで、彼の揺るぐことのない真っ直ぐさが大好きです。けれども、一年生であったこそ彼は後ろを振り返ることなく、臆することなく前に進めたのであって、二年生三年生となり、一介の騎士から王へと立場が変わったならば、後ろを振り返ることなく、臆することなく前に進むことは難しいんじゃないかな、と思います。けれども、どんな立場であっても、司くんには持ち前の真っ直ぐさを武器にして、未来を切り開いって欲しいと思います。
/2017.12