薄羽蜉蝣は星の記憶と

 思うに、記憶というのは螺旋を描いている。ぐるりぐるりと同じところを巡り重ねて付け足して、そうして少しずつかさを増す。人間というのは記憶を積み重ねていかないと生きて行けないいきものであって、積み重ねるときに下敷きにしたものはきれいさっぱり忘れてしまう。下敷きにされ埋もれた記憶の螺旋の最下層のことを誰一人覚えているものはいない。否、記憶の螺旋の最下層に存在しているものだけが覚えている。地下書架『きりんの夢』。記録の螺旋の最下層にいる僕は、この家にうずもれている事柄全てを記憶している。例えそれがどんなに醜悪なものであっても、記憶し続けることが僕がここにいる意味だからだ。


 この巨大書架の存在を知るものはほとんどいない。存在を教えられるのは藤色の髪を持つ家の後継者ひとりだけであるし、外へ続く書架への入口は厳重に隠されている。だから僕の話し相手といえば専ら年の離れた義姉である御影だけだったし、御影は物静かで何を考えているのか分からない少女であったから殆ど何も語りやしなかった。

ただ、時折仲のいい友人達と撮ったという写真を見せてくれた。柘榴色の目をしたハンサムな青年彼方と、聡明そうな顔つきの白髪の少女由良と、つまらない顔をした義姉の御影。写真に写るならば笑った方が映りが良いと指摘してやると藤色の長い髪を揺らして御影はわかったと、にこやかに笑うのだ。


 それから暫くして、御影は地下書架に降りてこなくなった。御影は望んでいた死に迎えられたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。どちらにせよ、ここには大量の本が収められているし、暇はしなかった。そうして十数年が経った頃だっただろうか。入れ替わりのようにして、僕は妹に出会うことになる。正確に言えば、兄妹の誓いを交わすことになる薫という幼い少女に、だ。

 色素の薄い白髪の髪を揺らす薫。初めその姿を見た時、あまりに容姿が似ていたために、僕は彼女こそが御影の友人である由良なのだと思ってしまった。けれども彼女の双眸はまあるく澄んだ青であったから、僕は薫と由良が別人であることを知った。大量の記憶を保持できるというのは、こういう時に便利なものだ。


 薫は、ひねくれた僕を兄さんと呼び慕ってくれた。曰く、兄という存在に憧れていたそうだ。兄さんと呼ばれるには、あまりに歳が離れすぎていた気がしたが、それでも彼女が幸せそうに僕を呼ぶものだから、それでもいいかと思ってしまった。幼いながら聡明だった彼女は、書架に収められていた本の知識を瞬く間に吸収していった。薰は何年も通い続けてくれて、僕達はこの寂しい書架で何時間もチェスをし、将棋を指し、そして話をした。

 つまらない僕は下らない哲学の話を繰り広げたのに対して、薰は伊澄という幼馴染の話を良くした。薰は伊澄の話をする度に、そのうつくしい双眸をよりまあるく、大きく輝かせた。思うに、薰の透明度のたかい青の双眸はうつくしくて、何千何百もの宝石よりも価値がある。薫の、ゆるくカーブのかかったまあるい目のかたちは何処かで見覚えのあるかたちをしていたのだが、僕にはそれが何だったか思い出せなかった。否、思い出そうとすれば、すぐにでも思い出せたのかもしれない。この記憶の書架は、全てのことを記憶しているから。けれども楽しそうに、伊澄のことを――恋をした相手のことを話す薫を見ていると思い出す必要性を感じなかった。


 そんな夢のような月日がどれだけ過ぎたのだろうか。ある日螺旋階段に現れた幼い少年は、髪をほうぼうに跳ねさせたまま、浮き足立った足取りでステップを踏んで下ってきた。傲慢で不遜な態度の彼のその髪色は、藤の色をしていて、僕は御影が子を生む年齢まで生きていたことを知る。

 その双眸は、うつくしい柘榴色。幾星霜もの好奇心を散りばめたその双眸に、僕は間違いなく見覚えがあった。ゆるくカーブのかかったまあるい目のかたちを有した少年はこの家の後継者であり、伊澄の弟だと名乗って、にこやかにわらった。


 そうして僕は、御影と由良と彼方の織り成した他人である三人の世界の終末を見、伊澄と伊鶴と薫の兄妹三人の世界が壊れる音を聞いた。