恋するいきもの

1.アイソトープはたそがれを知らない



 恋をしている。努力のひかる怜悧な眼に、そんな眼に動揺の色を乗せた泉に、レオは恋をしている。


 日没、なつかしい空き教室。泉はユニットの書類を書き込んでいて、対してレオは手持ち無沙汰あに音符を連ねていた。そんな両手に余るばかりだった放課後の時間は、疾うに過ぎてしまった。はちみつの色をした空が、薄くひかりを弾いて、夜を連れてくる。

 降ってこない返答に訝しんで、そうしてレオは泉の方を見遣れば。昼と夜との隙間で、精巧にかたちどられた、アイスブルーの湖面が揺れていた。

ああ、やっぱりセナの目は硝子みたいでうつくしい。ぼんやりとそんな思考がはしる自分に呆れて数秒、揺れた眼にこたえを探って数十秒のあたり。窓の外の橙がすっかり霧散してしまってから、ようやく泉の返答が転がった。


「……なーにぃ、またいつもの?」


 予想しきっていた答えだった。昔からいつだって、泉はレオの言葉を受け流してしまうから。けれども言葉の端に滲む違和感に気付かない程、レオはこどもではなかった。違和感はさざ波だったアイスブルーの湖面を想起させる。

 転換点は今だ、とレオの勘が指をさした。ここで曖昧にさせてはいけない。泉ははぐらかそうとするが、泉は今でもレオの言葉をきちんと聞いてくれる筈なのだ。なんたってレオの騎士で、レオだけの王様なのだから。


「違うよ。本当の本当に、おれはお前に」


 恋をしているんだ。

 からからからん。空き教室に、夕暮れと沈黙が落下する。夕暮れが落ちる音というのは、ラムネ瓶のビー玉が擦れ合う音とよく似ていた。言葉のない泉に、レオは少しだけ居た堪れない思いをする。きっと自分は、失笑されるくらいに変な顔をしているのだろう。


 恋をしている。綺麗なかんばせに似つかわない、情熱的ないろが滲んだアイスブルーの眼に。夏空を切りとったみたいなその色に。けれども、泉は変わってしまった。色々なものー大切にしていた価値観だとか、距離感だとかを、レオと泉は無くしてしまった。レオの良く知る泉の影を、レオは言葉の端に探している。


 はぁ、と泉が小さく溜息をつく。なんてことがないように、意識を向けないように。違和感の正体、言葉の端に滲むのは、動揺?意識を押し殺そうとしている泉の様子を、レオはじぃっとみつめる。昔みたいに絡み合う視線、揺れる瞳孔。誤魔化そうとするとき、泉は右上に視線をずらして、不満そうにちいさく唇をとがらせるのだ。


「ねえ、ちょっとぉ?邪魔なんだけど」

「わはは!だってセナ、誤魔化そうとするんだもん」


 ずらされてしまった視線を合わせれば、非難めいた泉の声が上がった。少しだけ、安堵してしまう。変わっていない、こんな所は昔のセナのままだ。


 誤魔化そうとするのが、わかってしまうのは当然だ。何しろレオと泉は、三年もの間、ほとんどの時間を共有している。正確に言えば、二年半ではあるが。癖のひとつひとつも、きびきびとした仕草も、あの頃からなにひとつ変わっていない。けれども内面的な部分において、泉は変わった、とレオは実感する。

 だからレオは泉のことをよく分からなくなってしまった。なんたって、今までの泉がなにをしていたかも、今の泉がなにを考えているのかだって、レオにはもはや予想がつかないのだ。昔はあんなにも近かった距離が、今ではとても遠い。


「なぁ、セナ。誤魔化さないでよ」


 今まで――レオが居ない間になにをしていたのか、今はなにを考えているのか。レオの言葉をどう受け止めたのか。誤魔化さないで教えてほしかった。おれの騎士、おれだけの王さま。息を呑むような動揺の色を乗せていたのは、レオの良く知る泉の眼だった。ああ、好きだ。

 泉が変わってしまっても、互いの距離感を見失ってしまっても、レオは変わらずうつくしい眼に恋をしている。


 とけてゆく。羽化したばかりの夜に融けてゆくのは、空き教室の埃っぽい床だった。白黒の模様を描くタイルには、相も変わらず埃が溜まっている。この空き教室は、青春の途中にいた頃の自分達の痕跡を、きっちり残していた。

 変わっていない。思い出は、場所は、変わらない。其れならば、変わってしまったのは、やはりレオや泉の方で。距離感をなくして相手のことがわからなくなってしまったのも、レオや泉たち自身のせいなのだ。


「『王さま』さぁ、」


 すうっと、また外されてしまった視線。そうしてレオの方を見ることなく続けられた言葉に、レオは少しだけ気落ちしてしまう。直感がちいさく首を振った。今日の泉はきっと、レオの言葉にこたえを返してくれやしない。


 呼び名もまた、変わってしまったことのひとつだった。ささやかな意表返しなのか、王の不在の間の体裁を取り繕うためか。それとも。ちらりと、嫌な予感ばかりがレオの脳を過ぎる。泉は二人きりだった短い春のことを、忘れてしまった?

 変わってしまった呼称に、抵抗を示そうとレオは唇を尖らせた。先程の泉の真似をするように。ちらとその様子を盗み見た泉は、呆れた様子で首を振った。書類を書き込むため、走り続けていたペンの音が止む。


「……れおくんさぁ、」


 躊躇いがちに呼ばれた、懐かしいあだ名。不貞腐れてそっぽを向いていたことを忘れて、レオはついつい破顔してしまう。けれども、そう全てが上手く行くはずもない。少しだけ迷うような素振りをみせて、ひらひらと。見上げれば、椅子の向こうでは、此方に視線をくれやしない泉が、書き込み終わった書類を泳がせていた。


「とりあえず。これ、来週のライブの書類だからさぁ、リーダーの署名のところ書いてよねぇ。そーしたら、今日はもう帰ろっか」


 平然を装った声に、昔の泉の影をレオは探してしまう。昔の泉はこんなに穏やかだった、か?心の臓の奥を駆ける焦燥感。ペンを受け取って、名前を書き込みながら、レオはどうしようもないくらいに無くしてしまった重さを知った。今の泉はどんな表情をしているのだろう。ただただ、泉の顔が、泉の真意が知りたくて堪らなかった。



2.アイボリーの心臓を貫くまえに


「さっきの話。れおくんは、俺のどんなところに恋をしたの?」


 お人形さんみたいにきれいな顔と、かみさまが一分の狂いもなくつくりあげて、努力によって磨かれたその容姿、どうしようもなく優しいところと、不器用なところ。それから、思いの外に温度のあるアイスブルーの眼。エトセトラ、エトセトラ。そう返してしまいたくなって、レオは思い出したように口を噤んだ。今日はなんたって月が明るいものだから、何もかもさらけ出してしまいたくなる。けれども、さらけ出したその後は?泉の言葉に答えてしまえば、全てをなくして、否定されてしまう予感がした。だから、帰り道、ふたりきりの海岸線で、レオはただ困ったように笑うしかないのだ。


 とくに月が明るい夜だった。日が沈んだ後の砂浜というのは、存外によそよそしいものだ、とレオは思う。足元に視線を落とす。冷えた夜の温度と同調した砂。赤錆に侵食されてゆくばかりの、炭酸飲料の空き缶。昼間は賑やかな声で溢れているのだろう砂浜は、とつとつと続く、スロウテンポな二人の会話だけに占められていた。絶え間ない潮騒だけが、繰り返し、繰り返し反響している。


「ねえ、れおくん。聞いてるのぉ?」

「んー?」


 夜の砂浜は確かによそよそしい、が、嫌いではない。レオはぼんやりと思考を揺らす。今日はほんとうに月が明るいもので。人を惑わす、明るさだなぁ。後ろから追いかけてくる泉の問いをのらりくらり、生返事で返しては、碧。気紛れに振り返れば、途端新雪のようなつめたさを宿したアイスブルーの眼に貫かれそうになる。


「聞こえているくせに。また、そうやって誤魔化してちゃってさぁ」


 さっき誤魔化したのはセナの方じゃあないか。そう返したくなるのを飲みくだして、レオは曖昧に笑みを乗せる。その様子を気に入らなかったのか、後ろで泉は小さく鼻を鳴らしたようだった。


 不規則に砂浜を踏みしめる音が、ふたつぶん。累積物たちを蹴散らさないように、レオは歩みを進める。それにしても思いのほか、泉は先程のレオの言葉を気にしているらしい。昔だったら、流されてそのままだったのにな。やはり泉は変わったのだろう。今の泉には、レオが知らなくて当たり前のことが、其れこそ星の数くらいあるのだから。


「れおくんは、変わっちゃったねぇ」

「……ん?」


 星が落ちるかのように。不意に零れた言葉が、レオの鼓膜を震わせた。あんまりにも、しみじみと、加えて誰かの聞かせるための声音ではなかったから。レオは驚いて歩みを止めてしまう。数歩後ろの泉を振り返れば、泉は呆気にとられたような、珍しい表情をしていた。

 ささやかな驚愕をひそませた、さざ波だったアイスブルー。さながら、言葉にするつもりがないことを口に出してしまったかのような。やはり、今宵の月は人を惑わす類いのものらしい。


「そーやって、曖昧に笑うところとか。誤魔化しがちなのは相変わらずだけれども。俺の知ってるれおくんは、ふんにゃりした笑いかたしか知らなかった筈なのに」


 泉の形の良い眉を寄せられている。潮風に揺れた、月のひかりを閉じ込めたような銀のくせ毛が、レオが恋したアイスブルーの眼を隠してしまう。


「変わらなくちゃ、前に進めなかったからな」


 潮風は止まない。実のところ、泉が変わってしまったとレオが強く思うくらいに、レオもレオ自身のことが変わってしまったことをきちんと知覚していたのだった。レオは変わらなければいけなかった。過去のレオはとっくの疾うに壊れてしまったから。だからこそレオは過去のレオを埋葬してしまった。泉と過ごした春がすべてであった、過去の月永レオを。


「けれども、おれ自身が変わってしまったとして。おれはセナに恋をしている。それはほんとうなんだ」


 潮のにおいがする、風がようやく止んだ。凛とした月のひかりが、音をなくした二人の影を落とす。前髪の隙間から覗いた、怜悧な泉の眼。月の下にさらけ出された泉のかんばせは、くっきりとした表情を乗せている。

 小さな痛みと、どうしようもない諦め。それらを綯い交ぜにした泉の眼を、レオは垣間見た。


「れおくん」


 はたり。レオがその眼の真意を知る前に、囁くような言葉が耳元に落ちる。ざわめいていた潮騒が、遠い。昔から馴染んだ呼び名、昔から変わらないうつくしい容姿。レオに不安が過ぎる。けれども、セナは、俺の知るセナは、こんな痛みを押し殺すような、声をしていた?唇を噛みしめるような、うつくしい顔に影を落とす表情をしていた?こころの裾を薙ぐような鋭利な声は、表情はレオの知らないものだった。


 泉はわらう。綺麗な笑みの下で痛みを押し殺して。完璧を装おって、泉はわらっている。


「其れは、恋じゃないんだよ。れおくん」



3.アイ・シーは月の裏側で聞かせて(前半)


 最寄り駅までは残り数キロ。明度のたかい砂浜に映り込んだ影は、二つ分。地球唯一の衛星は、驚きをひそませたレオと、レオのすこしだけ後で立ち止まった泉の様子をゆるるかに照らし出していた。

 静寂のさき、僅かに俯いた泉の目元に影が落ちた。月が明るい分、影とのコントラストもはっきりとしたものとなる。また、見えなくなる。掴みかけていた筈の泉のこころの切れ端を、またレオは見失ってしまう。


「れおくんはさぁ、俺のどんなところに恋をしたの」


 慎重に、けれども曖昧に帰することを赦さないように。一分の狂いも生じないよう秤にかけた様な、そんな声音で泉は畳み掛けるように問い掛けた。遠くの潮騒が割れている。海岸線に点々と残る歩いた軌跡は、疾うに白波に攫われてしまった。嗚呼、いつだってそうだった。何かをなくしてしまうのは、いつだってまばたきほどの時間の中でだった。


「そーだなぁ」


 レオは目を瞑る。泉のどんなところに恋をしたかなんて、其れこそあげてしまえばきりがないというのに。見上げれば、すずやかなひかりを投じる、明るい月。ちいさく欠けてしまった丸い月は、すべてを透かして傍観している気さえした。やはり、お月さまには敵いやしない。


「先ずは、セナの顔。鼻すじがすっと通った顔立ちも、形のいい眉にだって、おれは恋をしている。其れから、お月さまみたいな容姿。銀砂を零したみたいなくせ毛も、白磁の陶器みたいな肌も、全部全部きれいだ」


 ひとつひとつ。星を数える様に指を折った。言葉の端と端を、ちいさな息継ぎでつなぐ。


「その容姿を磨き上げたお前の努力だって、どうしようもなく愛おしい。口が悪いけれどもその実優しいところも、根が真面目なところにも、どーしようもないおれの事を、待っていてくれたとこも。例えば、あの春にリトルジョンを抱き上げていた時に見せたやさしい表情も、例えばスオ~に一つ一つきちんと手本をみせてやるその面倒見の良さにも、全部全部恋をしている。それから、」

「れおくん、分かったよ」


 アイスブルーの怜悧な眼に、恋をしている。そう連ねる前に言葉を止めたのは、泉そのひとであった。夜に紛れてしまうほど小さな声が、レオと泉との間に重さを伴って落下する。パーソナルスペースを割らない、けれども手をつよく伸ばせば届きそうな。今のレオと泉にとっては、あまりに遠い距離だった。


「有難うねぇ、こんなひねくれものの俺を肯定してくれて。そうだった、俺の知っているれおくんも、そうやって俺のことを肯定してくれた」

「……今のおれだって、一応はお前の知っているおれだよ」


 言葉だけが先に滑る。泉のスロウテンポな言葉に見え隠れする否定に、諦観に歯向かいたくて仕方がなかった。噛みつくように被せた言葉にすら、泉は未だ俯いたままだった。


「変わっちゃったけどさ、おれはおれだよ。そりゃあ、昔と同じっていう訳にはいかないけれども、おれは二人と一匹だったナイツのことだって覚えてる」


 宇宙の色をしたパーカーの裾が、ふわりと一瞬ばかり宙を舞う。畳み掛けるように被せた言葉に、ようやく泉が口を開いた。


「そーだねぇ、俺だって覚えてるよ。きちんと向き合うには、まだちょっと痛い、けれども。きっと今でも、れおくんは甘いものに目がないんだろうし、いちばん好きな色は紺色なんだろうし、プリンを食べるときカラメルの部分を敢えて混ぜないんだ。そういう所は俺の知ってるれおくん、そのままだよ」


 ざくり。つきの砂漠になり損ねた砂浜を踏みしめる音がした。泉が一歩ばかり、後ろに下がる。欠けかけた月を背負う泉は、すこしだけ寂しそうで。袖ぐりからのぞいた白の指先は、かたちにならない憂鬱がのせられている。


「けれどもさぁ、今のれおくんが俺に向けている其れは、恋じゃないんだよ」


 今日のセナは独りよがりだなぁ。言い募るばかりで、ちっとも自分の考えを教えてくれやしない。 そう思いを巡らせて、レオは泉の方を見遣る。


「どうしてセナはそう否定するんだ?」


 俯きがちな横顔に問いをかける。期待はしていなかった。レオと泉には人一人分のスペースがあって、レオはあたらしく生まれたその距離感の埋め方を知らなかったから。


「殺したからだよ、俺が」


 けれども意に反して、泉は言葉を零した。罪を告白するように、内緒にしていた言葉を、神さまにだけつまびらかにするように。

 今日はとても月が明るいもので。ひとのこころを見透かして、晒しあげてしまうような月が、レオと泉を照らしている。


「だって、れおくんの恋も、俺の恋も、俺が殺したんだよ。あの春のおわりに、俺が殺して埋めてしまった」


 透度のたかい宝石を張り合わせたような。そんな声だった。また泉の声が、レオのこころの裾を薙ぐ。今にも欠けておちてしまいそうな、不恰好なかたちをした声は、やっぱりレオの知らない、変わってしまった泉の一部だった。



4.アイ・シーは月の裏側で聞かせて(後半)


「人に好意を向けられることほど嬉しいものはなかった。そりゃあ俺だって人間だもの、パパやママに愛してるって言われたら嬉しい。俺のファンだっていう女の子からラブレターを貰ったら、努力してきた見てくれが認められた気がする。けれども、れおくんは昔からちょっと違ってたんだよねぇ。家族じゃないって言うのに、他人に向けるにはあまりに真っ直ぐとした、純粋な好意を向けてくれた」


 砂浜に投映された、白んだ影が揺れている。泉

は顔を上げやしない。晒されてゆく言葉だけが、淡々と行儀よく列をなした。


「声が綺麗だって、容姿が綺麗だって。そう言われて嬉しかった。好きだ、愛してるって言われて、どうしようもなく気恥ずかしくて、けれども有難うって言いたかった」


 独白は続いている。レオに言葉を求めない、泉の真意がさらけ出されている。見上げれば、藍、藍。言葉を融かしこんだ夜が、星をちりばめては正しい位置に嵌めこんでいる所だった。


「れおくんの曲も好きで、本当のところは、パートを振り分けてるときの真剣な眼差しとか、斎宮と喧嘩をしている時の子供っぽい仕草とか、プリンをねだる時のちょっと甘えた表情とかも、多分きっと、そう。……嫌いじゃなかったんだ」


 逆さ月が割れる音を聞く。変わってしまった距離を遠いと思っていた。ほどかれた手を拒絶なのだと思っていた。泉の「嫌いではない」の言葉の重さを、今のレオは知っている。


「セナ、」

「そう言えればあの頃のまま、春の途中にいれたのかなぁ。言葉にするのを躊躇っている間に、誰かの悪意に足元をすくわれてしまうなんてことは、なかったのかもしれない」

「……セナ」


 二度重ねて、聞いてくれることを信じながら。レオは恋した青年の名を呼んだ。レオの騎士で、レオだけの王さまは、ただレオの方に気まずそうに盗み見るだけだった。


「仮定の話をしても仕方がないなんて、分かってるよ。俺はね、あの春のために、全てを捧げていいと思った。あの春が続くなら、なんだってしてしまいたくなった。けれども結局、俺たちは、俺は春を死なせてしまった。唯一の、生きていて良かったと思えるほどの青春だったのに。そうして、後に残ったのは消耗しきった俺たちだけ。れおくんは、ぼろぼろになっちゃった。一番愛してた、作曲すらできないくらいに追い詰められた。他でもない俺が追い詰めたんだ」

「……セナ、お願いだから聞いてよ」


 潮騒が鼓膜を叩く。ちいさく零れたレオの声は、泉には届きやしない。はぁ、とだれも知らない泉の吐息だけが潮騒にしんしんと冷えこんでいった。


「春が死んで、あんたが居なくなって。全て終わっちゃってから、れおくんの言葉を思い出した。『声が綺麗だって、容姿が綺麗だって、真っ直ぐな眼をしてそう褒めて、好きだ、愛してるって恥ずかしくもなく言えてしまうこころは一体なんだろうねぇ』『それは恋だったんだよ』なるくんはそう言ったんだ。

『例えば、ちょっとした瞬間の真剣な眼差しだとか。例えば、どうしようもなく子供っぽい仕草だとか、きっと自分くらいにしか見せないんだろう表情を嫌いになれないのはなんでだろうねぇ』『それは恋だったんだよお』くまくんは教えてくれた」


 月の陰影の強弱がくっきりと、泉の顔を隠してしまっている。泉の言葉は、泉自身を責める言葉は止まらない。波が引いては寄せる仕草を繰り返すように、泉の真意もまた遠くに引いてゆく気がした。


「そうして俺は、あの春の途中にいた俺たちの、その間に横たわっていた其れが、恋だって知ったんだ。あの恋のお陰で、きっとあんたと過ごした春がこんなにも輝やかしいものに見えたんだろうし、あの恋のせいで、れおくんは壊れてしまった。れおくんを曲を作ることすらできない生き物にしてしまった。どうしようもなく自分に、自分たちの恋に腹が立ったし、もう二度とこんな痛い思いをしたくはなかった」

「……」

「だから俺は、」

「だからお前は、おれの恋とお前自身の恋を殺したんだ。形が見えなくなるくらいまで切り刻んで、元々がなんだったのかすら分からないくらいに潰して、それを埋めたんだ。セナも変わった、前に進むために。おれが放り出しちゃったナイツを守るために。……もしもおれが帰ってきたときも、おれがまたおんなじようにセナに恋をしないように」


 泉が、自分自身を自傷している。そんな様をこれ以上見ていたくはなかった。泉が続けようとした言葉の先を、レオは引き取る。


「セナは、何処までもおれにやさしいなぁ。おれなんかに、そんなにやさしくしなくていいのにさ」


 自身の白んだ唇を柔く噛んだ。本能で八重歯が皮膚を食い破ろうとするのを留める。


「顔をあげてよ、セナ」


 やさしい声音を乗せて、けれども有無を言わさない強気の語調で。今も手すら掴めやしない距離にいる泉に、レオは告げた。月を背負う泉の淡い影が海風に揺れる、揺れている。潮のにおいが鼻腔のふちを擽った。

 伏せられたっきりだった泉の顔がようやく上がった。前髪が潮風に晒されて、僅かに乱されている。そのちょっと下、うつくしい月のいろをした睫毛が星を夢見ていた。しまい込まれていた、アイスブルーの凪いだ湖面が、月影から覗く。


「おれの恋を、セナ自身の恋を、セナが殺したんだとしても。セナが変わってしまって、俺の知らない部分が沢山あるセナになってしまったとしても。おれ自身が変わっちゃって、セナの知らない部分が沢山あるおれになっちゃったとしても。おれはやっぱり、セナに恋をしている」


 そうして、つないだ言葉を切れば。アイスブルーの眼が、真っ直ぐにレオを見ていた。

 レオが今も昔も恋をしている、努力のひかる怜悧な眼。アイスブルーは、レオの知らない傷跡に影を落としている。水の張ったその眼は幾億もの宇宙をひそませていた。瞳孔に沈む明度は、しろ。夏を游ぐような色はきっと音にだってできやしない。うつくしい、とレオは心底思った。



5. アイスブルー、それから


 泉は変わってしまった、泉もまた変わらなければいけなかった。今の泉は、癒えきらない深い傷をかくしている。それはきっと、あの春を生きたレオとレオの恋がつけた跡なのだ。傷の覗く、泉の眼をレオはようやく見据えることができる。透度のたかい宝石を張り合わせたような声も、影を落とす表情も、傷のみえるその眼もレオは知らない。けれども、知らないセナを見かけるたびに、レオはまた恋をする。変わってしまったセナに、新しい恋をしている。


「あの春の途中にいたセナに、おれの知らない変わってしまったセナに、恋をしている」


 その夜はとても月が明るかった。潮騒が細かく割れては、砂浜になってゆくような、そんな夜だった。離れかけていた、伸びたふたつの影。ゆらり徐ろに揺れて、どちらからともなく近付いた。手が届く距離まで、指先が触れ合う距離まで。

 欠けかけたお月さまを背負って、そのあと泉はちいさく泣いた。静かな嗚咽が、こぼれかけては飲み込まれる。月の引力によって、波が引いては打ち寄せるように。くりかえし、くりかえし嗚咽を飲みこまれる様子を、レオは一番ちかい場所で見守っていた。そんな素をさらけ出す泉を、レオは見たことがなかった。けれども、濡れおちた宝石みたいなその眼は、やっぱりうつくしくて。レオはまた知らなかった泉を知って、恋をする。


 月も少しばかり傾いて、ようやく嗚咽が止んだら、そこに居るのはいつもの泉だった。泉の目元のふちが赤らんでいることは、きっと互いに気付いていた。けれども泉は、夕暮れ時の続きみたいにわらうものだから。「潮風のせいで、身体がべたべただよぉ」と言うので、レオもまた、目元のことは素知らぬ振りをして「おれだって、髪がぱさついちゃったよ」なんて返した。

 

 帰り道、一体何を話したのかなんて覚えてはいなかった。きっと互いの知らないことを埋めるための、他愛なくてだいじなことだったのだろう。リトルジョンの子供に、ナイツのみんなの名前をつけたこと。他の三人のパートの新しい振り付けのこと。なずなが放送で別名義のレオの曲を流していたこと。

 ひとしきり言葉を重ねて、そうして海岸線の終わりの小さな駅で別れた。「また明日ね」と言うレオに、泉もまた「また明日」と返した。遠く離れた言葉の尾に、確かなありがとうをくっ付けて。それから泉はレオの眼を見据えた。


「れおくんのその言葉を、俺はもう否定しないよ。否定できやしない。けれども、今はまだれおくんの言葉を受け止めて、きちんと整理できるだけの余裕がないんだ。だから、もう少しだけ待って。きちんとけじめをつけたら、一番さきにあんたに伝えてあげるから」


 潮騒に春の足音を聞いた。ああ、もう近いところにまで、あたらしい季節はひそんでいる。泉の乗った10両編成の鈍行電車が、遠ざかってゆく様子を、レオは随分と長いこと見送った。そうして、春のはじまりの日からずっと、レオは泉の言葉を待っている。



6.アイロニィに花束を


 恋をしていた。数千数億の銀河が生まれては死んでゆく、エンバーグリーンの眼に。ひずんで割れてしまった音をかき集めては、つくろおうとしていたその骨ばった手に。星をつかむように言葉を並べる仕草にも、小動物じみたかんばせに似つかわしくない八重歯にも、全部全部恋をしていた。

 そうして今。どんな泉にも恋をしているのだと、恥ずかしげもなく言い切った、レオに恋をしている。


 夏の昇降口、踊り場にて。泉は日没をむかえるそのときを待っている。半袖ですら、暑さからは逃れられやしない。愛用しているカナル型のイヤホンで耳を塞いで、することもないからと瞼をうすらと閉じたまま。泉の首元には、学年を振り分けるネクタイはなく、重ねて言うならば、学院生の証であるジャケットも羽織ってはいなかった。足元に視線を落とす、来客用と書かれたスリッパが、泉を不思議な心持ちにさせた。

 夕暮れ時の校舎は、はちみつの色の糖度に侵食されている。ちらちらと。窓枠の上で、春の途中にいるのだろう生徒たちの影がおどっている。泉たちが卒業した、その後の代なのだろう。抱きついて、つつき合って、肩を並べて。在りし日の自分たちをみているように思えて、上手く隠しておいたはずの傷が顔を覗かせた。


 皇帝と呼ばれていた生徒会長は、もう此処にはいない。泉にとって唯一だった青春を、噛み合わないように仕向けた皇帝は、それなりに良い統治をしたのだと思う。整備されきった学園で、死んでしまうのだろうと思っていた、綺羅星たちの革命は成功して。皇帝は非常に満足をした素振りをみせながら、綺羅星たちを指南して、そうして生徒会長の座を退いた。

 だから、此処ではとうぶん、芽吹いたばかりの春が殺されることはないのだろう。踊り場の少し上。未だふざけあっている、見知らぬ四人の同胞たちを、泉はぼんやりと見遣ったのだった。


「セナ!」


 花が降るかのように、たった二文字の面白みのない呼び名を、たいそう愛おしげに呼ぶ声がした。見上げれば、待ち人が嬉しそうに手を振っている。一応は此処の卒業生なんだから、後輩たちにはちゃんとしているところをみせてよねぇ。そう零すのもなんだか億劫で、泉は待ち人に対して軽く手を振った。


 空き教室は、今ではきちんと人の手が入っているようだった。レオが持ち込んだ備品の机やら、ペンやらは全て撤去されている。レオが転がるたびに、埃の舞った床もまた新調されていた。此処も変わってしまった。変わってしまったが、壁のちいさな凹みだったり、窓から差し込むたそがれの甘さだったりは、変わりはしない。そしてなによりも、泉たちの記憶は、在りし日の空き教室のことをはっきりと覚えているのだ。

 青春の気配だけが残る教室で、久しぶりに顔を合わせたレオは、やっぱり卒業式のときのままみたいだった。ほうぼうに跳ねた橙にとろけた髪だったり、黙っていれば少しばかりは気品を感じさせる輪郭だったり。レオもまた、学院指定の青を羽織っておらず、代わりに泉の知らない黒のジャケットに袖を通していた。


「けじめ、つけてきたんだよねぇ」


 月の明るかった夜のつづき、みたいに。泉はなんてことがないように、言葉のさきを切った。レオは何も言わず、鋭いエンバーグリーンが、先を促すように泉をみつめている。


「春から夏のあいださぁ、俺はひとつひとつ振り返ったんだよ。俺たちの何が変わっちゃったのか、俺たちの何がいけなかったのか。全部全部再確認して、れおくんの言葉を思い返した」


 口元に喜色をのせて。春から夏のあいだ、思い出ばかりを泉は振り返った。レオも泉も、見てくれはちっとも変わりやしない。けれどもお互いに、自分も相手も変わってしまったと実感していた。細やかな部分が、付かず離れずだった距離感や、少しばかり余所余所しい態度に投影されていた。


 それでいいのだと、泉は思っていた。恋は、泉たちの唯一だった春を終わらせてしまった。変わらなければいけないと、レオと泉の間に息衝いていた互いの恋を、泉は殺して丁寧に埋葬したのだから。

 泉は、泉の恋を殺した。それは、過去の恋を殺さなければ、前に進めないことが泉自身分かってたからでもあるし、もしもレオが帰ってきたとき、あの春に生きた泉の面影を感じさせないようにするためでもあった。あの春に生きた泉たちが、大事にしていた距離感だったり、なんでもない馬鹿話だったりを、喪うことなんてとっくに覚悟していた。

 帰ってきたレオは、泉と同じようにやっぱり少し変わっていた。バラバラになった卵の殻を、ひとつひとつくっ付けあったみたいな不安定さを、行動の奇抜さに隠して。きっとレオもまた、前に進むために、変わったのだろうと思った。けれども困ったことに、恋を切り捨てた筈のレオの眼を、ひび割れた跡のみえるレオの眼を、泉は知らない筈なのにうつくしいと思ってしまった。


「俺もねぇ、春の途中にいたれおくんに、変わってしまったれおくんに恋をしている」


 ああ、好きだ。そう思ったときには遅かった。幾千数億の銀河が、好戦的にゆらめく様に、泉は捉われてしまった。一旦意識をしてしまえば、他にも色々なところに恋をしていたことに気付いた。例えば、意外としっかりしている大きな手だとか、ユニットメンバーに号令を掛けて、威風堂々を振る舞う様だとか。時たまに、ぼんやりと憂鬱を乗せる横顔だとか、そういった所に堪らなく恋をしていた。

 月の明るかったあの夜よりも前から、そんなどうしようもない自分のこころに泉は気付いていた筈だった。泉がただ、無意識に新しい恋を押し殺そうとしていただけで。


 泉の恋したエンバーグリーンの眼が、綻ぶかのように揺れている。ひび割れの隙間から、ひかりが覗くさまに、また泉は恋を知る。


「この恋を殺したりなんて、神様にだってさせやしない。もうあんなに痛い目に合うのはごめんだからねぇ」


 そうして、一呼吸を置いて。泉は挑発的に笑った。口元を傾けて、夕暮れ時の赤い太陽を背負って。恋をしたレオに向かって、恋をするいきものは言い放つのだ。


「青春も、信念も、背中を預ける場所も、俺の声も、初めての恋もあんたにあげたんだ。俺は、俺のために恋をする。だから俺の恋は、俺だけの恋はあんたになんかくれてやんない」


 硝子越し、燃えるような太陽を背負って、そんな言葉を口にする泉は、つめたく装ったかんばせには似合いもしない、熱をあげた眼をしていて。レオは自分の心臓が、一度おおきく音を立てるのを知覚する。ああ、おれが恋をした泉は、そうでなくっちゃ。口元が緩むのを抑えられないまま、泉の元へ駆け寄ろうと、そうしてレオは白黒の床を蹴った。



(20170721/恋するいきもの/レオいず)

▷チェックメイトを読んで、今まで考えていた二人の解釈が変わってしまったので、自分の中で二人の関係性を整理したくて書いたものでした。有り体に言うならばチェックメイトの読書感想文。
個人的に、あの頃の二人の間にあったものは愛ではなく恋であると思っていて、殺して埋めてしまった恋を再生することはできないけれども、またいつか、互いに互いときちんと向き合えたならば、新しく恋を始めることができるのだろうな、という考えに至りました。この話で扱う恋という言葉は、かなり広義的な意味のつもりで使っているので、恋愛的な要素は殆ど考えていません。/2017.12