#3 砂糖水(傍観者もまた、結局は一匹の囚われのさかなに過ぎなかった)

意味:砂糖を水で溶解させた水溶液のこと。




(一)

 理由もなく、カップに角砂糖をひとつ分放り込んだ。凛は、真っ白という色が苦手であったから、ピンセットでつまみ上げる角砂糖は、勿論茶色であった。やけにスローモーションに紅茶へと落下したそれは、一瞬にして液体に映り込んで凛の影をかき消してしまったようだ。そんな戯れを二三度繰り返しながら、凛は茫洋と霧雨にまどろむ街を俯瞰していた。凛の待ち人は、まだ訪れない。


 この喫茶店を見つけたのは、ついさっき遇遇のことだった。この街には一笑に付すことの出来ない色々な噂話が飛び交ってやまない。噂話の典型のように、それが元々誰が伝え聞いて来たものなのか、何年前からこの街に存在しているのかも分からないのであるそれのいくつかは、この街の人間なら誰しも聞いたことのある話ばかりだった。


 例えば、この海に面する街には、さびしがりやな海神様が住み暮らしている、とか。そういった他愛のない噂のひとつ、同じプログラムばかりが繰り返されるプラネタリウムと引き合いに出されるのが、雨の日にだけ開店する喫茶店だった。


 映画を見に行こうと誘ったのだから、凛は今日映画館の前で切符を握りしめているはずだった。しかし、霧雨という名の通り、雨は暗く街を閉ざしてしまった。そんな灯りも少ない中では、落とし物をしてしまうのは当然なのかもしれない。来ない待ち人に苛立ちを募らせながらもつめたさに身を震わせて、無我夢中で喫茶店へ飛び込めば、既にその手は切符を失っていた。

 仕方なしに、凛は待ち人に映画を見に行く予定を変更する旨を伝えてもらって、彼女が来るまでの間ひとり喫茶店で紅茶を啜ることとなったのだ。

 逃げ込んだ先、雨にまどろむ喫茶店の店主は、いつかの日に訪れたプラネタリウムの館長とよく似た面立ちをしていた。部屋の内部にむせ返るコーヒーの匂いは、遠く異国を感じさせて、この空間が異世界であるように錯覚させる。そんな奇妙な因果のせいか、凛はここが噂の喫茶店ではないかと期待を膨らませていたのだった。



(二)

 無意味に放り込んだ角砂糖ひとつ分が融解した紅茶は、相も変わらない透明度のまま済まし顔でカップの中に居座っていた。不必要なものを追加され変化を求められても、ただただ変わらず透明なままでいられるその姿が、凛にとっては少し羨ましかった。


 ――この閉塞的な街の中でも、緩やかにしかし確実に変化は訪れていた。

 それは、背の高さや足の長さ、勉強の出来不出来といったものから、多く持ちかけられる恋愛相談や友人との近くなりすぎた距離感まで様々だ。そういったものに揉まれて、いつしか自分自身もまた、段々と子供から大人へと変化の波に抗うことも出来ず流されてしまっていることに、凜は気付いていた。子供から大人への変転が、夢あるものではないことを、先に凜は悟っていた。

 凜の友人である垂水渚という少女は、夢見がちな子供のような気質を抱えている。大人びたルックスと脆い部分が均整を保つ、その硝子のようなうつくしさこそが、最大の魅力であり、欠点だった。



(三)

 例えば、渚は昔、凜に自分が持つ密閉された水槽のイメージについて、少しだけ話してくれた。それは、彼女にとって無意識だっただろうが、凜はそのときの渚の表情を鮮明に覚えているのだった。

「ちょうど水槽に閉じこめられたみたいに、息がつまってしまう」

 彼女はそんな風に渚に言葉を零した、彼女はきっと、そのイメージに名前をつけてほしかったのかもしれない。凜は、それが劣等感という名前を持っていることを知っていた。だから、あのときに、凜は渚に、いつまでも子供のような渚に、それが劣等感と呼ばれるもので、誰しも持っていることを告げるべきだったのかもしれない。

 それを喉奥にしたためてしまったのは、凜が渚に対して無視できない程に膨れ上がった劣等感をもっていたからに他ならなかった。


 凜は、いつまでも子供のままでいたかった。変わってゆくことが嫌いで、ただただ与えられ享受するだけの子供でいたかったのだ。それは、大人としてみなして欲しいと請う渚とは正反対で、そう請える渚を羨望していた。変化を求める積極性を、凛が持つことはない。


 加えて、渚自身は気付いていないようだったけれど、3年も経っても彼女は、会ったときから変わらず、子供のような気質を抱えたままだった。さながらそれは、変化することをやめてしまったような。


 そんな彼女を哀れに思いつつも、反面凛はその姿に焦がれていた。

 それは否定するのには難しい事実で、凛は何よりも、その事実を渚に見透かされてしまうのが怖かった。渚の双眸は素晴らしい夕日の色を宿していて、その透明度は、子供のような純粋さそのものだった。ただし、その透明度ゆえに彼女の双眸は宝石のように相手の心の色を映し出す鏡だった。否、そう思い込んでしまう時点できっと、凛の心は暗く淀んでいたのだろう。巡らす思考回路に苛立ちを覚えて、舌打ちをしようとするのを、凛はひとり唇を噛んで飲み込んだ。


 結局、全ての非は凛の思い込みで、渚はちっとも悪くないのだ。