海中遊泳

 それは、あまりに下弦のつきが明るかったものだから。瞼を撫でる細いひかりに、泉はゆっくりと目を開けた。

 天井で旋回するプロペラを目で追いながら、すこし寒いな、と思った。さっきまで、あつくてあつくて仕方が無かったのに。とろけてしまったように思えた頭は、すっかり元の調子に戻っていて、こうして細胞へ感覚を返還していた。
 おもむろに、暗めに落とされた照明に手をかざした。影の中ですっと伸びる、しろい腕。きちんと整えられた指先のさきで、星が光る。じっとしているうちに、この指をいたく気に入ってて、絶えずくちびるを落とす男のことを思い出した。
 騎士が忠誠を誓うようにして、軽く唇を落としてゆく男の目は、そのくせ騎士とは言いがたい目をしている。けだものの緑の目を有した男は、なんの期待もしていませんという顔をして、次は泉の鎖骨に顔を埋める。その浅ましさが、泉には愛おしくて仕方がなかった。きっと、世界中のすべての愛おしさを詰めたら、このいきものになるのだろう、なんて馬鹿げたことを思い浮かべるくらいに。だから、泉もまた橙色のいきものに手を伸ばす。鼻孔を掠める、汗のにおい。ぐっと自分の方に引き寄せてから、甘えるように額を擦り寄せば、顔を上げた男は目元だけで器用にわらってみせる。けれども、いつまでたっても泉はその笑いの真意を汲み取れない。汲み取らせまい、とすぐに男が目尻に唇を落とすから。それがはじまりの所作でもあることを、泉はよくよく知っていた。

 窓の隙間から溢れた月明かりが、皺の寄ったシーツに影をつくって、波紋をひろげている。冴えきった夜の青に相まって、海のなかにいるみたいだ、となんとも自分らしくもない詩的なことを思う。寝返りを打つと、少しばかり波紋がゆるんだ。その軽さを不安に思ってシーツを手繰れば、向こう側で小さく呻くような男の声がした。
「いずみ?」
 この男の声が一等好きだ、と泉は強く思う。とくにこういう寝起きの、掠れきった低い声が一等好きだ。普段は男のひとにしては高い声——その真昼の声もまた泉は好んでいるのだか——が、ざらざらとした落ち着いた声になることを知っているひとは少ない。天才、リーダー。そんなレッテルの裏にある月永レオという、この男自身がもつ隠れた魅力を知ってゆくが泉の楽しみだった。
「そう。あんたの泉だよ」
 口の中で転がした自分の名前に馴染めずに、泉は笑みを漏らした。レオが下の名前の方を呼ぶのは珍しい。大抵下の名前を呼ぶときは、互いに余裕はなくて自分の意識が飛びかけているときだから。これまでも、そしてこれからも真昼にこんな風にあまく、熱に浮かされた恋人みたいに名前を呼ばれることはないのだろう、と泉は知っていた。泉は男で、レオもまた男だったから。先になにひとつの生産性もなく、かみさまだって許してはくれないこの関係性ーーましてや泉とレオは今をときめくアイドルでもあるのだーーが、日の目を見ることはないと泉は理解していた。それでも、こうして名前を呼ばれるたびに、真昼のせかいでこうして名前を呼ばれてみたい、と期待させてしまうレオに、泉はやるせなさを覚える。
そんなやるせなさに対する意趣返しを込めて投げた言葉は、「おれの泉」と、反芻するようにつぶやかれた言葉に沈殿していった。

「おれの泉は、お月さまみたいに綺麗だ」
 未だ夢の中にいるように眠たげな目をしたレオに指を絡めとられる。指の間を探るように辿って、きゅっと力強く握られる。白々としたあかりが、泉のあわい髪先を透明に染め上げていることを、泉自身は気付いていない。泉のふくらはぎの甘やかな曲線は、シーツには隠しきれない美をはらんでいた。
「まつげの一つ一つが霜を閉じ込めたみたいに綺麗でさ、こんな人間がいるんだ、って思った。真っ白で、海の色をした二つ目がきらきら光ってて、お月さまが人間のかたちをとったら、きっとこんな風なんだろうなって思った」
「あんたは、こういうとき少し饒舌になる」
 相変わらず、うたうように並べられる言葉たちへの気恥ずかしさは、ちっとも薄れやしない。きつく唇を噛み締めていると、咎めるようにレオが口元に唇を寄せるものだから、つい素直にやめてしまう。口元からゆっくりと、下に下に辿っていって、胸板にある小さなくぼみに触れる。丁寧な愛撫は、指先へ落とされるキスを想起させる。
「あんたのそういう所作、一等好き」
 思わず零した言葉に、レオはゆったりと破顔した。繋いでいた指先をほどいて、ひとつひとつ丹念に唇を落としてゆく。
「やっと見惚れてくれた?」
「そんなの、ずうっと昔から見惚れてる」
 するりと喉奥から使えることなく落ちた言葉は、存外素直な響きを有していて、泉自身すら驚いた。そんな様子を見たレオはくつくつとまた笑う。そういう笑い方も、泉は一等好きだった。
「おれも、お前がたまにそーやって素直になるところが一等好き」 

 親指、人差し指、中指。愛おしくてたまらないと言った風に口付けられ、甘噛みされる所作が、とつぜん躊躇うように遅くなり、そして止む。数瞬後、再開されたその所作のはじまりは、小指からだった。
 そこを避ける意味を泉は知っていたし、そこを避けざるをえない理由を泉はよくよく知っていた。どれだけ互いがこの関係の先を望んでいても、泉たちの関係性は真昼に晒されてはいけないし、約束も残してはいけない。奔放で散々に迷惑をかける男ではあるが、それでもレオがやさしい男で、誰よりもアイドルらしいアイドルであることは、泉がいちばん理解していた。
「きっと、あんたは分かっちゃいないんだ」
 堰き止めを失ってしまえば、あれだけ溜め込んでいた言葉がいとも容易く音になった。自分の上にある小さな体躯をぐっと抱え込む。驚いたような声を上げたレオに、いつもこの男がするように目尻に唇を落とした。きっと、今の自分の表情は、見れたものじゃない。
「死んでもいいと思えるくらいの分の心臓を、とっくの疾うに託してる。この関係性が明るみに出てもいいんだ、俺は。でもあんたは、俺なんかよりもずうっと義理堅くて、ずうっと優しいから、こうして薬指を避ける」
 レオの顔を覗き込む。澄んだグリニッジグリーンが五億光年分の星を抱いて瞬いているような気がした。そんな目も、泉は一等好きだった。眩しいくらいの、ゆるぎないひかり。

「ねえ、でも今はかみさまだってみちゃいない。だから、月と俺とあんたしか知らないここで、朝には融けるような約束をさせて」
 浅ましさの滲んだ声に、レオは降参したように笑って。


(20180630/海中遊泳/レオいず)

▽六月の話です。ここまで追い詰められながら書いたのは久しぶりでした。タイトルが先に浮かんでいるのは珍しいのですが、それのお陰で今回命拾いをした気がします。朝まで限定で「死がふたりを分かつまで」な関係性の二人に夢をみています。/2018.07