序幕

 

 

「だから、さよならなんだ」

少年は少しだけ寂しそうに笑んだ。そう、例えるならば花がほころぶかのように。

 

刻は夕時。春とはいえども遥か彼方の空は既に藍色に織り上げられており、今はただ僅かばかりの淡い橙を覗かせるのみ。さざうつ野を黄金色へと染め上げた夕日が藍色へと溶けてゆく。

そんな景色の中、わたしは少年を見上げていた。

いつの間に見上げるようになったのだろうか。蜘蛛の糸のような記憶を辿れども、見当たりはしない。少しばかり高い背の丈から眺める宵闇の世界はどのようなものなのだろう。穏やかに笑う少年のかんばせを呆、と見つめていた。

遠くから響く酷く緩やかで、何処か懐かしい拍子の鈴の音。山の守のものであろうその音はどうしてか全てを失くしてしまいそうな脆さを抱いていた。

古鴉が一声、宵闇の奥から人の子を呼んでいた。つがいを失い、あやかしとして千年を過ごした鴉は宵闇の中、何も感情のない銀杏色の瞳でただただわたし達を見つめていた。

あやかしたちを視ることは、わたしにとっては当たり前のことだ。村の人々にとってもそれは普通なことだけれど、ある時その様子を身振り手振りで伝えてみたのだが、人々は寂しげに笑んだ後に軽く頭を撫でるだけだった。

ぼやけた視界に映るは整ったかんばせに、花菱の模様のあしらえられた浅葱色の小袖袴。その全てがいつものどおりであるはずなのに、得意げに緩められる口元だけが結ばれていた。

 

ああ、そうか。わたしはようやく気付いた。もう彼はここへ戻ってくる気はないのだ。

ならばせめて泣かぬように。笑って送ることなど出来やしないけれども、せめていつものように。

強く唇を噛み締めて、それからわたしは告げた。

「さようなら」

滲んだ視界のその先、宵闇へと沈む浅葱色の少年をただただ見つめていた。

ふと後ろを振り返れば、微かに残る夕焼けの残像。わたしは帰る場所を眺めて、それから宵闇を蹴った。

遠く、暗き空にたなびいてゆく薄雲の行く末など、誰も知らず。

それでもわたしはその道に幸あれと願ってしまうのだ。

 

それはとある春の夕時のこと。少年と少女だけの秘め事の記憶。

万華鏡と例えるに相応しい景色の中、少女は微かに残る橙色の野道を駆けてゆくのだった。

 


一  宵祭り