#2 深海魚

(閉塞感をつれる水槽を回遊しよう、僕と君のふたりだけで)

意味:一般に海洋の水深200m以深に生息する魚。光が少ない、またはほとんどない深海環境に過ごすことが特徴の一つでもある。 




(一)

 垂水渚は、視界一杯に広がる青を見据えていた。ゆらゆらとたゆたう水の様にはたと息を呑み、色褪せたさかなを視線で追う。まあるく回遊する魚は縛られるものがない様で、仄かな憧憬を連れてくる。無意識のまま手のひらを薄氷のような硝子に重ね合わせれば、温い体温のような感覚を期待していた渚の予想とは裏腹に、突き刺すようなつめたさが指先に触れた。

 

 街の中心には、年月を重ねたプラネタリウムが長きに渡って、ひっそりとあり続けている。それは街の人々はよく知っていたし、観客の少ないそれが閉館されることなく、ひとつだけのプログラムを上映し続けている理由も人々は知ってた。 

しかし、プラネタリウムの対になるような、寂れてしまった水族館を知る人は珍しい。それは、古くからこの街で生活を営む人々が決して口にはせぬように気を使っていたからだろう。埃の積もった水槽ひとつだけの水族館が、未だにひっそりと息をしている理由を知るものは既に少ない。 


 この場所を渚が知ったのは、偶然にすぎないものだった。しかし、ただ偶然で迷い込んでしまっただけならば、古きを知る街の人々はここに、幾度も渚を来させようとはしなかったはずだ。しかし、渚は「彼」と出会ってしまった。この水族館がひっそりと息をしている理由の「核」となる「彼」に。 


「渚ちゃん、今日もあの子をお願いしていいかい」 

 呼ばれた名前に視線を上げる。ブルーライトが揺れる館内、光の落下する水槽の隣で、馴染み深い館長が目をゆるやかに細めている。双眸の奥から覗く青い色はうつくしく、はたと視線を奪われる。館長は相も変わらずくつくつと笑い、いつものように頭を軽く撫でた。 


「ああ、そうだ。毎度毎度だけどこれお駄賃」 

 渚の手のひらに落下したのは飴玉だった。いちごの味だろうか。砂糖をまとう大振りの飴玉は真っ赤で、ルベライトの宝石のようだ、と渚は回らない脳内で思う。 「ありがとうございます」 と飴玉をポケットの内に転がして、渚はにこやかに言葉を返した。


 館長はゆるりと目蓋を閉じて、物思いに耽るようにつと指先で水槽の縁を撫ぜた。その様が、何処か六時限目の凜の様によく似ていて、心臓がひとつ跳ねる。他者から褒められ、持ち上げられる凜と、何の取り柄のない自分。水槽のガラスに似た壁は、いつだって渚の内に存在する。実際は存在しないはずの境界線。それは、自分ひとりだけ取り残された感覚を渚にもたらす。 

「渚ちゃん?」 

 心配そうな響きを伴った低い声に瞼を開けば、そこに佇むのは凜だった。否、まとう不思議な雰囲気は館長のものに間違いはなく、きっとそれはただの渚の作り出した偶像にすぎない。きっと未だ、あの六時限目のイメージを引きずっているのだ。そう結論付けて、双眸をしばたかせると、見慣れた館長の姿が視界の内に映りこむ。青い目。そう、館長の目は「彼」と同じ青い色だ。 


 渚は、こころの奥で、館長が凜のようなひとでなかったことに安心を覚える。そして、そんな自分をただただ見つめていた。鏡のようなそれは、醜い表情で渚を見つめ返す。密閉された水槽のイメージは、どうしようもなく渚のこころを捕らえたまま。それは、いつだって渚はそれに蝕んでゆくのだった。 



(二)

 渚がちいさな子供であった頃から、館長はなんにも変わることがないようだった。渚が小学生から中学生に、中学生から高校生へ。めまぐるしく変わる渚は、その様が少しだけ羨ましく思ったものだった。不思議な雰囲気を醸しだす館長が、渚は嫌いではなかった。小学生のような扱いをする担任よりは、渚を大人とみなしているように感じたからだろうか。それとも、館長が「彼」と同じ思考回路を抱いているように感じられたからだろうか。 

「鍵を、いただけますか」 

 手のひらに、もうひとつものが落下する。軽い金属音を連れた、錆び付いた鍵。消えかけてしまった「特別展示室」という文字にひっそりと眉をひそめながらも、渚は緩やかに口角を上げて、丁寧にお礼を述べた。 

「それじゃあ、行ってきますね」 

 零した言葉と共に、渚は光の落とされる水槽を後にする。館長だけが見据える水槽のなかでは、色褪せたさかなが、まあるく回遊するだけだった。 



(三)

 その扉の立て付けは悪く、開けるにはコツが必要だった。それは、ずうっと昔。誤ってこの通路に迷い込んでしまった渚が、パニックのまま扉を叩いたことが原因だろう、と渚は追想する。

あの日も今日のように雨が降り続いていた。雨宿りに逃げ込んだ水族館は見知らぬ場所で、渚の幼い好奇心を掻き立てた。濡れてしまったルビー色のランドセル、片手には子供用のビニール傘。ちいさな街の一角、水で満たされた空間は渚の好奇心を費やすには十分だった。毎日毎日、小学校が終わるたびに渚はちいさな冒険をした。

 しかし、いつだっただろうか。あちらこちらに点在する扉を見回るなか、いつしか厳重な鍵を掛けられた扉まで迷い込んでしまったのだ。喚いて泣き出して、扉を荒く叩けば、その向こう側から声がしたのだった。自分よりも少しだけ年上で、澄み渡った少年の声を、渚は確かに耳にした。 


 「特別展示室」というプレートの掛けられたちいさな部屋は水族館の奥、其のさらに奥に存在する。

 薄暗く、アレキサンドライトを想起させる赤い蛍光灯は、鍵の掛けられた扉を燦々と映し出す。鍵は内側からは必ず開けることができず、外からでしか扉は開けることが出来ない。故になかに閉じ込められてしまうと出ることは限りなく不可能だ、と。それは、館長が零した言葉だった。何故なのか、と問うた渚に、館長は哀しげに笑って、幼かった渚の髪を柔らかく梳くだけで、教えてはくれなかった。 


 前髪から覗く青い色を宿すうつくしい双眸は、極限まで細められており、それが渚の前では必ず口には出さないことを暗に示していた。 


 ドアノブを右に捻った後に、一気に左へと捻り上げる。これで扉の立て付けは少しだけ良くなるはずだ。荒々しい音と共にほぼ垂直に傾いた扉は、女子高生の渚の両の手のひらには支えきれない重さを連れている。扉の僅かな隙間から零れ落ちる青白い光を眩しげに見つめ、少し、ほんの少しだけ躊躇うかのような手つきで渚は鍵を差し込んだ。


 

(四)

 扉の奥は、青色で満たされていた。水面を揺らす波紋の影が小さな部屋のカーペットに映し出されていて、どこか異世界のようだ。足を付けているはずなのに、足元をゆるやかに掬われ、水の中をたゆたうかのような浮遊感をないまぜにしたかのような感覚。それは半覚醒状態の夢の中に良く似ている。深淵まで広がるような青色の中に、渚は佇む。 


 なんにもいない小さな水槽と相反する位置に、アレキサンドライトの色をした蛍光灯が照らす水槽が設置されている。赤く、人工的な色が落下する波紋の内にあえぐは、白眼の深海魚。一匹の深海魚だけが水槽の隅にてひっそりとえら呼吸を繰り返す様は、どこか退廃的で、渚はいつだって物哀しい心持ちにさせられるのだ。 


 そして、「彼」も。 

 「彼」は、いつものように深海魚が緩やかに呼吸する傍で、佇んでいた。一度も光を浴びたことのない(実際そうだと彼は笑った)ような真っ白な手のひらと、前髪から覗くは好奇心の弾ける蒼い双眸。それは、どこかタンザナイトの蒼さによく似ていた。今日もまた、「彼」はチープな鍵盤で手遊びを繰り返していた。


 今日の曲は、「道化師の朝の歌」だろうか。聞き覚えのあるラヴェルの曲に耳をすませば、ひとりの少年が弾いていることを疑う難易度であることに気付く。複雑怪奇ままならない譜面をいともたやすく指で弾く彼は、いつだってそれを「手遊び」と笑うのだ。「本物を聞いたことなどないから、これは手遊びにすぎない」と。 

 安っぽい玩具の鍵盤は「彼」の手のひらには似合わない、と渚はいつも思うのだ。彼には重厚で、硬質な鍵盤が良く似合う。しかし、「彼」はそれでも既存の曲に独特のアレンジを加えたり、時に作曲を行ったりと心底楽しげにピアノに触れる。跳ねて、飛んで、落下するピアノ音。零れた音は、どうしてか異世界のようなこの空間によく似ているのだった。それは、ラピスラズリの宝石の群青を彷彿させてやまない。 

(ああ、でもなんて、退廃的)

 光の落とされない世界のなかで、跳ねる音は泡沫のように遠く彼方へと消えてゆく。きらきらと零れてたゆたうそれと対照的に、「彼」は深海の底でただ楽しげにピアノを弾き続ける。それは、少年自身の明るい雰囲気には似つかわしくない、「退廃的」という言葉がぴったりで、渚は泣き出しそうに口元を緩めるしかなかった。 

 

 不意にピアノの音が止めば、異世界の雰囲気を連れた部屋には刹那の静寂が落下する。静寂は、無機質なつめたさと、微妙な距離感を連れている。渚はそれから視線を逸らすかのように「彼」の表情をうかがってみる。切りそろえられた髪は寝癖か跳ね上がっており、うつくしい蒼の双眸は、五線譜の羅列を映し出す。出会った当初より変わることのない顔立ちは、「彼」が特別であることをはっきりと示していた。 


 譜面読みに夢中な彼は、整った指先で、波紋の揺れるカーペットを叩く。規則的で、不規則なリズムが静寂を乱す。 蒼を湛えた双眸は、まだ夢から覚醒しきっていないようだ。夢見ごこちな彼と同じ時間を共有していると、どうも時間間隔が狂ってしまう。渚が慌てて時間を確認してみると、針は馬鹿にするかのように午後六時を指し示していた。 

「ああ、おはよう。渚」 

 透明な声が、渚の鼓膜を震わす。それはあの日、迷い込んだ扉一枚の先で聞いた声と全く同一なもの。渚は、変わってゆくことを切実に求めながらも、変わってゆく周りが少しだけ恐ろしかった。

だからこそ、全く変わることのないその姿と声に渚は不意と安堵のため息を零してしまう。 ああ、やはり変わることのないものは確かに存在する。加えて、彼はいつだって渚を比較する対象として見なかった。


「ばかだなあ。もう夕方だよ、彼方」 

 外のせかいから切り離され、青と赤が融けた光が零れる退廃的な空間。深海魚の隣で、楽しげに玩具のピアノを奏でる少年。もう再び変化が訪れることのない彼の名前を「彼方」という。