バーデヴァンエの愉悦

 一人で入るには少し広すぎて、二人で入るには手狭に思えてしまう。そんな中途半端な広さのバスタブを、レオはこよなく愛していた。バスタブの脇でお行儀よく並ぶシャンプーやリンスの澄ました様子も、ぴかぴかに磨かれた姿見から垣間見える几帳面さも、その鏡を貴重な休日を使って磨き上げてくれた、毒舌でお月さまのように凛とした、宇宙でいちばんにいとおしい恋人のことも、レオはこよなく愛しているのだった。
 
 この三畳に満たない白い空間では、鼻歌は篭ったかたちになって響き渡る。けれどもレオは、この篭った音が形容しがたいながらに好きなのだ。肩までじっくりと、お湯に浸かりながらも、レオは即興で作曲を続けている。白いお湯からは、泉が好んで使用するシャンプーとよく似た蜂蜜のにおいがした。
 ぼんやりとした頭の中に並んだ、逃げ回る音符たちを掴んではきちんと脳内の五線譜に整列させる。ここでシャープ。一オクターブをあげたら、フラットに。ざあ、と隣の洗い場でシャワーが流れる音がして、レオは鼻歌をやめた。お、よーやく塗るの終わったんだなあ。線のほそいしなやかな背中を、お湯が伝ってゆく。お風呂から立ちのぼる蒸気のせいか、常時よりも熱をもった泉の素肌の色は仄かに紅に色付いていた。端正なプロポーション、タオルで纏め上げられた、月のひかりを閉じ込めたような長い髪。すらりと曲線美をえがいたふくらはぎ、柳のようで触れたら折れてしまいそうな腰。てっぺんから爪先まで気が使われているセナの美意識は、レオを感嘆させ続ける。やっぱり綺麗だな、と小さな嘆息に無音の声を乗せた。十六歳の頃よりも今年、昨日よりも今日と、年を重ねるごとに泉はますます綺麗になってゆく。
 温かいシャワーを機嫌良さそうに浴びている後ろ姿を見ると、たまにはこちらを向いて欲しいなとも思ってしまう。出会ってからおおよそ十年、同棲を始めて五年。いまだに一緒に風呂に入ることを気恥ずかしがっては、そっぽを向いたまま身体を洗う恋人は、やっぱり今日も此方を向いてくれやしない。

 真っ白い背中の、少し骨のくぼんだところにお湯がたまっていた。レオは、あの小さなくぼみがたまらなくすきなのだ。アイドル兼モデルの『瀬名泉』として売り出している泉の、あの小さなくぼみに触れることを許されているのはレオだけなのだ、と思うとたまらなく興奮してしまう。あのくぼみをなぞったとき、くすぐったそうに肩を揺らす泉の素振りを思い出して、レオの悪戯心がのぞいた。バスタブから半身を乗りだして少しだけ手を伸ばす。そうして、少し骨ばった指のさきで無防備な背中のくぼみをなぞってやる。うすい皮膚の下に隠れた骨のかたちがわかるよう、丹念に。途端、びくりと肩をふるわせた泉が、頭だけ此方側を見やった。不服そうにゆるんだシャレイブルーは幾分か熱で濡れ落ちており、ふるえた睫毛は銀の星くずを散らしている。整った輪郭の線が、ふやけてとけた。ああ、やっとこっちを見てくれたなあ。ふふんと自分の口元が弧を描くのを、レオは自覚せざるを得なかった。
「……なーにぃ?」
「いーや、別に! おれのセナは今日も綺麗だな、って」
 不機嫌そうな泉に、思ったことを直球にぶつけてやる。高校時代だったなら話を逸らされて、同棲時代のはじめ辺りなら火がついたように赤くなっただろう泉は、流石の年月の積み重ねなのか、赤くなることなくすらすらと言葉を投げ返してきた。
「当たり前でしょ、あたしをなんだと思っているの。瀬名泉だよぉ、見てくれくらいは綺麗じゃなきゃ、この業界やっていけないよ」
「おれはセナの容姿は勿論だけど、セナの美意識も思想も価値観も……セナの全部がすきだ! 最高だ!」
「はいはい、有難うねえ。……れおくん」
 一見すると仕方がなさそうに返された言葉は、金平糖を噛み砕いたくらいに甘ったるい響きが篭っている。一緒に暮らしているうちに泉は感情のあらわれ方が顕著になった、ように思える。眉を寄せたまま唇を尖らせたその挙動が照れであることが、今ではレオがいちばんに理解している。年月を重ねるごとに感情表現が華やかになってゆく泉を、いちばん近いところで見つめるのは、レオの楽しみだった。

「身体、冷めちゃうからおいでよ」
 湯の張ったバスタブの中から、大きく手を広げて泉を招けば、泉はぎゅっと目を細めた。面積のちいさくなったシャレイブルーが勘ぐるようにレオを射抜く。その視線から逃げるように、お湯が白く濁っているせいで、ぽつんと浮かんだ小島みたいになっている、自分の膝小僧を軽く叩けば、さらに視線の鋭さは増す。
「……そーやって。また変なことするつもりでしょ、れおくんは変態だから」
 あわく色付いた唇からぽつ、と零れた言葉に、レオは少しだけ居た堪れなくなった。そう言われれば、このあいだ一緒にお風呂に入った際は、目の前に晒されたうなじに理性を焦がされてしまった。そのまま縺れあうように散々ふやかしあった後、すっかり湯冷めをしてしまった二人の身体はつめたくなってしまって、加えて撮影を控えた泉のうなじに、衝動のままに噛み付いて跡を残してしまったものだから、泉が烈火のごとくレオを叱咤したのだ。高校時代、さきに噛んでほしいと求めたのが他でもない泉であったことを、レオはきちんと覚えている訳なのだが、それを口に出したところで泉の怒りが収まるわけではない。そんな経験則から、レオは泉のお説教がおわるまでじぃっと息をひそめて、お叱りの言葉が途切れた時に、頭を深く下げて許しを求めたのだった。
 泉のうなじにもう噛み跡は残っていない。が、ただ泉はそのことを深く悔いているのだろう。うつくしい双眸に浮かぶ警戒の色に、レオはひとつ溜息をついた。そりゃあ、レオだって男だ。下心のひとつやふたつ、否みっつくらいはあった。けれども、別にそれだけが、一緒に風呂に入りたい理由なわけではない。レオは、中途半端な広さのバスタブと、シャンプーやリンスのきちんと並んだ姿と、そしてなにより宇宙でいちばんにいとおしい恋人のことをこよなく愛しているのだ。すきなものに溢れた空間にいると、さながら幸福の海にたゆたっているような気分になる。「セナ」と十年間変わらない呼び方で、レオは恋人の名を呼んだ。まあるくてうつくしい、すきのかたちをした音が零れては星になる。

「ひとを歯止めのきかない獣のように言うなよ〜、まあレオだから獅子、っていうなら間違っちゃいないだろうけどさ」
「あんた、獅子というより猫みたいだもんね。言動とか見た目とか子供っぽいせい?」
「がるるる、子供っぽいって言うな!気にしてるんだよ……おれ、そんなに子供っぽい?」
 お決まりの台詞を口にしてみせたのちに、レオは少し困ったように眉を寄せた。年を重ねるごとに綺麗になってゆく恋人の隣に、果たして自分は相応しいのだろうか。そう何度か思い悩んだことがある。レオの宇宙でいちばんにいとおしい恋人には、内緒の話ではあるが。
 ざあっ、と甘ったるいにおいのお湯の表面に波紋が広がって、おおきく波打った。目の前で泉のしろい肢体が、ゆっくりとバスタブに沈んでゆく。お互いの膝小僧がふれあうような狭さに、このバスタブの中途半端な広さを思う。泉を抱え込むような態勢にすれば少しは広さを確保できるのだろうが、どうやら今日の泉は意地でもうなじを晒さないつもりらしい。
「さぁ……れおくん自身が一番わかっているんじゃないの?」
 対岸で謎めいたような笑みをみせた泉に、思わずレオは見惚れてしまう。少し頰を蒸気させている、雑誌の巻頭を飾るようなうつくしいその表情は、すかさずレオのこころを奪ってゆく。其れは高校時代、十六歳の頃の泉では見ることの叶わなかった表情で。数秒。突然、最低限度までに力の抜かれたデコピンが飛んでくるものだから、小さく悲鳴を零してしまった。「なぁにいつまで見てんのよぉ」とふやけた声が飛んでくるので、レオは慌てて視線を外す。ちらりと覗いたシャレイブルーの色合いは、いつもよりも華やいでいた気がした。

 レオの額を弾いた泉の指がかたちを変えて、今度は垂れ落ちたレオの前髪を搔き上げるような素振りをみせた。洗ったばかりでしっとり濡れ落ちた橙の髪からは、泉とおんなじシャンプーの甘いにおいがする。レオのものとは本質から違う細い指が、髪の間をすり抜けてゆく感覚は、なんだか少しこそばゆい。一筋の橙がはらりと垂れ落ちて、レオの視界をほんの僅かに遮った。逸らしていた視線を戻して、向かいを見やる。すると、すっかりとろけたシャレイブルーが揺れていた。
「……れおくんはねえ、宇宙でいちばんかっこいいよ。宇宙でいちばん綺麗なのがゆうくんなのは、譲ってあげないけど。かっこいいの称号くらいはあんたにあげる」
 「それに子供っぽいって言ったところで、実際のところれおくんは、もう十分かっこいい大人だよぉ」と付け加える泉に、レオは頰がゆるむのを知覚する。 全くもって、恋人にはこういう部分があるから、レオの心臓はもたなくなるのだ。八割がた、毒舌苛烈マシンガンとして容赦のない泉だが、突然こうやって素になるから困る。高校時代だってそうだった。いかんせん態度の緩急のつけ方が激しいのだ。けれども今は高校時代とは違って、その緩急さを意識をしているからタチが悪い。心の臓のいちばん深いところで、繰り返し繰り返し、泉の言葉が火花のように弾けてはひかる。宇宙でいちばん格好いい、かっこういい。其れだけで十分だった、泉がレオの在り方を肯定してくれるならば。とろんとしたレオの様子に、泉はおかしそうに眉をゆるめた。

「……かみ」
「ん?」
「髪、上げてるときのれおくんが、いつもより三割増しでかっこいいことを知っているのは、あたしだけなんだなあって思うとたまんないなぁ」
 ぱっ、と。重力に逆らって掻き上げられていた髪から、泉は手を離した。途端、広がった前髪に、思わずレオは反射的に目をつむってしまう。立ちのぼる水蒸気のせいか、額に汗が滲んだ。内心大きく跳ねた鼓動を抑え込む。レオが、泉の少し骨のくぼんだところに抱いている満足感と、殆どおなじ形をしたものを泉もまた抱いている。
「そーだな、アイドルしている時も作曲家としてインタビューを受けているときも、ナイツの他のメンバーの前でさえもあんまり髪を上げないからなぁ……髪上げてるの、見るのすき?」
「んー、たまに髪を上げてるのを見るのがすき」
「そっかー、セナにかっこいいって思われてるの、結構意外だったからびっくりした!」
 動揺を押し殺して、ひらりと右手をかざせばお湯の跳ねる音。眉をつりあげたレオがきゅっと笑うと、泉は少しだけ呆れたように息をついた。
 「あのね」と、少しだけ内緒の話を打ち明けるかのような声音で、泉は囁いた。シャワーヘッドから、残っていたお湯がぽたりぽたりと不規則に落下する。身体を温めている白いお湯の中で、すっかりレオの指先はふやけてしまった。
「れおくんには言ってあげなかったけど、あんたがかっこいいってことは、ずうっと昔から認めてたんだからねえ」
 目をぱちくりとさせたレオに対して、ふふ、と小首を傾げて笑う泉は、あいもかわらず猫のようだ、と思う。「どうして今まで言ってくれなかったの」と尋ねてみれば、「言う機会がなかったから」とけろりとした顔で言葉を返された。やはり、レオの恋人は掴みどころがない。既視感のある会話だなぁと思いながら、気の赴くままに泉の細い手を取った。

「セナの手がすきだ。傷ひとつない、白い手がすき」
「れおくんの骨ばった、男のひとの手が嫌いじゃない。人差し指のペンだこも、弓道で擦れた跡のある指先も、嫌いじゃない」
 とつとつと、言葉の応酬をはじめる。泉の指先と自分の指先を絡め合えば、皮膚のつくりに違いがあることを実感する。少しだけ力を入れて握ってみれば、目の前の泉はくすぐったいと身体を揺らした。つられて、バスタブを満たしている白いお湯が揺れた。
「セナの髪がすきだ。銀砂を零したみたいな、お月さまの色をした髪が好き」
「……れおくんの、ほうぼうに跳ねた小動物みたいな髪が嫌いじゃない。黄昏にとろけている、夕暮れ時の色が嫌いじゃない」
「セナの目がすきだ。うつくしい青の焔がちらちら燃えている、凛とした薄氷のような目がすき」
「れおくんの、少し鋭さのある目が嫌いじゃない。きゅっと絞られた、継ぎ接ぎだらけの宝石をかためたみたいな、新緑の目が嫌いじゃない」
「セナの無駄のない肢体がすきだ。爪先まで気を配られているところとか、透き通った白いお腹とか、背中の後ろの、骨が少しくぼんだところがすき」
「……変態」
 一人で入るには広すぎて、二人で入るには少し手狭なバスタブを、レオはこよなく愛している。バスタブだけでなくて、そのシャンプーやリンスの並び方も、ぴかぴかに磨かれた鏡も、宇宙でいちばんいとおしい恋人のことも、レオはこよなく愛している。それは、この三畳の浴室に、あらゆる好きのかたちが年月ぶん目いっぱいに詰め込まれているからなのだ。幸福、というものが目に見えたならば、それはきっと三畳のかたちをしている。口元を緩めて、レオは丁寧に積み上げられた好きを咀嚼した。とても細やかで、どうしようもなく下らないものでも、これはレオと泉の幸福だった。

「こーやって、一緒に風呂に入ったりとか、下らない話をしたりとか、思い出話に花を咲かせたりとかして……それから、少し欲を出すとしたら、セナがますます綺麗になってゆくのを、これからもいちばん近いところで見れると、いいな」
 幸福が詰め込まれた三畳のバスルーム。独り言のように零れた言葉に、今度目を丸くしたのは泉の方だった。整ったかんばせのなかで、ゆらゆらと浅瀬のいろをした双眸が、満ち引きを繰り返している。その表情に、まだ駆け引きに慣れていなかった高校時代の泉の影を見た。最近は、レオの方が劣勢になることが多いせいで、泉の動揺した姿というのは滅多に見られやしない。ふふんとレオは上機嫌に、してやったりと眉を上げた。
「れおくんのそれ、プロポーズみたいだねぇ」
 そんなレオに叩きつけるかのように。泉はくすくすと笑いながらそう口にした。びっくりしたレオは、もう一度よくよく発言を思い返してみる。すると確かに其れは、求婚の申し込み文句によく似ていた。ただ、指輪も洒落たディナーも発言した本人の意識すらもないプロポーズなんて、どうにも情けない。顔の半分までお湯に浸かって、火照った様子を知られないようやり過ごそうとすれば、向こう側の泉が全てを見透かすような目を細めていた。レオの言葉に真意なんてありやしないなんて分かっている、とわらう二つ目。ああ、全くもって、このお月さまみたいにうつくしい恋人に、レオは敵いっこないのだ。「昔よりも、遠回しで洒落たプロポーズだなぁって思ったんだけどなぁ」と零した泉の言葉の端っこには、ちらちらと悪戯心がのぞいている。人の悪い側面を、泉はレオの虫の居所の悪いときにばかり見せてくる。「また今度、きちんと体裁を整えたときにさせて」と、宇宙でいちばんにかっこいいレオが縋れば、宇宙でいちばんにいとおしいレオの恋人は、満足そうに息をついた。



(20170821/バーデヴァンエの愉悦/レオいず♀)

▷息抜き。「二人が一緒に風呂に入って、なんやかんや幸せだねってなる話」といういつかの走り書きから書いたものでした。気を抜くとすぐに骨や目の話に走りがちです。余談ですが、メモの字が汚いせいで、後々見返してみると、何を書いたのか自分でも分からないものが、結構沢山あります。
/2017.12