一 宵祭り

 

緩やかな鈴の音が響けば、今年も宵祭りが始まる。

 

宵祭りの時期になると、山の守は鈴の音を響かせる。何処か脆さを秘めたその音は山の守が春の訪れを尊び、そして喜んでいるのだと云われている。

その鈴の音が響けば人々は祭り気分に浮き足立つ。人目のつきやしないこの山奥、誰も知らないような小さな村では宵祭りは大きな行事だ。社へ奉納するための灯篭や提灯づくりを大人子供に限らず手伝い、誰もが祭りへの期待を膨らませる。

しかし、この時期は子供が何処かへと消えてしまうことが多い。人の子とあやかしとの境界線が限りなく薄くなるからだ。

ここは山の奥地。元は山の守から譲り受けられた土地だ。肌をちりちりとさせるような霊力が一段と篭もるようになる。この霊力と肌の合うあやかしはここで生活を営むようになったという。

あやかしと人の子との境界線は薄い。そう、少しばかり霊力のある人の子にとってはほとんど見分けがつかないほど。ふいとすれば、あやかしの住む場所に迷い込んでしまう。

また、鈴の音は人の子の記憶を失くし、山の奥へと誘う。未だ人の世に肌の合わない幼子がふらりと消えてしまうことは稀ではないのだ。

 

刻は宵闇。単衣の紺によく似た空の色の下、月の光さえ零れることのない村はずれの山奥。鶯色に沈む葉はゆるりと擦れ、さざめく様子は例えるならば、森の奥息を潜める大あやかしのよう。

しゃらん、しゃららん。社の霊気を震わす微かな鈴の音。春の訪れを告げるも山の守の喜びの音は、次第に不安定で一定な拍子で人の子を惑わす。おいで、おいでと山の奥底へと人の子を誘う。

暗い空に細目を寄せたわたしは、震える肩を抱いた。

宵闇は苦手だ。どうしてか宝物にしているものを全て隠してしまうような、そんな不思議な感覚を抱いてしまうから。暗く、底の見えることのないその色に飲みつくされたなら最後、もう戻ってくることはないと気付いているから。宵闇に奪われたものはいくら手を伸ばせども、泣き喚こうと戻ることはない。

 

「でもさ、わたしの家に限っては提灯や灯篭作り以外にも色々としなくちゃ駄目だからなあ」

そんな宵闇に沈む山の奥。社への階段をゆるり登れども、未だ社は見えず。

わたしは息をついて、それから抱えてきた桶と柄杓を階段に転がした。

乾いた音を立てるそれを呆、と眺め。それからわたしはそんな言葉を吐いたのだった。

わたしも例に違わず、宵祭りへの期待を膨らませていた。去年までは。

提灯の赤さに良く似たりんご飴。波紋をたてて泳ぐ黒の金魚。夢うつつになりそうなほどにふわふわな甘い駄菓子。どれもこれもが煌びやかに、そして魅力的に写ったのだった。

しかし、今年は十四という節目の年。そろそろならば巫女の仕事を本格的に手伝うべきだと言われ、今年から社の手入れを受けもつことになったのだった。

しかしこの巫女の衣装。見かけに寄らずかなりの重さがある。特に魔を退けると言われる鏡の合わせ張りの筒。これは銅で作られているため殊更に重さがある。

柄杓の柄をしかと握り、桶を抱え、それから前を眺めた。社までの階段はあと少しのところで途切れている。きっと先月の土砂のくずれによるもので崩れてしまったのだろう。ふと横にある灯篭へと視線を向ければ昨年から雨ざらしにされただろうそれは既に汚れきってしまっていた。

何処かしらから指先から小さな痺れにも似た痛みが走る。守の霊気は、常人には耐えることの出来ないほどに強いものだ。ここへと灯篭や提灯を祭るのは必ず巫女か霊力の強い大人だけ。子供の巫女であるわたしがかろうじて保つことの出来るのは少しばかり霊力の秘められた鏡あわせの筒のおかげだろう。

ふいと上を見上げれば闇に紛れてなお映えるは、朱色だったであろう鳥居。古来より宵闇に佇むそれは既に丹塗りの装飾は剝げ、ところどころに朱が残るのみとなりても荘厳な面影を覗かせる。時には引っかかれたかのようなつめの跡さえ残されていた。

鳥居をくぐりぬければ、階段は既にないという。そこには灯りすら届くことのない宵闇の山奥。ここから社までは少しばかり歩かねばならない。狐狸や鴉、そしてあやかしが多く潜む森の奥を。

わたしはもう一つばかり息をついて、それから鳥居へと踏み出した。

 

しゃらん。

 

またひとつ響いた不可思議な鈴の音。人の子を惑わせる妖しげな響きは、知らない夕焼けの野を回帰させた。

ゆるりと首を振りつつ、鳥居をくぐれば訪れる既視感。今年初めてここへと使わされたはずなのに、ここを知っているような気があるのはどうして。

鳥居の上、小さな銀杏の瞳がわたしを見つめ続けていた。濁った悲しみの浮かぶ瞳は宵闇よりも暗き淵へと吸い込まれてゆくような感覚に陥る。

わたしはこの色を知っている。

 

呆としたわたしに、刹那宵闇は鮮烈な色を灯した。

 

 

暗転。

 

 

 

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