秋香る紅茶を君と

ひとつ、暖かさを包んだ風が窓の隙間から入り込んできた。

それは、哀愁の織り交ざった秋風。

まるで僕のようだと笑みを浮かべる少年。

吹き抜ける風は紅茶の香りを舞い上げて、開いた世界へと飛び出していった。

少年はそれをただ見送った。

秋の香りの紅茶を一口すすりながら。

少年の傍らには誰もいなかった。

少年の傍らに『君』はいなかった。

 

 

秋の香りの紅茶を君と

 

 

やかんの蓋が踊り始めた。

温もりのあるこの部屋で小さな諦めのため息をつく。

君がいなくなってから、一月が流れた。

悲しみは消えず、まだ僕の心に空いた隙間は埋まらない。

秋香るハーブティーをすすると染みる心の傷。

 

君の存在の消えた僕の世界はそれはそれで単調で。

起きて、本読んで、でも心はどこにもなくて。昼食食べて、君宛の手紙を書き連ねて、それでも心は満たされなくて。

はあっ。と今日何度目かのため息をつく。

 

僕の心で淀んだ『後悔』と『想い』。

それらはいつのときでも僕の心に押し寄せていった。

 

あの時、君にこの想いを伝えることができたならば。

僕はこれほど後悔をせずに済んだのでしょうか。

これほどの想いを心に抱えることはなかったのでしょうか。

 

一輪さしにさされたカスミソウの淡い白さを見つめながらそう問うた。

 

それが君の笑いに重なって、小さな雫が花びらを濡らした。

手招きする追憶。

目を瞑れば連れて行かれる思い出の世界。

花冠を被る君が天使のような微笑を浮かべている草原の海。

その瞳はまだ曇っていなくて。

その耳はまだ聞こえていて。

その頬はまだ冷たくなくて。

 

だけれども手を伸ばすと君はとても悲しそうな顔をして首を振る。

手を掴もうとすればすり抜ける君。

そして僕は眠りに落ちてゆく。

ハーブティーから零れ落ちた飴色の雫は僕の手の中でくるくると回った。

反対側に置いた君のティーカップは風に揺られる。

風は静かに嘲笑った。

「君は過去を捨てられない人間なのさ。

だから前に進めない。否、進まない。」

 

沈んだ雰囲気を纏う昼下がりには似合わない眩しい秋空が外に広がっていた。

しゅんしゅんと音を立てるやかんを見つめる。

瞳にくすんだ橙色が映った。

 

そしてまたひとつ、小さな溜息をつく。

想いは。

「そうだよ。僕は、前に進まないんだ。

だって。傍らに君がいないなんて間違いだから。

お願いです。

この戯言を、この想いを、どうかききとげてください」

藍色の闇へと溺れていった。

 

 

かたりと窓が軋んだ。

ふわり。

突然日のさざめきが弾けた。

 

吹き込んできた秋風が僕を抱きしめた。

 

久しぶりというように。

優しく。そっと。

瞑っていた目を開く。

 

先ほどから音を立てるやかん。

温もりのあるテーブルに転がった砂糖つぼ。

白磁のカップ、二つ。

 

そして。

反対側に君はいた。

 

いつも通りの笑みを浮かべて。

いつも通りの瞳の輝きを映し出しながら。

いつも通りのキルトのシュシュを髪留めにしながら。

若干消えかかったその身体で。

その声で。

君は耳もとでささやいた。

 

「ただいま。」

悲しみと幸せと…哀愁。

そんな複雑な笑みを浮かべて消えかけの手を差し伸べてきた。

「ごめん。」

呟きは秋風に飲まれて、消えた。

君の漆黒の髪から秋の香りが漂う。

「ごめんね」

見えない君の顔から見えない雫が落ちてゆく。

「君がいたから私は生きてこれた。

君の声が聞こえていなくても、君の笑顔が見えていなくても、私は感じていたよ。

君の心の言葉を。

そんな君に抱く、この心の思いは叶わないって知っていたけれど。

 

後悔したくないから。

 

君に言うね」

 

そっと息を吸い込んで風になった君は吐息を漏らした。

「君のことがとっても嫌いだったよ

でもそれと同じくらい、いやそれ以上に君のことが好きだった。

本当にありがとう。

そして

ごめんね。」

そして、君は蜜色の紅茶を飛び散らしながら、外へ。

「もう限界なんだ。

これ以上この姿は保っていられないから。

 

君に私の気持ちを伝えれて本当によかった。」

 

カスミソウは。

「待って…」

 

振り向いた君の儚い笑顔は壊れかけていて。

「ねえ、ひとつだけ誓って。

 

盲目の君が見ることのできなかったその世界を風の君は見に行って。

聞こえない君が聞けなかったその世界の音を風の君は聞いてきて。

 

何があっても僕はここにいるからね。

 

後、ひとつだけ僕の戯言を聞いて。

 

叶わない想いだって知っているけれど。

僕も後悔したくないから。

 

君のことが好きだったよ。」

砕け散った。

水色の深い深い闇のような少女は僕の目の前で。

 

消えた。

 

ただ一輪の季節はずれのスターチスを残して。

 

 

それから少年の家には毎年スターチスが届く。

 

少年はいつも同じ言葉を呟き、秋香る紅茶をすする。

その言葉を愛しそうに呟きながら。

 

 

(ねえ、知っている?)

(スターチスの花言葉はね)

(『誠実』に『悪戯心』)

(そして『変わらない想い』と)

(『変わらない誓い』)

(君への想いは)

(いつまでも変わらないよ)

(だから君のその誓いも)

(いつまでも変わりませんように)