Ploof.

ーIf the reason why I am me is you.
If the reason why you are you is me…
 
それは甘酸っぱい春の訪れを告げる午後3時。
カレンダーは4月という真新しい数字をひらり、ひらりとはためかせた。
「理由って何だろうね」
頬杖をつきながら冗談まじりに呟いてみた言葉が始まり。
そっとキャラメルの香ばしいパイをひとつ。
口にしたそれは、呆気なくくずれて。甘い甘い風味だけを残して消えてしまった。
「僕が僕だっていう理由。
例えばキドがキドだっていう理由。」
春風に紛れていたらしい眠気に溺れゆく僕。
そのせいであろうか。
「その理由って何だろう?」
なぜだか口にすることのなかった小さな本音が口から零れた。
 
「カノ」
ふっと呼ばれたその暖かな声に眠気は弾けて、消える。
ひだまり色の花瓶に差された一輪のシザンサスに雫がぽつり。
「紅茶を入れてくれないか?」
 
ほのかに苺の香りの漂う紅茶に砂糖を溶かせば、春の紅茶の出来上がり。
甘いものの嫌いな君に気まぐれに砂糖をひとふり、ふたふり。
「で、なあに?」
小首を傾げて問えば、君はん、ちょっとなと呟いて。
紅茶をひとくち口にして甘い、と一言。
 
「…海を見に行こう」
 
どうして海なのか、何故彼女がそこへ行きたいと言い出したのか 。
ふと、幼い頃の記憶が弾けた。
 
「…いいよ」
「ありがとう」
微笑んだ君に僕はそっと目を細めて。
シザンサスが柔らかな風に揺られてひだまりのぬくもりに溶けていった。
 
**
 
「約束だよ!」
そう誓ったのはこんな春先のことだっただろうか。
交差点のバス停からふたつ、海へと続く線路の見える駅で切符を二枚。
ひらりと舞う、桜の花びら。
小さな電車に揺られながら僕ら、ふたり。
ワインレッドの座席はやはり見慣れたもので。
しゃららん、しゃらん。
音楽プレイヤーから聞こえる洋楽は耳に覚えのある調べ。
余韻をひくような歌を歌うその歌手は誰しもが一度では聞いたことのある名前で。
「『Close to you』だね。」
何気なしに呟くと君は驚いたように返す。
そんな仕草でひとつ鼓動が跳ねる。
「知っているのか?」
「まあ、ね」
「ふうん」と言った君はしばし音楽に耳を傾けていたが、不意に質問してきた。
「『Close to you』って意味知っているか?」
「知らないなぁ…どういう意味なの?」
おどけたように聞き返しても君はぎゅっと手を握ってくるだけで。
「調べろ。」
暖かな君の温度は僕の手をそっと包む。
「えー?」
口を尖らせてみても彼女はうつむいたままで。
でもこんな雰囲気も好きだし、もっともっと続けばいいななんて思うのだ。
 
「次は、次は…」
「ほら、」
 
**

桃色の欠片がまた一枚、波の上を滑ってゆく。
ひらり、ひらり。
ほのかに苺が香る紅茶の甘さはいずこへと。
 
「ねえ、カノ。」
その駅には誰もいなかった。
ただ、サルビアブルーがそこに佇むだけ。
「在るちょっとした話、聞いてくれるかい?」
止まない潮騒が鼓膜を揺らす。
「消えたくないって思う少女の話なんだけどさ、」
しなやかにたゆむ翡翠のような髪。
 
「そう思いながらも消えてしまいそうになる少女の右手には少女がここにいる証明があったらしいんだ。」
さざめく夕日の色は赤く、紅く。
 
「それは赤い赤い瞳に弧を描く柔らかな飴色の髪の少年の左手だったんだって。」
 
つかの間の静寂。
「だからね。」
鈴の音によく似た君の声は、夕焼けに消えて行きそうなほど儚くて。
「これだけははっきりしてるんだ。」
それでいて少し楽しそうに彼女は言う。
 
「さっき、カノはこう言ったよね。
俺が…私が私だっていう理由が何だろうって」
「私にとっては凄く簡単な話だったんだ。」
 
「だって、それはね
カノ…鹿野 修也と隣で笑いあうことだったから。」
サルビアブルーはゆっくりと色を変えてゆく。
 
**
 
瞑っていた瞳を開けば水面に写る弧を描く赤色。
「ごめん。勝手に押し付けて。」
「俺の勝手な自己満足だから。」
 
「でも、カノが俺の隣で笑ってくれるからこそ、私は私だって思えるんだ。」
 
ああ、やっと気づいた。目元に滲んだ雫がぽつり。
それは夕焼け色に染まって。

「…押し付け…だって?自己満足…だって?」
「そんなこと、誰も言ってないよ、キド。」
赤の瞳が色を失う。
「僕が僕だっていう理由は、キド…木戸 つぼみの隣で笑いあうことだ。」
そして華奢な少女をそっと抱き締めて。
水晶のような髪から僅かに香る春の甘さが僕を優しく包んだ。
「ありがとう。」
そう自分を見つけ出した少女の手を強く握った。
もう二度と、理由を見失わないように。
 
**
 
ある海辺に近い街にひとりの少女とひとりの少年がいました。
彼らは涙を浮かべていつもひとり隅っこでうずくまっていました。
少女は『      』から見えないように。
少年は『      』から笑っていると思われるように。
ある日、彼らは自らの瞳に赤い赤い光が宿っていることに気づきました。
少女には自らを見えなくするように。
少年には自らを欺くように。
赤い光にはそんな不思議な力が宿っていました。
しかし、彼らが喜んだのは束の間でした。
 
ある海辺でひとりの少女とひとりの少年は偶然出会いました。
 
同じような思いをしてきたという少女に少年はぽつりとこぼします。
「僕が僕だって分からなくなるときがあるんだ。」
少女もそれに言葉を返します。
「私も、私が私だって分からないよ。」
ひとしきり悩んだ後に少女はぽん、と手を打ちました。
「だったら、私たちぎゅっと互いに手を握って私が私だって。しゅうやがしゅうやだって。しょーめいしようよ!」
「しょーめい?」と聞き返す少年に少女が笑います。
「うん!しょーめい!
そのことがホントだってしめすの」
「しょーめい!いいね」
 
「じゃあ、約束だよ!」
首を大きく振る少年に少女は言います。
 
そして彼らは相手の手を握りしめました。
 
「私はしゅうやがしゅうやだと、」
「僕はつぼみがつぼみだと、」
 
「この温かさに」
「このぬくもりに」
 
ふっと、ふたりのさみしがりやは笑いあいました。

「「約束します」」
 
** **
 
かたり、かたりと揺れる電車に身を任せるといつの間にやら眠りに落ちていたようだった。
隣で音楽を聴く君にありがとうが伝えたくて。
だからそっと髪に口付けを落としてみれば君は照れたように笑った。
 
繋がれた右手と左手はそのままで。
 
 
ーIf the reason why I am me is you
If the reason why you are you is me
 
Please laugh in the close to you forever.
 
(私が私である理由があなたであるならば、)
(あなたがあなたである理由が私であるならば)
(どうかいつまでも貴方のそばで笑いあえますように)