(1) オーヴァチュアは聞こえない

オーヴァチュア…フランス語で開始を意味する。序曲はオーヴァチュアの訳語である。



 くすんだ碧が視界の奥を焼いた。どうも人間は重力というものには抗えないようで、自重にあらがえない身体は、ただただ沈んでゆくしかないようだ。やりきれない気持ちとともに吐き出したエーテルはゆらゆらとあぶくの形をとり

ながら、ひかりの向こうへ遠のいてゆき、代わりに塩辛い水が咥内に流れ込んだ。ああ、痛いな。ちりちりとした痛みを近くしながら、蓮は回らない頭のまま思考する。まだつけられたばかりの傷はまだ塞がっていないというのに。

 海水は体内へとひそやかに侵入する。鼻の奥は白み、侵入する異物を吐き出そうともがけど、泳ぎ方を忘れた自分にはそんな芸当はできない。溺れてゆく自身。視界にうつりこむ、はるか彼方のゆらめく光。空と海の境界線はないだなんていうけれども、きっときっちり透明な膜が張られている。どうして、だれも透明な膜を見つけられないのだろうか。

 不意に。蓮は息を飲んだ、飲みこんだ筈のエーテルは海水で、唯一残しておいた酸素を無駄にしてしまうくらいにそれは圧倒的な光景だった。はくはくと、酸素を失った魚のような姿のまま、蓮はただただその光景を食い入るように見つめるしかなかった。


 視界の向こう側で翳が躍ったのだ、透明な膜でつくられた境界線を曖昧に揺らしながら。大きな影はゆらめき、静止したままだったこの海に流れを連れてきた。大きいと形容しきれない程に、それは怪物じみた大きさだった。勿論、蓮の両手では表現しきれない程には。

 その影の胸びれが意思を持って動くたびに、つられた水の動きが蓮の体をさらう。あれ程に重くてたまらなかった蓮の自重でさえ、それはいとも簡単に重力から引きはがしてくれた。それがいちど身体を旋回させるたびに、蓮の体はさながらゴムボールか何かのように浮かんだり、沈んだりするのだった。

 影はあまりにも大きかった。流動する海水たちに身を任せながら、蓮は食い入るように踊る影を見つめ続けていた。この海域はすっかり暗くなっていて、それはきっとこの巨大な影のせいなのだ。もしかすると、この影はこの海域全体ですら入りきらないのではないだろうか、そう思い始めた頃に、ようやくそれの姿を蓮は認識することができた。


 巨大なクジラだった。優雅に身体を湾曲させながら、それは蓮の頭上を旋回していた。すべすべとした流線型の体は、降り注ぐひかりと海水をはじき、大きな胸びれには、長くいきてきたもののしるしである傷跡が無数に刻まれていた。そのクジラが戯れのように尻尾を振るだけでさえ、おおきな海流が渦のように発生してしまう。この巨大ないきものを前にしたならば、きっと蓮が重しのように感じていた責任も自重も重力でさえも、ひどくちっぽけに思えてしまうのだ。どうしようもなく感じていた息苦しさとか、当てもなくどこかへ逃げ出したいという切実な感情ですら、大きな渦に巻かれて融解していった。

 目が合った。小さないきものである蓮の、星空ですら飲み込んでしまうくらいのくろぐろとした双眸。それから、巨大ないきものである名もなきクジラの、鮮やかな青を内包した、限りなく黒に近い濃碧の双眸が。濃紺に近い双眸の深淵を覗き込んだ蓮は、直感する。ああ、きっとこのクジラは。


このクジラは孤独なのだ。