羽化の理論

 

 

 それにしても、自分とこの男でどうしてこれほどまでに違うのだろうか。視線を落とした泉の瞳には、すっかり眠りこけたレオの姿が映り込む。胎児のように丸まった姿はおさない子供のようで可愛らしいが、節節に滲んだ子供にしてはアンバランスな武骨さが、やけに目を惹いた。骨ばったからだや、すっとした鼻筋。眉間におちる影の深さに、大きな手のひら。眠りほうけている姿ですらかっこいいなんて、とこころの中で悪態をつく。この四年で、恋人はすっかり男のひとになってしまった。おんなじ四年を過ごしたはずのに。とりとめのないことを考える泉をよそに、サイドランプはしたり顔で灯火をゆらしていた。

 朝のひかりにとろけてゆきそうな。ランプのひかりは、膝を抱えた泉の輪郭線をゆっくりと透かした。新雪のようにしろい肩に羽織ったシャツにしわが寄った。あまやかな曲線を描くふくらはぎ、凹凸のないうつくしい指先。ちいさな耳にかけられた銀の髪先が、ゆるるかに垂れおちる。銀のまつげで縁取られた青がゆっくりと瞬き、ふたたび物思いに沈んでゆく。

 

 高校時代。出会った当初のレオはかっこいい、というよりもかわいいというイメージが先立つ人間だった。長く伸ばした髪を、無造作にひとつにまとめて。ふんにゃりとやわらかく笑うものだから、初対面のとき彼を女の子だと誤解するひともいただろう。実のところ、泉もそのうちの一人だった。

 首をかしげる仕草や、泉の袖をかるく引く所作があんまりに愛らしいもので。泉の下から見上げるような視線は、夏の暮れのように澄み切っていたものだから、泉はついつい自分の懐に入れてしまったのだ。つい強請られるままうたをうたい、つい釣られデートに出かけてしまった。そうして、絆されるまま。気づいたころには、泉はすっかりとレオの恋人という枠に収まっていた。自分とほとんどおんなじ目線になったレオの、得意げな顔といったら。この恋人は、意外にも油断ならないのだ。

 丁度、そのころくらいだっただろうか。レオがみるみるうちに変わりだしていったのは。どんどんと背が高くなった。手首のあたりの骨の出っ張りが目立つようになった。柔らかにゆるんだ目元が、鋭さを増してゆく。抱きしめられたとき、男の人だけが持つ胸の厚みに気付く。くちびるを触れ合わせたとき、その瞳に篭もる湿度に、泉はどきりとした。そんな表情、まるで大人の男のひとみたいだ、なんて。子供だ、と思っていた恋人の男のひとの部分を垣間見るたびに、泉のからだはちりちりと熱に侵食されていく。レオと過ごして四年、今なおその熱は泉のからだの奥に広がり続けている。

 

 何の気なしに、レオの手に触れた。節くれだった右手に指先を滑らせると、乾燥したかたい感触だけが帰ってくる。ああ、男のひとの手だなあ。知らず知らずのうちに吐息が漏れ、気の赴くままに指を絡めた。中指、親指、人差し指、そして薬指。皮膚越しに感じる、関節の太さ。指の腹だけはやわく、傷もない。

 まるく整えられた指先に、作曲家としての挟持を知る。不精なくせに、そーやって、ちゃんと楽器に対しては真摯なんだから。込み上げるいとおしさのまま、泉は手の甲にくちびるを落とした。途端、穏やかな寝息を立てていたレオが、ぎゅっと眉のかたちを崩した。泉を見上げる緑が、不服そうに滲む。ほんとうに残念そうなその表情があまりにおかしくて、泉はくつくつと笑ってしまう。狸寝入りをして、恋人からのキスを貰おうだなんて。仕様がない男だ。

 

「キスは、手の甲じゃなくてくちびるにしろよ。セナ」

「あんたにどうこう言われる筋合いはないはずなんだけどぉ……狸寝入りするなんて、あんまりじゃない?」

「なっ……ばれてるとは思わなかった! たまにはセナからしてくれても、って期待していたんだけどな」

「ご愁傷さま。あんたが遠慮ないせいで、いつもくちびるが腫れ上がっちゃって大変なんだからね」

 

 とつとつと会話を交わしながら、それでも絡めた指先を解くことはなく。泉たちの言葉の応酬は続いていた。からからと笑っていた眼前の男は、そうして突然また男のひとの顔になる。

 

「でもセナ、なんだかんだ言いつつも結構キスするの好きだろ? くちびるを離したあとふにゃっとした顔になるし」

 な? と問うように細められた眼差しに情欲が滲んでいた。口端から覗いた舌のいろが一際に視界の奥にしみる。あっ、と思う間もなく、泉は熱に焦がされてしまう。四年間ずっとずっと、泉を捉えては離さない熱。ひとつ、深呼吸をして。やり過ごそうとした泉の口元から、「ずるい」と、男を形容する言葉だけが転がった。聞き返そうとするレオが音をかたどる前に、泉は続きを口にした。

「子供みたいにはしゃぐくせに、時折男のひとみたいな顔をする。そのせいで、ずっとずっと炙られているみたいになる。前はこんなんじゃなかった。前のれおくんだったら、こんな気持ちにはならなかった。……ずるいなぁ、おんなじ四年を過ごしたのに、れおくんばっかり男のひとになっていくんだから」

 その言葉に驚きをひそませたのは、レオの方だった。開いた瞳孔は、天球儀よりもまるい。目を瞬かせたレオは、一瞬の後破顔する。そのわらい方は、あまりに真っ直ぐで眩しいものだから、泉はどうにも目を離せなかった。「あのな」と、レオはやさしい声で言う。

 

「おれが男のひとになったのは、お前があんまりにも綺麗で、あんまりにもうつくしいからだよ。折角だ、セナ。男の子の秘密を教えてやる。男の子が男のひとに羽化するのは、恋をしたときだけさ」

 

 心臓がふるえるような。レオの言葉をゆっくりと反芻するたびに、身を焦がす熱が大きく振れた。男の人になったのが恋をしたときというならば、それは。それはつまり。衝動のまま、呆けたように開かれたくちびるに噛み付いてやった。歯列の端を丹念に舌でなぞり終えてから、待ちぼうけたような様子の片割れの舌と絡ませあう。閉じかけのレオの眼差しの隙間から、挑戦的な緑が覗いた。こんな下らないことで競争だなんて、ばかみたいと。笑おうとして、やめた。いつのときでも、男という生き物はかっこいいくせに、ばかみたいで、可愛くて、どうしようもなく愛おしいのだ。

 

(20180721/羽化の理論/レオいず♀)

▷初のサークル主としてのイベント参戦、修羅場も修羅場の参戦日の朝に書き上げた一作です。今見返してみると、なんというか、凄く、性癖が滲んでいます。正直少し恥ずかしくなるくらいに好きなものが詰め込まれているように思えます。

骨も水も好きですが、手を描写することも大好きです。/2020.08