#1  外待雨(劣等感や閉塞感に溺れてしまうさかなたち)

意味:局地的な、限られた人だけを潤す雨 




(一)

退屈な六時限目は、渚のきらいな数学の答案返却だった。 


大体答えがひとつに決まってしまうものは苦手なのだ。憂鬱な雨の音を脳内から遮断しつつ、渚は下らない思考を始める。Xの二乗とYの三乗を掛け合わせた答えがXの五乗になる。それはある一定の条件がない限り、あり得ることではないし、ひねくれた渚がXの五乗と書き込んでみれば、先生は必ず渚の点数を引き算し始めるのだろう。

手元に置かれた赤インクのチープなペンを弄びながら、呆とした脳内でとりとめのない思考を反芻する渚は、名前順で並べられた机の最後尾、憂いを浮かべる友人を盗み見る。成績優秀な彼女のことだ。きっと些細な計算ミスや書ききれなかった答えについてあれこれ思考を重ねているのだろう。 

「垂水さん」 


気の抜けた炭酸水に良く似た担任の声は、いつだって眠気を誘う。高校一年生の生徒たちに対して、彼は小学生を相手にするかのように喋るのだ。それは、どうしようもなく渚の感情を揺らす。子供と大人との境界線でゆらゆらとたゆたう渚は、ただただ喉元にせり上がる不快感を飲み込むのだった。 


「垂水さん、大丈夫かい?」 

物思いに更けるまま、きらいな数学の答案を受け取れば、渚は少しだけ興味を持って答案に視線を走らせる。担任の返却する解答に、僅かばかりでも面白みを見出したかったのだ。

正答も誤答もほどほどに点在する赤い色で上塗りされた答案の一角、Xの五乗と書かれた答案の上に記された記号は、誤答を示すものだった。 



(二)

気怠い空気を連れる六時限目、最後に呼ばれたのは友人の名前だった。浮かない様子の友人は、六分の恐れと四分の期待をないまぜにしたような足取りで、担任の手のひらに載せられたペーパーを受け取りに行く。「八雲」と少しだけ声音を変えた担任は、嬉々とした表情のまま耳元にそっと耳打ちをする。一転、華やかな表情を浮かべた友人は、口元を緩めながら、ひとときの間瞼を閉じる。それは、誰よりも幸せそうで。


そんな様子を見かけたとき、渚はどうしようもない息苦しさに囚われる。 


例えるならば、水に満たされた、上も下も、右も左も、出入り口を閉ざされた透明な空間の中。水槽ともいえる箱の中に佇む何にも取り柄のない自分が、箱の外で誰にだって褒めやかされる友人をみつめている。傍目から見れば、何にも差異のなさそうな二人なのに、どうしようもなく分厚い硝子が二人を仕切っている。 


もちろん、友人を誇らしく思うことが大半だ。緩やかに笑みを乗せつつ、影でひっそりと努力をする彼女を渚は尊敬している。しかし、こんな時――寂しさや、息苦しさや、そんなマイナスばかりを連れる感情が波のように押し寄せる時――は、そんな密閉された水槽を渚は想起するのだった。 


ちいさく、ほんのちいさく息を吸って、時間を掛けて吐き出す。深く、深く肺呼吸をくりかえしてみれば、密閉された水槽は、六時限目の終わった教室へとかたちを変え、遮る分厚い硝子のイメージは疾うに霧散していた。 



(三)

やるせなさと共に上げた視線は、心配そうに顔を覗き込む友人と交差する。凜という名前の良く似合う友人はにやりと口角を上げて、渚の双眸を見据えた。 

八雲凜という友人は、このクラス内で誰よりも頭脳明晰で、何よりも可能性を見出すことに長けている友人であった。その迷いのない視線は、どうしようもなく哀れに震える渚の心までも暴きだしてしまいそうで、少しだけ怖かったのだ。


「今日、街の外れに新しく出来た本屋にいこうよ」 


彼女の流れるような言葉に、先程のイメージが、更に渚の心に絡み付いてしまう。決められた範囲をはみ出すことなく、きっちり長さのそろった箱。箱を満たした水は、渚に呼吸の方法を忘れさせてしまう。ああ、今日はきっと彼女の前で渚は上手く笑うことができやしない。


だから、そういうとき、渚は担任も友人も知らない「ないしょごと」に縋るしかないのだった。自分を対等に見てくれる自由奔放な彼のことに思いを馳せるだけで、渚の震えるこころは軽くなるのだった。



(四)

校舎の外は六時限目と変わらず雨模様のままだった。憂鬱な気分を抱えたまま、ひとりストライプの柄が印刷された傘を手に取る。つめたい無機質な温度を知覚する身体を抱えて、渚はただ街の外れへ歩き出す。 


街は既に浸水してしまったようだ。視線を緩やかに逸らしてみれば雨どいから不規則に零れ落ちる雨粒は、透明に揺れていた。指先で掬い上げてみれば、それは38℃の体温に融解する。青、蒼。零れ落ちた信号機の色は、アイオライトの色。青い色を揺らす街灯は、ソーダライトの宝石に良く似ている。

ひとつ、ひとつを手遊びのようにものやひと、風景を宝石で例えてゆくことは、昔からの渚の癖だった。


泥を被ったグラウンドは何処かよそよそしくて、湿ったアスファルトの坂道はいつもとは違った表情をみせる。フィルターがかった視界は、渚のしらない世界を映し出していた。 


灰色に霞む街の奥、新品だったスニーカーは既に泥が跳ねてしまった。渚は、息苦しさを抱えたまま、かたちのよい眉をしかめ、それから水族館への道を辿る。雨の日はいつだって閉塞感がこころを満たす。狭い港町の閉塞感は、雨が降ると殊更に増してゆく心持ちに囚われる。ちいさな水槽のなか、目一杯に詰め込まれたさかなの様のようだ。薄ねずみ色のコンクリートに阻まれた坂道を下りれば、既に時は夕刻。点々と灯された鮮明な、蒼色の街灯と、家路を急ぐ会社員。そ知らぬ顔しながら傘を弄ぶ人々は、いつだって無表情だ。足元を満たす水に忌々しさを覚えて、渚はこころない表情を浮かべる街の人々の間をすり抜ける。浸水する街のなかで、渚はまた、とりとめない思考に溺れてゆく。 


街燈は行き所なく揺れ、色とりどりの傘たちの影は軽やかに踊る。