キャストふたりは夜を愛せない

 「大丈夫、僕らはまだ夜に飲み込まれはしないさ」

少年の震えた唇がひとりごとを綴る、それは自らに言い聞かせるかのように。

「ああ、そうだな」

少女の口元から零れた言葉は夜に融けた、それは誰の鼓膜を震わすこともないまま。

 


『夜が怖いなら、僕の部屋においで』



ことのはじまりはいつだって、哀しそうに歪められたカノの顔。そして、何処も見てはいないカラメルの瞳に乱反射する、縋るような深い絶望なのだ。

赤い紅い色は、夜の隙間で存在を示す。キドの好きだったそんな色を持つ舌を出してカノはくつくつと可笑しそうに笑う。幼さの滲んだ笑い声は少しだけ開いた窓の外に溶けて、それから何事もなかったかのように部屋の静寂だけが絶えず揺らめく。闇に溶けた白熱灯は灯らず、何処からともなく吹き込む夜風にからからと音を立てるだけ。喧騒の中に落ちた路地。煌びやかさを模したネオン。それらがこの隙間に取り残されたちいさなちいさな舞台を少しだけ華やかにさせた。

 

キドは少しだけ夢想する。

垂れ幕が引き上げられられるならば、観客のいない舞台が幕を開ける。色褪せたにも関わらず安っぽい照明は舞台の上で立役者の影を鮮やかに映し出す。スポットライトの焦点の先には酷く顔をしかめた自分が呆と立ち尽くす様なのだろうか。

ヒスイの髪をゆらりと垂らし、ぽっかりと虚の空いたような黒色を湛えた目を細める。微かに濡れた唇を少しだけ開いて、ついえた酸素を求める姿は悲劇のヒロインのよう。舞台の幕開け、スポットライトの中で、ヒスイの役者はゆるりと息をつく。

らしくない、とキドは口角を上げて、未だ笑みを貼り付けたままのカノの二つ目を見据えてみせた。

 

 

視点は、合わない。視線は、交わらない。

 

 

ついと逸らされた視線は、何もない空間へと注がれる。伏せ目がちな猫目が憂鬱な色を宿す様はそう、チープな舞台の一場面のよう。行き所のないカノの人差し指の腹は、弄ぶかのようにキドの唇を、うなじを、瞼を、緩やかに撫で去る。子猫のように気まぐれな青年の行動はいつだって予測できない。

鮮烈に脳裏を焦がした馬鹿馬鹿しい夢想は焼き付いたまま、まとわりついて離れないのは、何故なのだろう。ヒスイの役者は演技に没頭する。翻弄されるまま、甘い痺れに侵食されてゆく身体を抱えてキドは思考回路を加速させる。

 

 

キドはちいさく身体を丸めて息をする。それは何かを内側に閉じ込めるかのように、外側の何かから防衛するように。

「大丈夫。怖いなら、僕がそれから逃がしてあげる」

 

造られた甘さが身体を支配してゆく感覚。レモンキャンデーを幾度も舌の上で転がしたあの甘さが身体をほのかに満たしてゆく。人々が何気なく口にする甘い菓子がキドはとても苦手だった。その理由はありふれたもので、それ故に余りにふたりの幼稚な子供心を映し出す鏡のようなものであることをキドは気付いている。

思考回路は緩やかに減速を行う。造られた甘さがもたらした目眩はキドを緩やかに浸水する。

 

何処へも行けない舞台のなかで、毒々しい色合いのライトははもう一人の立役者を映し出す。不気味な色を湛えた猫目を細める少年。カラメルの役者は笑みをひとつふたつと重ねて、嘘をひとつひとつ紛れ込ませてゆく。例えば、この小さな舞台ひとつが何処へでも行けるなんて、錯覚させるような。

 

口元を緩める彼は孕んだ欲を隠そうとはしない。紅く紅く色を宿した猫の目に爛々と夜の色を滲ませる。それなのに、彼はただただ、俯いたキドの輪郭をつとなぞってみせるだけなのだ。赤い、紅い瞳の色。それは夜の隙間で艷やかに存在を示した。

 

「夜は、つめたいね。誰かの心音すらころしてしまいそうな、つめたさだ」

 

浸水した部屋に水滴がゆるやかに波紋を広げるように、幼さの残るカノの掠れた声が静寂を揺らす。脚本に描かれた台詞のような言葉にキドは眉をひそめるものの、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばせないのは、きっと同じような不安を募らせているからに違いない。

ふたりはひっそりと震える唇をすり寄せて、幼いキスを繰り返す。幾度も、幾度も触れるだけのそれをぎこちなく交わしてから、ついと離した唇を互いの指先でなぞる。

 

彼らはもう元には戻れないことを知っている。戻るすべはとっくのとうに失ってしまった。つめたい夜にただただ落下するしかないふたり。それは傍目からすればどうしようもなく愚かなのだろう。ちいさな舞台で踊るふたり、あどけない笑い声ふたつ。今日も彼らは、夜の隙間で歪な愛のかたちを上演する。

 

 

零時になれば必ず針の先が頂点を指すように、世界は飽きもせずに朝と夜を繰り返している。例外はひとつもなく、今日もまた朝は夜を塗りつぶしにやってくる。

 

 

曖昧な意識は急速に浮上する。張り詰めた糸のさき、どことない浮遊感。ぷかぷかり、つらつらり。夜が嫌いなカラメルの役者。夜が過ぎてしまえば、幼い役者はただの猫目の青年のかたちを取る。

カノは透明度に満たされた朝の部屋のなか、茫と佇む。

「……寂しいなあ」

口端から零れたひとりごとは、朝の陽光に融解する。

 

ひとり分の重さに軋むベッドの上、お気に入りの黒のパーカーを床から拾い上げる。埃と、真新しい手のひらのかたちのシワのせいで、古ぼけた様のそれに、カノはどこも見えてはいない視線を投げかける。

つんと鼻をつく自分のものではない残り香を、カノは気にも止めずに羽織る。真っ黒な色合いで身をつつんだカノは、キッチンからの朝御飯の良い匂いにつられて歩き出す。

 

 

この関係の始まりがいつであったか、カノ自身すら不鮮明だ。

 

 

蜘蛛の糸の様な記憶を手繰る。幼い頃からある決まったとき――それは、例えば消えてしまいたいなとキドが笑ったときだとか、彼女が空間に溶けてしまいそうなほどに脆い存在になってしまったときだとか――キドは深夜の寝静まった、楯山家の廊下をひたりひたりと渡ってカノの部屋の扉を叩く。カノが訝しげに扉を開けば、キドはいつだってぎこちなく笑みを広げる。「夜が怖いの、仕方がない子だね」なんて気障に笑えば、カノの手のひらを握りしめて安堵するかのように溜息を零す。それからキドはカノの部屋にしなやかな猫のように忍び込んで、ただただ茫とふたり、寄り添って夜が明けることを待ち望んでいた。

 

あれは確か三日月が白く冴えた色を零していた、夜だった。

互いに言葉を交わすことなく、肩だけを触れ合わせて、ふたりは曖昧な距離を保ったまま微睡みを繰り返していた。

つかず離れずの関係性。それは脆くて、幼いふたりが引いた防衛線。

最初に手を伸ばしたのがどちらだったのかは覚えていない。それでもつめたくなった手のひらと手のひらを重ねて、縋るように、互いに互いを求めて止まなかった。

「ねえ、キド。キド。あいしてる」

熱に浮かされ、吐き出した言葉は遠く彼方、虚ろに響いた。

 

ふたりの関係性は甘い恋人のようなものではない。現にふたりは睦言のような言葉を告げることはない。カノが零した「あいしている」という言葉はただの一過性にすぎず、ふたりは怯えと恐れから逃れるためだけに、夜を共に過ごす。

朝になれば、ふたりはいつも通りに笑い誤魔化す関係を構築する。夜の帳が下りた先、秘め事を繰り返す関係、またはそれに纏わる言葉すらもふたりは口端に乗せはしない。それがふたりの暗黙のルールだった。

 

ダイニングテーブルの上には、真っ白な皿が九枚分。メインに据えられたモーニングディシュはぴったりの焼き上がりのようで、黄金色の焼き目が均等に振られていた。

手元の近くにあったマーマレードを手にとって、カノはちいさなナイフですくいとる。砂糖漬けにされたオレンジは銀色のナイフから零れ落ちる。べったりとしたそれが乗っかったブレッドをひとつ頬張れば、カノはその甘ったるさをひとつひとつ確認するように噛み砕いた。

 

「折角、見た目重視に焼いてみたんだ。もう少し行儀よく食べてはくれないか」

呆れたような声に振り向けば、腕を組んだまましかめっ面な様子のキドが眉を吊り上げてカノの双眸を見据えていた。探るような細められた黒曜石の色の瞳に耐え切れず、カノは少しだけ視線を逸らす。

 

つかの間、人気のないキッチンに落下する静寂。先に口を開いたのはキドだった。

「まあ、立ち話もなんだ。コーヒーはいるか?」

 

目玉焼きひとつと、カップ一杯のコーヒー。彩り合わせに添えられた緑野菜をひとつひとつ小分けにされたプレートは、いかにも美味しそうで、カノの食欲を刺激してやまない。

促されるままに、目玉焼きを小分けに切り刻む。まあるい黄身の上、軽く振られた塩の結晶は朝日を閉じ込めたかのよう。きらきらと指の先から零れて落ちる。


「しょっぱいね、何かあったの?」

「……気に入らなかったか?」


首を振ってみせれば、キドは一言だけ「そうか」と口にした後に、幸せそうに綻んで見せた。

 

行為を重ねた次の朝には、決まっていつもよりも工夫の凝らされた朝御飯がダイニングテーブルに並べられる。調味料にはナツメグを一振り、隠し味にはチョコレート。十二分の手間をかけて、キドはたったひとり分だけのプレートを作り上げる。

なかでも、コーヒーは特別だ。鍵つき戸棚から、キドが大事なときだけに使うコーヒー豆を二人分掬いだしていることをカノは知っている。アンティーク調のコーヒーミルで丹念に挽いたコーヒーは、白磁のカップのなかに澄まし顔で満たされている。

 

コーヒーカップに口端をあわせて、ふたり。緩やかに流れ去る朝の時間に身体を浸してみると、それはぬるま湯のように身体とぴったり同調する。

 

 

「夜は深海によく似ていると思うんだ。底がないんじゃないかって思うんだ。沈んでしまえばどこまでだって沈んでいってしまう、そんな気がする。」

 

 

それはきっと、曖昧な関係性を断ち切りたいこころの無意識な言葉だったのだろう。こころの奥から零れる、どうしようもない本音。


「どうしたの、キド。いきなりさ」

「本当はもう、分かってんだろう。お前も。こんな関係じゃあ駄目だってことくらい」


鮮明な感情がキドの双眸に強く滲む、飄々と笑うカノをキドはきつい眼光と共に睨みつける。彼女の手に掛かると、カラメルの役者は臆病な青年へと姿を変える。だから彼女には適わない。


「……知ってたよ、幼馴染なんだから。キドが夜が嫌いなことも、僕を好いていることも、全部、全部」

兄妹という言葉は口にはしない。言葉にした瞬間にふたりの間に完全な溝が隔たれてしまうことを、カノは知っている。


「ああ、そうだ。俺はカノが好きさ。でもお前はそれを知った上でこの関係を継続させた、それどころか夜という言葉で互いを縛ってみせた。それは一体どうしてだ?」


カノは可笑しそうにくつくつと笑う、笑う。それは狂ってしまった道化師のように。キドはどこまでもキドだ。臆病で、自らの手のひらの下から抜け出すことのできない可哀想な女の子。


「だったらキドは、ここまで構築した関係を失ってしまってもいいだね?ああ、いつまで経ってもキドは夜にひとり怯えて暮らす女の子のままさ」



少しだけ寂しいな、なんて笑った彼の顔は忘れることができないのは何故なのだろう。思考をめぐらせたところで、既に遠く彼方へと放ってしまった感情はつめたい殻の中で、ひっそりと息をするだけだ。


ちいさな呼吸音は、キドの意識をゆるやかに浮上させる。やるせない倦怠感と抗いがたい眠気で満ちた身体を丸めて、窓の外から落下する月明かりに瞼を開いてみせる。ああ、今日も夜はやってくる。決まりごとのように回転する地球は相も変わらず臆病な自分を乗せていて、飽きもせずに夜を連れてくる。サイクル通りにつつがなく進む様にキドはゆるりと安堵の溜息をつく。今日も、世界は何も変わりやしない。きっと明日も、明後日も変わることはないのだろう。

この生活も、やるせなさも、思い出すことのできない感情も、体温も、全部。



絡められた指先の37℃の体温は子供体温のまま、今日もふたりは歪な愛を上演する。

 

▷A cup of企画参加作品。「そして彼等は歪な愛を上演する」という話をもとに書き上げたものです。カノさんキドさんには幸せになってほしいとよく思います。/2017.12