0. 水槽台

 

 

月は鳴る。からりころりと夜を転がして、青く冴えた色を零しながら。

 

それはどこか光の落とされない水槽のなかを想起させた。真っ黒に塗りつぶされた空間の隅、ただただえら呼吸を繰り返す深海魚。反面、色褪せたさかなは生命活動を停止することなく、光の落下する水槽のなかをまあるく絶え間なく回遊する。目蓋を閉じればぽっかりと浮かび上がる光景は、さながら泡沫のようだ。手中にすることは叶わず、手のひらの届かない彼方へと漂う、そんな幻のようなもの。

 

渚は鮮明に覚えている。あの街で起こったささやかな、魔法のような日々を。

 

針の音が落下する深夜零時の部屋のなか、ランプシェードのまあるい灯りは波のように揺れて、濃淡はっきりと部屋の主の影を映し出す。夢うつつな様子の渚は片手で万年筆を回しながら、ゆるやかに目蓋を開く。微かに覗くは冴えた黒曜石の色の双眸。空白の時間を潜り抜けた後、うつくしい双眸は、窓越しに映る地球唯一の衛星を見つめていた。

薄氷のような硝子に手を重ねてみれば、ずうっと昔に感知した懐かしさとともに、夜の指先に似たつめたさが渚の身体を通り抜けた。

あお、青、蒼い色。渚の身につけるものは、青い色ばかりだ。水玉模様のペンケースに、アリスブルーのタートルネック。大学への通学鞄は深みを連れる群青のもの。乱雑に散らばったバインダーは冷めたマジョリカブルー。その理由はきっと、窓に触れたときの懐かしさと同じもの。

 

渚は鮮明に覚えている。忘れることができぬよう、こころの深い内に仕舞っている記憶を。窓に触れたときに通り抜けた懐かしさの訳を、青色を身にまとう訳を。モーニングブレッドを並べる正方形の皿に良く似た、まっしろな月が光の落とされない水槽を想起させた訳を。

自らを深海魚のようだと笑っていた、少年のことを。




海神(わだつみ)と微睡むは、真昼の水槽