(八)ラプソディーは眠らない・前半

ラプソディー…叙事的、英雄的、民族的な色合いを持つ、自由な器楽曲。狂詩曲。


「ねえ、覚えていないの?幼い頃、話してくれたでしょ、海に揺蕩う自分自身とクジラの話」

 眉をしかめた。確かに、この頃最近、蓮はクジラとともに、海の底に沈殿してゆく夢を繰り返し見ている。しかしながら、果たして自分はその話を凛に対して話しただろうか。どうにも記憶がない。もしかすると、熱に浮かされていたせいで、蓮の記憶からは飛んでしまっているのかもしれない。

「確かに、最近クジラと共に海に沈んでゆく夢を見るな。孤独そうな目をしたクジラと、視線が交錯し合うっていう夢」

 最近見た夢について詳しく語る。柘榴色のちいさな双眸、クジラの大きな図体。最後まで、耳を傾けてくれた凛は微かにかぶり振った。

「違うの、それはきっと違う。熱に浮かされていた幼い蓮は、海に揺られているって言っていた。海の中は、縛りがなくて自由だって」

 ゆっくりと、最近見た夢を思い出す。自重に縛られた自分は、泳ぎ方を知らない。息を吐いて、酸素を取り込もうと足掻くが、上手くいかない。凛の語る、どこまでも開放的で自由なイメージとは正反対だ。


「海の中は自由で、加えて、流れのはやい海流があるんだって。海流に乗ってきたクジラを、蓮はいつも呼んでいた」

「呼んでいた?クジラに名前があったのか?」

「違う。蓮は、自分の弾いたピアノの音がクジラを呼んでいたって言っていたから。きっとそのクジラに名前はなかった」

 凛が語る夢の話は、蓮には全く記憶のないものばかりだった。泳ぎ方を知らないのに、たゆたい方は知っている自分。自重に足を引っ張られることなく、息を衝く自分。ほんとうに、そんな自分がいたのだろうか。

「けれども、ピアノの音でクジラを呼んだって一体どういうことなんだろう」

 多分だけど、と凛はひと呼吸を入れる。この昔馴染みは、やはりいつでも冷静沈着なままだ。少しだけ語尾を不安げに揺らしながら、凛は続きを口にする。

「ピアノの音の周波数が、あのクジラの声の周波数と合致したんじゃないかな。仲間とは異なる周波数をもつ、52ヘルツのクジラ。同じ周波数をもつものに身を寄せたくなったのかもしれない」


 想像をしてみる。健康体であるにもかかわらず、だれともコミュニケーションが取れない。だれにも理解されない孤独なクジラ。大海原を単体で回遊している時に、クジラは同調の音波を耳にする。もしも自分だったら、迷わずその場所へ向かうだろう。自分のことを認めて理解してくれる、仲間が現れたと信じて。

「あの頃の蓮は愉しそうだったなあ。熱を出した時にしかその夢を見なかったから、熱を出す日を待ち望んでいた」

「全く覚えていない、何故だろう?どこかで何かがあったのか」

 蓮がひとりごちる言葉を、すくいあげるように凛は繋げた。

「三年前の、コンクール」

 ぽつりと、単語だけを凛は零した。あのコンクールを今でも引きずり続けている蓮への配慮だろう。連にとってはその単語と単語だけで、線が結ばれる。コンクールのことを思い出すには十分だった。


 黒鍵ばかりと戯れる、ショパンの練習曲。ホールに響き渡る、白鍵らしい基礎の音。あのコンクール会場に、家族は勿論昔馴染みである凛も出席していた。彼女にとって、汚れた蓮のエチュードはどう聞こえたのだろうか。これからの行先に疑いを持ってしまったからこそ、音は黒ずんで汚れてしまった。

「あのコンクールの会場から飛び出してすぐに、蓮は高熱を出して倒れたの」

 覚えている?と小声で問われた。曖昧な記憶の裏、確かにそんな事象があったかもしれない。あまりにも「黒鍵」の失敗の印象が強すぎて、今の今まで忘れてしまっていたけれども。


「熱に浮かされながら、繰り返していた。声が聞こえないって。いつも聞こえていたくじらの声が聞こえないって。錆がかった、奇妙な、けれどもどこかうつくしいクジラの声が聞こえないんだって」

 奇妙な、うつくしい歌声。蓮は、数週間前に「くじら」の声から感じた違和感の正体をようやく掴む。「くじら」の歌声を聞く前に、蓮は確かに耳にしていた。「くじら」と良く似たー錆がかった音を。



9.ラプソディーは眠らない・後半