乗るはずだった汽車が出る頃

 名前を呼ばれた、そんな気がしてレオは目を覚ました。白、しろの部屋。いやに静かで、物が整理された部屋だった。そこにはやはりレオの名を呼ぶ人は居なくて、先程のはただの気のせいだとかぶり振る。静かに思えるのは、溢れているべき音楽が一粒も転がっていないからで、物がきちんとあるべき場所に収まっているのは、部屋の主がどうしようもなく息詰まっているときに違いない。と、存外客観的に自分の部屋を見渡した。

 例えるなら、無味無臭。そんな人の生活している気配がひとかけらもない部屋だった。


 それも当たり前かもしれない、とレオはぼんやりと思う。何しろ、この部屋に帰ってきたのは、ちょうど一ヶ月振りくらいだったから。足元に放り出された雑味な色合いのトランクケースはすでに空っぽで、異国特有の甘い残り香を連れている。チケットホルダーからは五月最終の夜行便の券が覗いている。帰宅してすぐに回し始めた洗濯機の稼働音が聞こえて、まだベッドに転がってからそう時間が経たないことを知った。一ヶ月前に置いていった携帯電話は相変わらず机に放置されたままで、手を伸ばそうとして、やめた。ナルは近況の状況を伝えて来てくれているのだろうし、リッツは日常の写真を送ってきてくれているのだろう。セナは、とレオは一人の友人のことを思う。セナは、何も送ってこないだろう。そういう男であることを、レオは良く知っていた。


 薄暗い部屋の隅で、出しっ放しの制服が吊り下げられていた。幾度も袖を通そうとして、幾度もえずいて、幾度もやめた制服だった。未だ下ろしていない緑色のネクタイが、一際目を引く。三年生、最高学年だけが纏うことをゆるされる色。無味無臭な白の部屋の中では、その色はあまりに眩しくて鬱陶しかった。二年前、赤色のネクタイを締めていた自分が、あの色に焦がれていたことを思い出す。


 ねえ、れおくん。三年生の俺たちもこのくらいの時期になったら。目まぐるしい生活にも慣れて、あのネクタイを纏うことにも慣れてくるんだろうね。

 驟雨。折りたたみ傘の中、ふたり。ふざけ合いながら横断歩道を横切る三年生を見かけて、泉は確かそう零していた。その横顔に、レオと同じような憧憬を火照らせていたことを覚えていた。一年生の六月、所属していたユニットは順調だったとは言えなかったし、自分たちも胸を張ってアイドルだと言える程の実力はなかった。それでも、この星の中でいちばんうつくしい音を聴いていたと断言できる、あまりに鮮やかな六月だった。未来の全てを愛していた、最高純度の青春のひと月だった。

 それで、ね。

 濡れ落ちた歩道は、街灯の灯りをぼんやりと映しこんでいる。泉はそこで言葉を切って、それからレオを見た。鮮明なコペンハーゲンの青色の双眸に、朧げな自分の姿が反射する。雨に霞むことのないその双眸のうつくしさに、レオは息を詰めた。それでね、れおくん。ゆっくり唇から溢れたその音のつづきは、あの日のレオの鼓膜を震わせて、今もからだ中の細胞に焼き付けられている。


 回顧は途切れた。行かなければ、とレオはおもむろに制服を掴んだ。きっと、きっと、これが最後の機会だ。震えている手で、ゆっくりとシャツのボタンを外す。クローゼットの奥から、愛用していた青いベストを取り出してベッドの上に放った。そうして、定まらない指先で、緑色のネクタイを手に取った。三年生、最高学年だけが纏うことを許された、アイドルにいちばん近い色。そう例えたのは、あの日の泉だった。夢ノ咲学園の紋章が縫われた部分をなぞって、何度もあの日の泉の言葉を思い返した。


 それでね、このままユニットの中で地道に頑張っていったら、アイドルにいちばん近い緑色のネクタイを、あんたと一緒に纏うことになるんだろうね。そうして、四月のときよりも少しだけ馴染んだ制服を着こなして、さっきのあいつらみたいにふざけ合うんだ。


 まっさかさまに。憧れだったはずの緑色のそれは、床下に落ちた。きっと、あの日を生きていた二人は、その未来が来ることをつゆひとつも疑わずに信じていたのだ。四月にのりのきいた制服を身に纏い、五月に目まぐるしい日常生活を過ごし、六月に二人揃っておんなじネクタイを締めて過ごすことを。そう思うと、あまりに今の自分が不甲斐なくて、痛々しくて、嫌いで仕方がなかった。唇をきつく噛み締めていると、にがい鉄の味がした。


 午前零時の汽笛が鳴った。五月は疾うに去りゆき、あの日、おんなじ傘下でおんなじ夢を見た男のいない六月が始まろうとしていた。



(20180531/乗るはずだった汽車が出る頃/レオ)