この想いを自覚したのはきっと。
時雨で滲んだ視界のその先に
そっと目を瞑った。こうすれば俺の瞳が赤い色を湛えていることが分かる人はいないだろう。
ああ、でもきっと君ならわかってしまうのだろうか。
ふわりと揺れる翡翠色の髪。鋭い目つきに浮かぶ優しさ。甘く揺蕩う少女の香り。
そんな君ならわかってしまうのだろうか。今さみしいと思っていること。今泣きたいと思っていること。
雨音に紛れて聞こえてくるだれかの思い。
「今日の晩御飯は何にしようか。あの子は何が好きだったかしら。」
「一緒に帰ろう。雨が降ってきたから。」
ぱたぱたと駆けてゆく少年と少女。水たまりがぴしゃりと跳ねた。
ふわりと笑った。なんて暖かく優しい言葉たちなんだろう。
ぽつ、ぽつと降りゆく雨粒は新緑のツナギにシミを散らす。
柔らかな黒髪はくっきりとした輪郭を覆う。
ずいぶんと寂しがり屋になったものだ。
隣に誰かがいないだけでこんなにも泣きたいと思ってしまうのだから。
「おはよう」という誰かの優しい言葉で一日が始まって、「ただいま」って笑って「おやすみなさい」という優しい言葉で一日が終わる日々。
いつの間にかこの温かいサイクルに馴染んでしまったから、こんな秋の冷たい時雨は身にしみてしまうのだろうか。
ぽつぽつと濡れてゆくアスファルトにしゃがみこむ。
さくり。落ち葉の砕ける音とだれかの思い。
「ああ、何処へ行ったのかい?」
「帰る場所。帰る家。ああまた今日も探さなきゃ。」
きゅーんという鳴き声。ああ、これは子犬の思いなのだろうか。
抱き上げて囁いた。「ほら、見てごらん。君にはあるじゃないか?帰る場所。帰る家が。」
濡れたその体から温い体温が伝わってきてひとつ、ため息をついた。
ふるふると濡れた鼻面を右手に押し付けて子犬はきゃんと鳴いた。
そっと手からすり抜けて子犬は街の雑踏へと消えていった。
ぽつぽつと頬を打つ雨は止まない。
確かに彼はこう思ったのだった。「君には帰る場所。帰る家がないのかい?」と。
ないわけじゃないんだ、とそっと呟く。
ただこの冷たい雨に濡れた体で暖かなあの場所へと帰っていいのだろうかと不安に思ったのだ。
寂しい、泣きたいと思った暖かさには、優しい君には不釣り合いな思いを抱えて帰っていいものか。
その思いを抱えて優しい仲間たちに「ただいま」と心から言えるだろうかと。
不意に雨が止んだ。
そっと目を開いた。蒼い傘を片手に笑う君の顔が見えた。
「ああ、よかった。こんなところにいたんだ。
帰りが遅いから探しに来たんだ。」
ふっと微笑む君に笑い返したくて、でもどうしても嗚咽しか溢れてこなくて。
しゃがんだ君はくしゃりと髪をかき回した。
「大丈夫。どんなんなときであっても優しい。みんなを包む暖かさもある。
どうしても寂しくてどうしても泣きたくなったなら俺たちに言うんだ。
一人で溜め込むな、バカ。」
笑って手を差し伸べた君の泣き顔が不意に滲んだ。
優しい少年は暖かな少女の前で泣き崩れた。
「時雨」
1 秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨。《季 冬》「天地(あめつち)の間にほろと―かな/虚子」
2 涙ぐむこと。涙を落とすこと。また、その涙。
「十月にもなりぬれば、中宮の御袖の―もながめがちにて過ぐさせ給ふ」〈栄花・岩蔭〉
(そして俺たちはふわりと笑んで)
(温かい家路へ急ぐんだ)
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