ミューズは朝の色をしていた

 

 

 ぬるい温度の風が、ゆっくりと夜の底を這うようにして通り抜けていった。じきに、朝が来る。学園を卒業して三度目の夏の朝が、レオが心底愛おしんでいる泉のいる夏の朝が。

 

 今年は、ひどく暑い夏だという。フィレンツェを往復することの多い泉とレオにとっては、すっかり気が滅入るような熱気と湿度だった。

 国外との出入りが頻繁になり気付いたのだが。この国の暑さというのはどうやら類がないほどに異常であるらしい。カイロ在住の陽気な友人と飲みに出かけた際、「撮影ロケで飛んだときの東京の暑さに、自慢の髪がすっかり焦げてしまうかと思ったよ」と愚痴をこぼされたことを、レオはよく思い出す。それでも、レオは夏のことを結構気に入っていた。

 

 そんなレオでさえ舌打ちしたくなるような暑さなのだ。まして、泉にとってはこたえるものであるのは疑いようがない。空港に到着したときの泉の様子がすこしおかしかったので、ついでついでとレオは泉の家まで送ることにしたのだ。そのまま上がりこんで、寝食までも共にしてしまったのは、泉がフィレンツェの駆け出しモデルだった頃から変わりはしない。

 

 ともあれ、泉の調子がおかしいことに不安を駆られたのは仕方がないことだろう。一週間後は久方ぶりのKnightsの日本公演であるし、なんたってレオにとって仕事の面でも生活面でもかけがえのない相棒なのである。

 人生のすべてを賭けることになろうと、レオは構わない。泉がレオの見えるところで、お月さまみたいに笑っていてくれるならば! しかし、レオの人生すべてを泉に賭けてしまうことを、泉は快く思っていないこともまた、レオはきちんと分かるようになっていた。そのくらいのことが理解できるくらいの時間を、共に過ごしてきた自負があるからだ。

 

 

 つ、と思い立ったようにして視線を落とし、そのままうすく寝息を立てている泉の顔を覗き込んだ。眠りにつく前からつけっぱなしにしておいた25℃のエアコンに、ゆるゆると億劫そうに回転するプロペラファン。疲労の色が少しゆるんだひたいと、つきの色を乗せた睫毛。ぬるい温度のなかで、レオの唯一無二はこんこんと眠り込んでいる。

 

 この男の芯のつよさとしなやかさから来る、姿とこころの揺るぎのないうつくしさは、出会った頃から変わることがない。きっと世の中に不変なものがあるとしたら、それはありきたりな日常に込められた愛とかいうものとこの男のうつくしさに違いない、と思える程に。

 

 そのくらいに、レオはこの気高い青年のうつくしさに惚れ込んでいる。だからこそ、レオは何度だって「あいしているよ」の言葉を伝えているのに、泉はまだその意味を一から十まで分かってはくれないのだ。レオが愛してやまないこの男の唯一の欠点は、わからず屋であんぽんたんなところだ。

 このことを口に出すと、きっと眉を吊り上げて怒ることが目に見えているので、あまり言いはしないけれども。眠っている間に、こころの中で言う程度なら許してくれると思うのだけれど。そうだろう? とレオはこころの中で泉に問いかけてみる。レオの口説き文句も悪口も素知らぬ顔で、幼い子供みたいなあどけなさをまなじりに潜ませて、彼は眠っている。

 

 

 朝のひかりが、夏特有の彩度をつれたまま寝室を浸し始めていた。夜の東京を映し出していた街灯たちは、すっかりしおらしくなってしまった。レオの好きな夏の朝が、このマンションの一室にも打ち寄せていた。もう暫くすれば、昨夜くたくたになりながらも設定したアラームが急き立てるような音を立てて、泉を起こすに違いない。先程、アラームの時刻を確認したからこれは間違いない。

 ついでに、泉がアラームにと『セナの目覚めがめちゃくちゃ悪いの歌』を採用していることも、既に確認済みだ。これは春に、フィレンツェで生み出した秘密の名曲である。毎朝この変ホ短調の音で彩られた陰鬱な曲で起床している泉のことを考えると、うれしいような、おかしいような、心臓がむずむずするような感情で満たされる。

 ああ、早く! この感情を音にしなければ! 

 サイドテーブルに放り投げられた譜面たちのなかから、レオの頭のなかに流れる音達を書き出せるだけのスペースの残るものを慌てて探す。ああ、この場に譜面を取ってくれる誰かいたら! そう思い四方八方に目を走らせるが、生憎この場には眠りこけたレオのインスピレーションの源泉しかいない。短い眉をぎゅっと寄せて、稀代の作曲家は白紙の五線譜を引っ掴んだ。

 

 

 幾週も風を切るようにしてまわるプロペラの音だけが、やけに耳障りに聞こえるようになった。その雑音に気付いてしまった途端に、レオの耳はあらゆる音を掴んでしまうようになった。運送トラックがマンホールを乗り越える際のかたい温度の音、木陰で掻き立て始める蝉たちのがなり声。地下鉄に向かうサラリーマンたちのかわいたざわめき、心拍音みたく規則的に鳴く信号機の音。ピピピ、と泉のスマートフォンから鳴り出すレオの稀代の名曲すらも、今は鬱陶しくて仕方ない。

 掛けていたタイマーも切れてしまったようだ、少し生温いとはいえ快適な環境を提供していた冷気がぱったりと止んでいる。ぬるま湯のような室温に浸っていると、かきあげた髪の下のひたいに汗が滲んだ。人さし指に引っ掛けた愛用のボールペンが、夏の湿度に染まってゆく。

 

 ああ、無理だ! とレオは降参するように手を挙げて、ぱたんとシングルベッドに倒れ込む。新しく加わった一人分の重さに驚いたかのようにシーツが跳ねるが、構いはしない。ああ、無理だ! とレオは繰り返しつぶやいた。先程までとめどなく溢れていた音の羅列が、二段分を残して書き出せなくなってしまった。

 がるるる、と名の通り獅子のような唸り声で泉のスマートフォンに威嚇してみるが、枯れてしまったインスピレーションは元には戻らない。このままでは世界の損失だ! と叫ぶ哀れな作曲家の独り言は、誰の耳に届くこともなく、東京のまだすこし眠たげな朝にとろけていった。

 

「ふんだ! あれもこれも全部セナのせいだぞ」

 レオは、聞こえないくらいの小さな声で呟き、何年かぶりに責任のすべてを世界でいちばんうつくしい男のせいにすることにした。高校時代からの癖で、ついついレオは責任の多くを相棒のせいにしていたのだが、その結果泉はあらゆることを本当に自分のせいだと思いこんでしまうようになった。最近では反省して、このフレーズを二度と用いないとまで言ったのだが。そうだ、こんなじっとりと暑い夏の朝に、まだ起きやしない泉がいけないのだ。

 

 夏という季節のことをレオは気に入ってはいるが、それはいつだってレオの側で泉が笑ってくれているからだ。泉が笑ってくれない夏の朝なんて、カラメルのないプリンと同じくらい意味のないものなのだから!

 

「なぁ〜、起きろよセナ」

 下唇を噛み締めたまま、隣で背を丸めて眠る泉の頬をそっと手の甲で撫でてみる。少し身じろぎをしたので、期待を寄せてみるが、目覚める気配はない。すっかりアラームは鳴り止んでおり、東京の街のかすかなざわめきと泉の吐息だけが、寝室を満たしていた。

 

 なめらかな陶器のような肌は、すこしひんやりしていて心地よい。呼吸を繰り返すたびに浮き沈みをくりかえす、しろい胸。寝間着から覗く鎖骨のかたさが醸し出す色気に、すこしだけどきりとする。かみさまがひとすくいずつ引き出したようにしか思えないような透度を宿した髪先は、惜しげもなくシーツの上に広がっている。かたちのよい耳は、すっかりと枕に沈んでしまって見えないのが、どうにも焦れったくて仕方がなかった。

 やわらかな色彩の早朝のひかりが、泉の瞼のうえを滑ってゆく。目覚めない泉の姿は、カイロ博物館でみたムーサの彫刻を思い出させた。ああ、そういえばカイロの友人はこうも言っていたか。地中海を挟んで向こう側の国では、レオにとっての泉のことをこう言うのだと。

 

 

「起きてよ、おれのミューズ」

 

 

 レオにとって、あらゆる面でかけがえのない相棒。人生のすべてを賭けてしまおうと思った男。レオにとってのインスピレーションの源泉。レオの唯一無二。誰よりもうつくしくて、気高いレオの男。稀代の作曲家とうたわれるレオの、霊感のすべて。「あいしているよ」の言葉の代わりに、うたうようにして呼びかけた言葉に、レオのミューズは眠たげに睫毛を震わせて、ゆっくりとその瞳をのぞかせた。

 

 ゆめをみているかのようにうつくしい、その青。

 

 誰も知らない静謐な湖の湖面のようなその色に、彩光が踊る。そのさまは、どんな既存の宝石にだってなぞらえられないだろうと、レオは何度も思う。暑さに眉をひそめる眼差しも、ライブ中の激情にかられたはげしい色をした二つ目も、レオが愛してやまないものだが、特にこの、寝起きのときの泉の瞳は、世界中のどんなものよりも神聖なもののようで、一等好きだった。

 

 そんな泉の瞳が、レオに焦点を合わせた。夏の朝に相応しい温度の青のなかに映り込んだ芸術家の顔は、間が抜けていて、自分のことながら笑えてしまう。その笑い声にすっかり目が覚めたらしい泉は、首を傾げながら「今何時?」と問う。どうやら今日の泉は目覚めが良いらしい。すっかり調子の戻ったレオの脳内では、先程詰まっていたことが嘘のように、残り二行を埋める音が当たり前のように並んでいた。この曲のタイトルは、『セナの目覚めがめちゃくちゃ悪いの歌 その2』にしようと考えていたレオは、ううんと困ったように唸る。泉が起きてくれたことは大変喜ばしいことだが、いかんせんレオは言葉に関するセンスはまるきりないのだった。

 

 取り急ぎ「七時半だよ」と耳元で教えてやると、ちょっと寝すぎたねぇ、と几帳面な男は言葉を零した。なんで起こしてくれなかったの? と責めるような表情にレオは流石に突っ込みを入れてしまいたくなった。アラームが鳴っても、レオが起こそうとしてもこの男は起きなかったのだから。

 でもまぁ、最初に。つんと尖がる泉のかたちのいい唇が、ゆっくりと形を崩した。レオだけをみている眼差しがやさしく緩んで、泉はからりと笑う。

 

「おはよう、れおくん」

 

 

 東京の朝は、すっかり夏の彩度と湿度を取り戻していた。登校中の小学生たちは、サッカーボールを蹴りながらたわむれている。照り返すようなアスファルトの熱。カンバス一面に塗り込んだかのような眩い青を、飛行機雲が一筋の線を引いてゆく。そんな東京の一画に位置するマンションの一室。産み落とされたばかりの稀代の名曲に対し、未だタイトルを見いだせないレオが頭を抱えていた。

 

「『セナが朝起きなくてもやもやしたけど起きたら綺麗だったの歌』? いや長いな! もっと端的に……『おれのミューズって呼ばれて目覚めるセナの歌』! うーん、なんだか違うな……ミューズって言葉のチョイスはいいんだけれど。じゃあ『セナがおはようって言ってくれた歌』とかどうだろう? あっ! でも昔、同じようなタイトルで曲を作ってたしなあ……」

「『セナがおはようって言ってくれた歌』は、もう既に9曲あるよぉ。ねぇ、あんたって本当にメロディラインは天才的なのに、言葉のセンスは壊滅的だよね……お母さんのお腹のなかに落っことしてきちゃったのかなんなのか……」

「あっ、セナだセナ! セナが考えてよこの曲のタイトル。ミューズって言葉を使って、なんかお洒落な感じでさ! ちなみにおれの言葉のセンスは全部るかたんに渡してきたからいいの! 曲のおれと作詞のるかたんって感じで!」

「はぁ? 俺にまためんどくさいもの渡さないでよ…… 売れっ子モデルにして世界中を席巻させるアイドルの俺には余暇なんてないんだから……」

 

「でもさ、セナはおれの曲もおれのことも好きだろ?」とからかい混じりに問えば、「チョーうざい」とお決まりの文句を返しながらも、反論はしなかった。ふんふん、と即興の音楽を口ずさんでいると、悩むぞぶりを見せて、泉はシャツのボタンを留める手を休ませた。思いつきで言ったのにも関わらず、案外真剣に考えてくれているようだった。むずかしげに眉を寄せていた泉の頬に朝のいろが滲んだ。

一拍おいた後、「そうだねぇ」と泉は笑って、後に世界中を席巻する『セナが朝起きなくてもやもやしたけど起きたら綺麗だったの歌』に新しい名前を付ける。

 

 

世界でいちばんうつくしい男がうたうようにして告げた、詩の一節のようなその名は。

 

 

 

(20200819/ミューズは朝の色をしていた/レオいず)

 

▷月永の曲達は世に出す曲と世には出さない秘密の曲の二つに区分されているといいな、と感じています。世に出さない方はKnightsの皆が茶の間で話題にしたり歌っていたりしたらと思うと、想像が膨らみます。たまに月組のラジオ番組で流れてくれたりしたらいいな。/2020.08