紅葉はなび

―序章―          Maple  

                                                                       

パステルカラーはいつも優しい。
全てのものを包みこんでしまう様な優しげな色。
そんな名前を持つ君に

 

僕は、淡い恋心を抱きました。

 

僕の心に芽生えた「君」は
いつしか葉を育て、沢山の蕾をつけました。
君を見かける度に蕾が一つずつ増えました。

だけど、いつまで待っても花は咲きませんでした。
花が咲こうとした時


それが決して叶わない恋心であることに気づきました。


これは初夏の季節に出会った「僕」と「君」の物語…

 

 

1.


はらりと一枚、手書きの楽譜が風の手で青空へと舞い上がった。
そして窓から楽譜を目に追っていると、茶に近い黒の髪の少女とその手に抱えられた原稿だった…

君が久しぶりに公園に行く様子を窓から見て、僕はあわてて自転車に乗った。
外で待ち受けていたのは驚異的な暑さ。
ふわりと蒸し暑い風が僕の黒髪を緩やかに撫でた。
空には真っ白な入道雲がいくつも浮かんでいる。
かたりと括りつけたギターがかすかに動いた。


(後で縛りなおさなきゃな)
そう思いながら自転車で君を追いかける。
珍しく自転車に乗っている君の自転車かごの中で揺れる原稿が、なぜか橙色に映った。
爽やかに二台の自転車は坂を下る。

自転車は大きな交差点に差し掛かっていた。
二つ目の信号を通り過ぎ、君は右の角をゆっくりと曲がる。


「最近動いていなかったからかな」
落ちる寸前のギターを眺め、ふうっと溜息をついた僕は前を向いた。
目の前で赤いランプが点滅している。
(ああ…)
彼女を追いかけていた僕は停止せざるおえなかった。
最後の点滅を終えた信号は嘲るように赤い光を放つ。
動くギターを縛りつけながら落ちてくる汗を拭う。
そして僕は赤になった信号機を恨めしそうに睨んだ。
君はたぶんあの公園へと向かうんだろう。
あの右の曲がり角の先は公園だから。
待ってという言葉を飲み込み、公園の方を見る。
小さくも、大きくもない公園だけど、木が多くどこか懐かしい感じのする場所だった。
ベンチでいつも君は小説を書いていた。
暖かい優しげな輝きをその曇りのない瞳に宿して。
そういえば。
そんな君とそこで初めて出会ったのもこんな日だったなあ
そう、こんな初夏の季節に。
そんなことをふっと思い出しながら信号を待つ。

 

しばらくして。
信号は観念したように緑の光を放った。
ぼうっとしていた僕はあわててペダルを漕ぐ
こぎ始めた自転車は僕にとって心地よいリズムで動いているような気がした。
ズボンの裾の横を湿った風が通り過ぎてゆく。
少しスピードを上げるが、どうしても追いつかない。


2.

 

急に涼しい風が服をくすぐった。
どうやら木陰に入ったらしい。
緑の葉を茂らせた木々が嬉しそうに葉を揺らすように見えた。
久しぶり、久しぶりと小鳥たちが歌うようにも。
まっすぐな並木道を軽快に自転車を走らせながら何気なく口ずさむスタッカート気味の明るい曲。


口ずさんでいた僕ははっと思い出した。
この曲は、部活の仲間と試行錯誤を繰り返しながら作った曲だった。
笑いあい、叱られながら過ごした去年の夏に。

 

作曲部のことを思い出すと悔しさのようなものが浮かんだ。

 

あの頃永遠に続くと信じていた日々は、悲しげな音色を立てて突然崩壊した。
あの日のことはよく覚えている。
新学期に突如部室の扉に貼り出されたのは、立ち入り禁止の紙。
それは母さんから聞いた作曲部の部員不足の話を聞いていた僕には、すぐ理解できた。

 

その日の午後。
誰にももやもやをぶつけられず、意気消沈しながら余儀なく帰宅部となった僕は、ギターを持ちながら向かった公園で毎日ギターを奏で続けた。
どんな風に弾いたかはもう忘れたけれど、とにかく悔しさをぶつけるためむちゃくちゃに弾いたんだと思う。


いつごろだったのだろうか。
覚えているのはいつもより色鮮やかな夕焼けが広がっていたということくらい。
なんだか少し心安らいでギターを弾いた。
最後の一音を奏で終わった時、上から拍手が聞こえた。
見上げると片手にパソコンを持った少女が微笑んでいたんだ。
たぶんいつもこの公園のベンチに座って小説を書いていた子だ。
彼女は、照れくさそうに顔を俯けた。


「上手だね。
…また聞きたいな。貴方の音。」


それが君との出会いだった。
僕は、こくりと咳き込みながらもうなずいた。

 

夏が終わり、秋が来た頃。
僕は出来た新曲を一番最初に君に聞かせるようになった。
君は誰にも見せたことのないという書き溜めていた物語を僕に読ませてくれた。
それらの悪いところを一緒に考えるのも楽しみになっていた。


枯れ木の目立つ公園では、ココアで手の平を暖めながら君はポツリと呟いた。
「私ね、学校に行くのがつらかったの。みんなとは違う考えを持っているからって虐げられていた。
虐げられる日々に立ち向かえる勇気がもうない」
聞いていた僕は、優しい笑みを浮かべて俯いている君を見つめた。
「でも…。君の考えはちっとも可笑しくないよ。
君の小説から伝わって来る思いは変じゃない。
それに君の心は強靭な鳥のようだよ。
絶対に折れることなんてない」
僕は爽やかな元気付くような曲を奏でた。
君は驚いたような表情を浮かべありがとと笑ってくれた。

夏の終わり頃の風邪はまだ、治らない。

 

あれは、冬の終わりだっただろうか。
君は決意を秘めた瞳で、ゆっくり、静かに僕にささやいたんだ。
「決めた。私ね、私が…私にしか出来ない事をする。
そして、私と同じ目に合う人がいなくなるようにしたいんだ。」
戸惑いながらも僕は誰にも聞こえない声で呟いた。
「僕に出来る事って…何?」

 

春風が桜を散らしてゆく
君は僕のギターを元に物語を書きたいと照れながら伝えてくれた。
「本当?」と驚いて聞き返した僕に君は書いていいならと言った。
「是非書いて」と喜びを隠し切れない声で僕は頷いた。
「頑張る」と君は無邪気な笑みを見せた。
「じゃあ夏の初めには出来ると思うから、読んでみて」
その笑みが僕の心に深く焼きついた。
「楽しみにしてるよ」
微笑を浮かべながら僕はギターの弦をひとつ振るわせた。
「じゃあまた明日」
「そうだね。じゃあまた」
手を振りかえしながら僕は家路をたどった。

ああ、ちょっと体がだるいなぁ、そう思いながら。

 

 

だけど。


その日から君は公園に来なくなった。
だけど、一月待っても二月待っても…
君はここに来なかった。
どうしたのと聞きたかった。
だけど、所詮僕は何にも関係ない赤の他人だ。
弱虫の僕にそんな勇気はない。
夏の木の葉が哀れむように土に舞い降りた。

 

3.

 

回想にふけっていた僕は、行き過ぎそうになったベンチの脇に自転車をゆっくりと止めた。
そしていつものどおり、ベンチに溜息をつきながら座る。
どうやら途中で追い抜いたらしい。
数分たった頃だっただろうか。
不意に隣で気配がした。
栗色のやわらかいウェーブのかかった髪が隣に落ちる。
君だ。
悪戯っぽい笑みを浮かべて僕は君に語りかける。


「小説は出来たの?」


君は答えずにベンチに何かを置いた。

隣に置かれたのは花束と短編の小説だった。


タイトルは「紅葉はなび」。

 

君は泣いていた。
初めて見る君の泣き顔だった。
誰のためにナイテルノ?
何のためのハナタバ?
大粒の真珠のような涙がベンチを転がる
そして、一言だけ呟いた。

 

「ごめんね。」

と。
「来れなくてごめんね」と君はもう一度言った。


「いいの。いいの。」と僕が手を振って、言葉を続けようとした君をさえぎろうとした。
だけど、君にはそれが見えていないらしい。
しゃっくりしながらも言葉を続ける君。

 

「だけど…だけどっ…何で死んじゃったのよっ」

 

耳を疑った。
死んだって…僕が?
「冗談はやめてよ」と笑い飛ばそうとした僕は、ふと君に伸ばした手に目が行った。

 

僕の手は、透けていた。

かすかだが、白くほっそりとした自分の手の下に石畳が見えた。
それは手だけではなく、足も。髪も。
なんで僕の身体は透けてるの?
自分で自分に問う。
考えられることは一つだった。

 

――僕は本当に死んでしまった。

 

ここにいるのはただの実体のない、弱虫の紅葉(もみじ)なのだと。

そして…そして…

 

もう君と話をして笑いあうことはないということ。

 

知らずに僕の目からも涙が一筋頬を伝っていった。
それは、自らの手を通り抜け、石畳へと落ちる。
君の言葉は続く。


「紅葉が重い重い病気だってことこの間初めて知ったよ。
なんで、教えてくれなかったの?」


「君を心配させたくなかったから…」と聞こえないのを知りながらも君の問いに答えた。


「ねえ、紅葉。もう一回会いたいよ。」


君が泣きじゃくりながら僕に呼びかける。
隣に僕はいるのに…僕の声は届かない。


「紅葉に伝えたいこと、たくさんあるんだ。」


蒼い空に君は話し掛ける。


「学校で虐められていた時に私は紅葉に出会った。
その頃、いつも物語を書いている私は誰からも白い目を向けられた。
気がつけば私は一人になっていて話をする人なんて誰もいなかった。
紅葉に出会った日はよく覚えているよ。
いつものように一人で帰り道を辿っている時、少し乱暴なギターの音が聞こえてきたんだ。
紅葉が奏でる音だった。
だけど、その音楽には人を魅せる力みたいのがあったのかな。
気がつけば手元の鞄からノートパソコンを取り出して、ベンチに座って小説の続きを書き始めていたんだ。
夕方に帰ったから、母さんにはこっぴどく怒られたけどね。
いつのまにかそれが日課になっていたよ。

ある日、公園から初夏の風に乗って聞こえてきた音はとっても優しげな紅葉の音楽だった。
それは、なんだか傷ついた心を癒すような音だった。
紅葉が最後の一音を奏で終わった時思わず拍手しちゃった。
紅葉が少し目を見開いて私の方を見上げたから、率直な感想と気持ちを伝えたよ。
紅葉がこくっと頷いて、少しだけ一緒に話し合ったんだっけ。
その日からかな。私の心の傷が癒えてきたのは。笑うようになったのは。
秋ぐらいには私は紅葉に心を開いていたと思う。
今まで誰にも見せた事のない物語達を君に読んでもらいたかった。
虐げられる日々に立ち向かえるだけの勇気も君の音からもらった。
冬の日にぽろりとこぼれ出た弱音。
枯れかけた樹のような折れる寸前の心に、君の言葉と音は雫みたいだった。」


ここまでゆっくり僕に語りかけてきた君は涙を拭いて、空を仰いだ。

 

僕の音楽や僕自身が君に力を与えていたなんて知らなかった。
僕も君の言葉や君の笑顔、そして君自身から力をもらっていたよ。


「春の日に言ってた君の物語は出来上がったよ。
下手だけど読んでみてね。」


少し微笑んだ君は、ベンチに置いた物語のページをめくった。


「紅葉が死んじゃったって聞いた時、二日間ぐらい外に出なかった。
嘘だと思ったよ。
昨日まではあんなに小説のことで目を輝かせていたのに。
だけど、それが事実だって気づいた瞬間、とどめなく目から涙が溢れていたんだ。
もう君と笑いあったりできないってことだから。
でも、なんだかこの様子を見てたら紅葉が悲しみそうだから外に出てみた。
その翌日からは学校には行くようになったけど公園には行けなかった。
紅葉との思い出が思い出しちゃいそうで。
そしてこのベンチに座るのに泣きそうになっちゃった。
でも、私は紅葉の前では笑顔であり続けたかった。
たとえ紅葉の心に残らなくても。
でも本当に来て良かった。
紅葉に私の思い、全部言えた気がする。
ううん。ひとつだけ残ってた。
紅葉…本当にありがと。
紅葉に出会えて良かった。
今更だけど…今頃気づいたんだけど…。紅葉のこと好きだった」


驚いて立ちすくんでいる僕を爽やかな風が取り巻いた。


それは、もう僕がここにいる事の出来る時間が少ないということ。
最後まで君の前で僕は笑う事が出来たかな。
そう。たとえ、それが君の瞳に映っていなくても。

お別れだ。
さよなら。柚子。君の思い聞けて良かった。
そして


「君に出会えて良かった。」


僕も君に言いたいことたくさんあるけど、時間がない。
でも、全部絶対に君に伝えるよ。いつか、必ず。

 

君は進んでゆく。前へ前へ

 

ふわっと誰かの手のひらに乗っている感覚を覚えながら、僕は空の階段を昇っていった。
残されたは、涙目のまま驚いた顔をしている少女ただひとりだった。

 

*     *    *

 

吹き荒ぶ風と霧の中。
少年は答えを見つけた。


「この音で柚子のような人々の心のほつれを繕うことができるのならば」


一旦ここで区切った少年はふたたび言葉を紡ぎ始めた。


「僕はそうしたい。
一人でも多くの人をこの音で救ってみせる。」


少年は強い意志の灯った瞳で見えない青い空を見つめた。
そして誰にも聞こえない声で呟いた。


「これが弱虫で身体の弱かった僕がたった一つ出来る事なんだ」


霧が晴れた時、少年はそこにはいなかった。

 




―終章―          Citrus

 

あれからもう二月は過ぎただろうか。
今。紅葉はどうしているだろう。
紅葉した木々を見つめながら私は、あのベンチに座っていた。
そっと暖かなココア二本の内一本のココアを隣に置く。
どうせ、空で自分のギターを思いっきり奏でているのだろう。
その様子が目に浮かび、少し微笑む。


そういえば君に小説を届けた時、君の言葉を聞いた気がしたよ。
「君に出会えて良かった」って言う声が。
まだ、君を失った悲しみは心に深い傷を残しているけど、少しずつ立ち直れるようになった。
不思議なものだね。私の学校環境は快方に向かっているよ。
そして私は隣にいるはずの紅葉に向かって笑いかけた。
今はなき、大切な大切な友達に。
小さな、紅に染まった紅葉が花火のように一斉に舞い散った。
悪戯心でその紅葉の葉を拾ってみた。
私はそれを見て驚いた。

それには文字が書かれていた。
まるで、手紙のように。

 

葉には「柚子へ
本当にありがとう。そしてごめん。
君のことが好きだった。
 紅葉より」と書かれていた。

 

耐え切れなくなった雫が頬を伝う。
紛れもなく紅葉が私にあてた手紙だった。
短い文だったけど、紅葉の伝え切れなかった想いが詰まっていた。

「ありがと。紅葉。」

そうつぶやいた私は、その紅葉の手紙をそっと、本の間に挟んだ。
その思い出が決して消えないように。優しく。
一つ紅葉の奏でるギターが聞こえた気がした。

 

「もっと君の隣にいたかった。
けどね。私は気づいたの。それは、もう叶わないって。
だから、いつか君と逢うために私はここから歩みだすね。」

 

黄色く色づいた樹を見上げ、私は静かにベンチから雑踏の中へと歩みだした。

 

雑踏の中でギターを持つ漆黒の髪の少年が、ふっと微笑み人混みに消えた。
それは儚いようで、とても強い意志を持つ微笑みだった。
かき鳴らされたギターの高い音が余韻を残しながらもふつりと途切れた。

 

 

(溢れ出す思いを君へ)
(たとえそこに僕がいなくても)

 

 

 

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