#4. 回遊魚色褪せたさかなの話をしよう、語り手は此処に一人)

意味:広大な海域を泳ぎ回って暮らしている魚のこと。種類によって行動半径や回遊パターンにある一定の法則がある。


(一)

昔話をしよう。それはまだ、彼女が今よりも幼く少年のことをよく知らなかった頃。彼女にとって少年は、水族館に囚われた哀れなひとではなく、水族館に居座る不思議な同年代であった頃の話だ。

彼女は、少年と出会った当時から変わらず空想好きな女学生で、ランドセルを手放し中学生と呼ばれる立ち位置について間もなくでも、彼女は非現実じみた物語を深く深く愛していた。あの日、春めいた風と共に、制服とやら言う新しい服装に身を包んだ彼女は、深窓の令嬢のようで、ただ少年は珍しいな、と息を飲んだのだった。


静かに、静かに、ひとりきりの水族館の奥底でも時は流れてゆく。泡沫と共に遊泳する、深海魚の隣でまどろみ続ける少年は、温度のない手のひらで、水槽のガラスに触れた。あつくもさむくもない、丁度いいと感じてしまう知覚に眉をひそめる。

どこまでも、少年は哀れな深海魚によく似ていた。


実のところ、少年は彼女に会うまで空っぽなままだった。長く長く時を生きてきたからか本や楽譜といった知識こそは、膨張しそうなほどにまで詰められているのに、少年の中にあるのは、ただそれだけだった。街のだれもが、少年のことを知らない振りをした。誰も、少年にものを与えたり教えたりはしなかった。

何故ならば、たる少年に、中身は必要なかったのだから。

偶像は、時間による変化も、精神的な変化も求められないし、そもそもそういった変化に囚われることがないのだ。信仰されるべき神様は、いつしか水族館の奥底に囚われる身になってしまった。


成り行き上、少年の元に顔を出すことになった彼女は、うつくしい夕焼け色の双眸をしていた。少年にとって、その印象がすべてだった。ただ、そう思えるこころを得た時点で、既に少年は偶像としては失格だったのだ。その日から、少年の世界は一変していた。

生まれてこの方日の目を見たことない少年だったが、本当に外の世界に夕焼けというものがあるならきっと、彼女の双眸のような色を湛えているのだろう。こころを得た少年はそう考えて止まないのだ。


(二)

彼女の名前は、垂水渚と言った。はにかんで自分の名前を告げた少女は、何もいらないはずの少年に満足という感覚を教えたのだった。


彼女は、すでに少年が知っている知識にすら、新しい知識を付け加えていた。もう既に少年は、海の色が青ではないことを知っているし、春になれば街特産の甘く熟れたすももが市場に出回ることを知っていた。そのすももの味もまた、渚という名前の少女が手土産にぶら下げてきたために、歯に絡みつくような甘さで、少年自身の好みには一致しないことも知っていた。

彼女が期せずして、少年にもたらしてゆく世界は色鮮やかで温度を持っていた。ひとつひとつ、新しく物事を知ってゆく度に広がりゆく世界が、少年は愛しくて堪らなかった。少年は既に、春の街の匂いを知っているし、熟れた果実の甘ったるさも知っていた。人肌の温かさも、触れたものを手放したくないという感情の真意だって。


―ただ人肌は、魚にとっては火傷をしてしまうほどに熱かった。


変わってゆける彼女と、もう一生変わることのない少年自身とは、互いに干渉しあう必要はなかった。そもそも彼女には、先を引っ張って行けるような友人も、未来もあるはずなのだ。

少年に残されたのは守るべき閉塞的な水族館と深海魚だけだった。大人になってゆく彼女は、少年にとって酷く眩しかった。

其処に、変わることのない自分の存在は必要ない。

だからこそ、少年は少女へと惜別を告げようと決めたのだった。「さようなら」の重さを理解した上で、少年は明日こそ、笑って。

 

 


海神と微睡むは、真昼の水槽

(変わりたくはない、変わってゆきたいと請う真昼の少女達を)

(寂しげな海神は、硝子越しの水槽から見つめていた)T