(九)ラプソディーは眠らない・後半

ラプソディー…叙事的、英雄的、民族的な色合いを持つ、自由な器楽曲。狂詩曲。



 目を瞑る。網膜がひかりを捉えられないほど、深く、深く。回想。どこか遠くで少年が声を張り上げている、ピアノの音を引き連れながら。泣きそうな嗚咽を嚥下しながら、蓮はクジラを探している。足を引っ張られる感覚。疲れきってゆく身体の自重はかさみ、蓮はたゆたい方ですら忘れてしまった。浮かぶ術を失くした蓮は、深海へと沈殿してゆく。

 途端、海流がまきあがる。透明な膜でつくられた境界線を曖昧に揺らしながら。大きな影はゆらめき、静止したままだったこの海に流れを連れてきた。大きいと形容しきれない程に、それは怪物じみた大きさだった。勿論、蓮の両手では表現しきれない程には。

 その影の胸びれが意思を持って動くたびに、つられた水の動きが蓮の体をさらう。同時に、引き連れていたはずのピアノの音もまた海流お向こう側にさらわれていった。あれ程に重くてたまらなかった蓮の自重でさえ、それはいとも簡単に重力から引きはがしてくれた。


「くじら」

 連は、その影を形容する名詞を呼んだ。いつものように、言葉が返ってくると信じて。クジラは答えない、蓮の言葉とクジラの音波の周波数は異なるからだ。もしかすると、このクジラにとって、蓮の発する言葉は高すぎて聞き取れないのかもしれない。それでも蓮は呼びかけ続ける。「くじら」、「くじら」。孤独に満ちたクジラの目と目があった。絶望的と表現できるような、孤独の色。このクジラのことを、蓮は確かに理解していたのだ。理解しているということを、このクジラに伝えることができないだけで。

 海水にさらわれ散らばったピアノの鍵盤を叩こうと試みる。脳裏をすぐる、エチュード「黒鍵」。ただ、半音ひとつ分の上がったラの音を奏でればいいのだ。けれども、正しい音を弾くことのできなかったという恐れが、蓮の身体を縛ってゆく。もっと、正確に。ただしい位置で。震える薬指が、ピアノの白鍵を叩いた。この音は、きっとクジラには聞き取ることができない。


(嗚呼、)

 回遊するクジラが、ゆるやかに、しかし確実に蓮の元を泳ぎ去ろうとしていた。大きな図体を揺らしながら、深海の底へと。ひきとめようと、声を掛けようと、エーテルを吐き出した。代わりに侵入しだした海水が、蓮の声を邪魔する。待って欲しい、ただ別れの言葉をだけなのに。散らばった黒鍵を叩きつけるように弾いた。汚れた黒鍵の音は、響くことはない。ただバラバラにと崩落して、波間にかすれて消えてゆく。

 足掻く蓮を一番最後に掬い上げたのは、海流でも家族でもなく、錆がかった奇妙な声だった。醜い声だ、と蓮は思う。醜くて、それでもどこかうつくしさが名残る、奇妙な声。この声が、孤独なクジラの声と結びつくまで時間はいらなかった。深みを帯びた音は、蓮の聴覚を持ってさえも聞き取ることが難しい。けれども、蓮は精一杯聞き取ろうと努力をする。きっと、これが。これが、52ヘルツのクジラと邂逅することのできる最後の時間だと識っていたから。たとえ、この今までの出来事がすべて、熱に浮かされた蓮の絵空事だとしても。それでも、蓮はこの夢のひとつひとつ、そのすべてが好きだったのだ。


 クジラの、低く繊細な声が空間を緩やかに満たしていった。もう、手は届かない。けれども、互いのひかる眼だけは見据えることができる距離。そんな不可思議な距離感を保ったまま、蓮とクジラは海にたゆたいつづけていた。空と海の境界線は曖昧に揺れ続けている。

 すべすべとした流線型のかたちのクジラは、まるで蓮に何かを言おうとするかのように、大きな口を開いた。そこに、歯がないことから、蓮はこの孤独なクジラについてまたひとつ希少な情報を得る。クジラを真正面に見据えることができた今になってようやく、それはあまりに遅すぎたのかもしれない。けれども、孤独なクジラについて、ほんの少しでも知ることができた。連にとってそれはなぜかとてもうれしく思えたのだ。

 クジラは言葉を紡ぐ。奇妙な錆がかった声で、誰かとコミュニケーションをとることのできる日を夢見て磨いた技術を駆使して。


『それじゃあまたね。いつか君がその音を愛せるようになったら、』


「蓮?」

 肩を揺さぶる昔馴染みの声に、蓮は回想から引き剥がされた。身体を包む温度は、氷のごときつめたさから氷解してゆく。ゆっくり、ゆっくりと。薄い皮膚を包む温度は、夏のいろへと戻ってゆく。指先に感覚が返還されて、熱を掴んだ。

 心配そうな凛の声に、「大丈夫」と一言だけ返した。声が震えていたことは、誰よりもいちばん、自分が理解していた。

「ねえ、蓮。蓮はどうして、ないているの?」

 その一言に、はじかれたように蓮は自分の頬に手を這わせる。あたたかい、それは陸にいきるものだけが持つ体温。血の通った頬に、いきものが持つにはつめたすぎる水滴の温度を知覚した。海と同じ、水の温度だ。ああ、今自分はないている。啼いているのだ。

「思い出した、そうだ。俺が、あのクジラをここへと呼んだんだ」

 蓮は震える声のまま、言葉を紡ぐ。沸き立つような歓喜と共に、後悔が身を貫いた。あのクジラを、夢の中だけでも孤独ではないままにしていたのは、蓮だ。蓮のピアノの音だ。それを、嬉しく思う反面、あの孤独な、けれども自由なクジラに縛りを与えてしまったのが自分であるという事実が、蓮を刺し貫いた。


 脳内で、錆がかった奇妙な声が繰り返される。『それじゃあ、またね』と。蓮が、他でもない蓮自身が、あの孤独なクジラに約束をとりつけて、この小さな場所に呼んでしまった。手に取れるような、重さのある実証なんてものはない。けれども、蓮の心臓が、感覚が、張り裂けるくらいに、それが事実なのだと訴えている。

「三年前のコンクールの日に、俺はあのクジラと約束をした。俺が俺の音をーピアノを心から愛せるようになったら、あのクジラに曲を一曲弾いてやるって」

 体験をしていなければ、信じることは難しい話だろう。特に、空想物を信じない凛にとっては。けれども、視線の先の凛は、困惑した様子を見せてこそ、蓮の姿を笑わなかった。眉を少しばかり理解しがたげに寄せて、言おうか言いまいか迷うような素振りを見せながら。数巡、凛は躊躇いがちに首を振った。


「けれども、52ヘルツのクジラは死んでしまった。蓮は、もうその約束を果たすことができない」

 そうだ、数週間前に52ヘルツのクジラはー世界一孤独なクジラは、この小さな街の浜辺で死んでしまった。数週間前、登校するそのときに、坂の下、浜辺に打ち上げられたクジラの遺体をこの目で見たのだから。仰向けに転がったそれからは、生のにおいを感じなかった。傷の増えた大きな図体に、あのクジラの深い碧の眼は、孤独を孕んだ二つ目は隠れてしまっていた。


 深淵を覗き込んだみたいな孤独な色を孕んだ、月城の柘榴色の二つ目。それは、どこまでも深く、透明で、底の見えない――。不意に、転校生の昏い眼を思い出した。自分は、あの転校生を「くじら」と呼んでいた。その理由は? あの転校生が、世界一孤独なクジラと良く似た眼をしていたからだ。

 散らばっていた事実が、つなぎ合わさって、線のかたちをつくった。有り得ない様な話だ。けれども、この街にはそんな有り得ない話が、噂話という体で、溢れている。そのひとつひとつに比べたら、クジラが転校生になったなんて、三文小説の一部みたいな話も、取るに足らないもののように思えてしまう。だからきっと、これはほんとうなのだ。

「52ヘルツのクジラが死んでも、クジラはその身体を失っただけだ。だから大丈夫、俺はあのクジラとの約束を果たすことはできる」

 宛てのない確信に揺さぶられながら、蓮は長く、細く息を吐いた。52ヘルツのクジラがもしも、本当に。その可能性があるならば、約束はまだ果たせるかもしれない。けれども、凛はかぶり振る。反論しようと口を開こうとして、下方から覗き込むような、意思がきらめく凛のくろぐろとした双眸に気圧された。


「もしもそうだとしても、今の蓮には無理だよ。だって、蓮はまだ、自分のピアノの音を自分自身で認められていないから。蓮はあの日以来、ピアノから逃げ出しちゃった。だから、もうピアノを愛する術すら失っちゃったんだよ。それでも、約束を果たす気なの?」

 凛の言葉に、返す言葉を失った。反論の言葉は、喉を下る。そうだ、確かに自分は、あのエチュードの失敗を引き摺っている。ピアノを前にしても、あのコンクールのとき被ることになった、漠然とした不安が蓮を苛ます。未だ自分は、自分のピアノを愛しきれていない。


 錆がかった、奇妙な歌声が、蓮の耳を掠めた。


 聞こえるはずがない遠くの声。どこかでー恐らく海辺で、歌が歌われている。この歌い手は信じている。だれかが、自分の歌声を理解してくれると。その声に、蓮は跳ねるように顔をあげた。蓮はまだ、自分の音を愛せていない。けれども、孤独を孕んだ柘榴色の双眸を、再び見過ごすことはできなかった。もうそこまで、あのクジラに情をかけてしまっていた。

 クジラがー「くじら」が呼んでいる。自分の周波数を聞き取ってくれる人を、自分の歌声に理解を示してくれる人を。そこまで思考が飛んだ時には既に、衝動が蓮を突き動かしていた。

「あいつが、呼んでいる」

零れた言葉の端を、はたして凛は聞き取ったのだろうか。それを確認する前に、蓮は、駄菓子屋から飛び出してしまっていた。夏の暮れには、日が沈む速度が加速している。すっかり宵闇に沈んだ暗がりの左右を、蓮は迷うように見渡した。


「蓮」

 駄菓子屋の茫洋とした明かりの中で、凛が名前を呼んでいる。繰り返し、繰り返し。反射的に、振り返った蓮に、少しだけ寂しそうな凛の言葉が滑り込んだ。

「たとえ、蓮がまだピアノを愛せなかったとしても、どこかのタイミングで蓮はピアノを愛したことがあったはずなの。きっと今まで蓮がピアノを弾き続けたのは、人の期待だけじゃないはずだから。蓮が、意外と脆い人間だっていうこと、期待だけじゃ嫌いなピアノをやっていけるはずのない人間だってことを、知っているから。ねえ、蓮。思い出して。完璧じゃなくても、弾ききれなくても、楽しかったときのことを。あのエチュードに懸命に取り組んだ蓮に、感銘を受けたひとが一人でもいたことを知ってほしい」

 小さな告白を、果たして蓮は聞き遂げてくれたのだろうか。あたたかいにおいのする駄菓子屋の内側で、遠くなる少年の背中を、凛は眼を細めながら見送るのだった。



10.くじら座[Ceteus]にアリアは捧げられない