(4) エチュードは交錯しない

エチュード…練習曲のこと。主に楽器の練習のために使われる曲を指す。今回とりあげる「黒鍵」はショパン作の変ト長調の曲である。



 アルビノの青年の転校生の噂は、その日学校内のトップニュースに駆け上がった。世界唯一のクジラが死んでしまったということよりも、とても身近な転校生の話に、クラスメイトたちは飛びついた。転校生がこの小さな、街にやってくるというだけでも珍しいことなのだ。ましてや、アルビノなどというオプション付きの転校生。一体どこに話題性がないなどといえるだろうか。蓮の予想とは裏腹に、アルビノの転校生の周りには人が押しつけへしあいに寄ってくる。けれども、正しく友人関係を築きたがっているものは、きっとこの中のほんのひと握りしかいない。その多くは、アルビノという人種に対するいびつな形の興味心から彼に話しかけているに過ぎない。

 噂というのは、ときに何処のどういった手段よりも速く、そして正確に情報を手に入れることができる。現に、蓮の耳元には既に、彼のアルビノ性が先天的なものであること、そしてアルビノの青年の名前が月城 湊というらしいという情報が入っていた。教室の真ん中を陣取っている女子グループが、興奮したように話しだす。「月城くんって、容姿端麗だよねえ」「女子よりも足が細いんじゃない?」鳥のさえずりみたいな声から耳を塞ぎたくて、愛用しているヘッドホンで、世界と自分を切り離した。

 

 遠くで、ラの音が四分音符と八分休符の狭間で繰り返されている。カスタネットを叩くことで、リズムを手に入れようと懸命にもがいていた、あの頃。半べそをかきながら、幼い蓮はラの音を必死に追いかけた。ここは、半音高くて、ここで休符。ここは半音低くなるから、黒鍵を弾かねばならない。けれども幼い蓮にとって、グランドピアノはあまりにも大きすぎた。必死に指と指の間を広げようとも、未発達な自分の身体がそれを邪魔する。一オクターブ分の音階は、ちいさな子供にとっては大きな障害なのだ。けれども、幼い連は齧り付くように、目の前の楽譜とおりに指をなぞった。期待から答えられるように、失敗をしないように。

  幼い蓮にとって得意なものといえばピアノくらいしかなくて、だからこそ蓮はそれを一生懸命に練習していた。発表会で、難易度の高い曲を失敗せずに弾く度に、家族も親友も満面の笑みで褒めてくれたからだ。蓮は凄いねえ、偉いねえ。頭を撫でるその感覚が心地よくて、何よりも恋しくて蓮はピアノを叩き続けた。蓮が失敗する度に、家族の視線はつめたく、透明度を増してゆくように思えた。あの視線がいつの日にか零度を下回ったとき、自分はきっと必要とされなくなる。そんな強迫観念が重く身体を縛り続けていた。

  絶対音感も手に入れた、家族がそれを求めたから。雨の音も、葉ずれの音も全部全部音階で聞こえてしまったけれども、そんなのは痛くも痒くもなかった。失敗しないように、家族がそれを求めるから。けれども、そんなこころのまま、ピアノを弾き続けたところで、能力は向上しない。当たり前だ。強迫観念に駆られながら弾いたピアノの音は濁っているに決まっているし、弾き方だって粗雑になるだろう。だから、あの失敗は当然だったのだ。

 

 三年前の市のコンクールだった。勝てば、一気にプロまでかけ上がれるかも知れないチャンスがあったし、年齢制限のあるこのコンクールのなかで、蓮は一番の年上だった。蓮は度々コンクールに出場していて、一番の優勝候補だった。失敗さえしなければ、蓮プロのピアニストになっていたのだ。そう、失敗さえなければ。

 そのコンクールで披露したピアノ曲の曲名を、蓮はよく覚えている。エチュード第三番の「黒鍵」。蓮の嫌いな黒鍵ばかりと戯れるこの曲が、このコンクールの課題曲だった。昔馴染みも家族も、会場に集っていた。その頃の連は、もう黒鍵に対してめいいっぱい手を広げなくても済んだし、がむしゃらに楽譜通りに弾くだけではなく、退屈な人生を歩んだショパンの心情に合わせることも難なくこなせた。けれども、半音ひとつ分上がるラの音が、鼓膜を震わせたとき、蓮のこころは黒鍵を引けなかったあの頃に囚われてしまった。

 あの頃は、ただただ家族や友人たちに認められたくて、連は気が触れたかのようにピアノと戯れていた。けれども今はどうだろう。もしも、蓮のピアノの旋律が、世のひとびとや音楽評論家たちに認められたとして。それを手に入れることで、蓮にとって何のメリットがあるだろうか。お金だろうか、名声だろうか。けれども、連にとってお金も名声も、ひとの体温よりは恋しく思えなくなっていた。

  楽譜にはない白鍵の音が、静まり返った会場に浮かび上がった。ホールに反響して、染み付いてしまった場違いなシの音。ざわついた審査員たちの声を聞いたときに、蓮は自身が何をしでかしてしまったのに気づいた。自分は失敗してしまったのだ。この完璧に調和された音楽世界を生き抜くことに。

  気付いた途端に、指の震えが止まらなくなった。失敗してしまった。期待を損なってしまった。震える指を押し込むように、鍵盤へ叩きつけると、殊更に震えた半音がホールを満たした。指の先から、自分の全てが凍りついてゆく。この空間において、自分の音は粗悪品としてしか評価されない。だれも、蓮が渾身の思いで弾ききったエチュード「黒鍵」を、聞いてはくれないのだ。ひかりを内包するはずだった音たちは、床に溢れ出して、誰かの靴底を黒く汚した。


 それ以来、蓮はピアノを弾くことを辞めてしまった。誰かのためにピアノを弾くということは、思ったよりも苦痛で、蓮自身を追い詰めていたようだった。あれほどまでに蓮にーただしく表すならば蓮のピアノの技術に対してー異常な執着を見せていた母も父も、コンクールを境に口出しをすることを辞めてしまった。ひどい話だ、と蓮は思う。ここまで蓮を連れてきたのは、紛れなく家族たちだ。けれども期待を満たさなくなったと知った瞬間に、蓮を自由に放置し始めた。歩き方も、泳ぎ方も、蓮は知らないというのに。


  遠くで、ラの音が四分音符と八分休符の狭間で繰り返されている。

 あの日、弾くことの叶わなかったただしい音。あのコンクールで、成功していた自分は一体どうなっていたのだろうか。葛藤を胸にしたまま、悶々としたこころつきのまま、ピアニストの道を歩んでいたのだろうか。


 浮かれ気味のクラスの一角。ありもしない並行世界に思いを馳せながら、蓮はただしいエチュード「黒鍵」に耳を澄ませた。


 

5.カンタータは歌われない・前半