(七)オプリガートはやまない

オプリガート…メインパートを引き立てるために演奏される曲のこと。助奏。



 昔はピアノを、今は竹刀を。もしも今、好きなものを上げるように言われたならば蓮は迷わず剣道と答えるだろう。けれども、蓮にはもうひとつ、竹刀と同じくらいに好きなものがあった。それを、知っているのは数少ない数人だけで、大体その数人といえば、家族か小学校の友人くらいなものだ。

 蓮の同級生である八雲 凛は、その数人のうちのひとりだった。というのも、家族同士元々仲がよかったのだ。凛の母が蓮のことを、呼び捨てにするくらいには。成長した今でこそ、女子と男子という明確な特徴から、互いに家を行き来することはなくなったが、幼い頃の蓮にとって、凛の家はもうひとつの我が家のようなものだった。子供のうちから遊びまわっていた凛と蓮、知ろうと詮索しなくても互いの好物ぐらいは知ってしまっている。加えて、相手の癖や好物までも伝染してしまった。今現在、蓮が隠し通そうとしている好物の正体は、元々凛の好物だったのだ。凛の家に訪れるたびに、それがテーブルに並ぶものだから、いつの間にかそれは蓮の好物にもなっていた。だからこそ、学校の放課後、この街の辺境の駄菓子屋で、凛と遭遇してしまっても驚くことはなかった。


「あ」

 先に声を上げたのはどちらだったか。きっと同時だったのだろう。見慣れた学校指定のスカートが、指定された分よりすこし短めになるよう折られている。流れるような黒髪は、黄昏に染まる。その姿は間違いなく優等生な彼女のものだった。どうやらカルメ焼きとラムネ餅で迷っているようだ。ふたつの袋を掲げて、真剣そうな顔つきで悩んでいた彼女の肩を叩こうとして、視線がかち合った。 

「やあ。蓮も駄菓子を?」

 気丈そうな目の形と、にやりと上げられた口角。昔はこの頭脳明晰な彼女に、よく泣かされたものだ。その原因のほとんどが、駄菓子の取り合いであったけれども。今はで、角が落ちたようにその鋭利さは鳴りをひそめている。久しぶりに合わせた顔に、新鮮な驚きを知覚しながら、蓮は頷き返した。

「ああ。そうだ、あれは売ってないのか?コリスの……」

「ラムネか?蓮は、まだフエフキラムネのイチゴ味が好きなのか」

 今日買い求めに来た馴染みぶかい駄菓子の名を上げようとする前に、素早く凛は何を買いに来たのかを察したらしい。悩んだ挙句に、カルメ焼きの袋を商品棚に戻した凛は、ラムネ餅に陶酔するような視線を向けつつ、空いた片手で向こうの列の棚を指さした。どうやら、フエフキラムネのある場所を示してくれているようだった。小さくお礼を告げて、向こうの列の棚に向かう。昔馴染みの交流は、本日はこれにておわりだろう。


「そういえば、」

 終わったはずの会話を拾い上げたのは、凛だった。燻製に目を向けている彼女は、ぼやきのように言葉を続けた。

「最近この浜辺に、珍しいクジラの遺体が打ち上がったんだろう?たしか、世界一孤独なクジラ、とかだったか」

 クジラ、という言葉に蓮の心臓は跳ね上がった。途端に、「くじら」の奇妙な歌声が脳裏で再生される。錆がかったような、奇妙なうつくしさを孕んだ歌声。誰にも理解されることのない、孤独な声質。

 「くじら」が転校してきて数週間、あの日から彼は誰に対しても適度な距離感を置くようになっていた。決して仲が悪いわけでもない、けれども互いのプライバシーには不可侵の条約を結んでいるかのような。「くじら」の周りにはひとが多く集まってはいたが、数週間経った今でも、彼の柘榴色の双眸は孤独なまま。脳内で残響する「くじら」の歌声を、蓮は忘れることができないままだった。

 「ああ、」と返した言葉は震えてしまっていたのだろう。流石に昔馴染みには隠しきれなかったようだ。心配そうな視線を棚の向こう側から感じ取る。「大丈夫だ」と小声で返せば、凛はすこし躊躇いながらも、言葉を続けた。


「どうしてあのクジラは、このちいさな辺境の街の浜辺を死に場所に選んだんだろうね」

 喉の奥で息が通る音がした。それは、蓮も確かに疑問に思い続けていたことであったが、今ひとつきちんとした解答を出せてはいなかったのだ。頭脳明晰な凛は、疾うの内に解答を出していたのだろうか。凛は、噂話や迷信、非現実的なものを信じない性格だったし、話題を振ってきた以上、自分なりの解答を持ち合わせているのだろう。昔からそういう人間だったのだ、凛は。

「凛は思いついているんだろう?どうしてあのクジラがここを死に場所に選んだか」

 素直に、問うてみることにする。すると、予想通り。既に自分なりの解答は用意してあったらしい凛は、燻製から目を離さないまま言葉を返した。

「最期に蓮に会いに来たんじゃない?世界一孤独なクジラさんは」

 まさか、凛が冗談を言う日がくるなんて。蓮はどう反応するべきか分からなくなった。つまらない冗談だと笑い飛ばそうとする。けれども、冗談にしては凛の表情は真剣みを帯びすぎていた。


「凛?」

「私は、迷信も伝承も御伽噺も信じない。だからこの町で息づいている、ひとのかたちをとる海神様のことも、同じプログラムをくりかえし上映し続けるプラネタリウムも、ベストセラー作家がこの街で交流したというギター弾きとの奇跡の話だって信じない。けれども、これは確証をもって言える。蓮が、あのクジラを呼んだの」

 寂しがりやな海神様の話も、同じプログラムをくりかえし上映し続けるプラネタリウムも、この海に面した街に伝え聞く有名な噂話だ。この街には、どうしてか不可思議な噂話が多い。凛はいつも、こういった噂話の類を、一笑に付していた。それが一体どういうことだろうか。蓮が孤独なクジラを呼んだ?その根拠は何なのか。問うつもりの言葉は、先に凛に牽制された。


「だって、幼い時。蓮は熱を出すたびに、クジラを呼んでいたから」



8.ラプソディーは眠らない・前半