(3) フーガは追いつけない

フーガ…似た旋律が数拍遅れで順次演奏される曲のこと。遁走曲。


 

 竹刀を握るたびに、自分が自分ではないような感覚に襲われる。例えるならば、竹刀を握り稽古をする自分の他に、また別の自分がそれをみつめているような。うまく表現しきれないが、自分という存在が二つに分たれてゆくように思える。この奇妙な感覚は、自分だけなのかもしれないが、蓮はこの感覚を嫌ってはいなかった。

 長いような、短いような。道場で過ごしているうちに、時間の流れすら曖昧に思えてゆく。意識が戻り、時計を見上げた時には、もう一限が始まるかどうかのギリギリの時間帯だった。

 

 けれども、高校生の一限が始まるにしては、生徒たちは浮つきすぎている。教室に走り込んできた蓮は、まず一番に違和感を覚えた。朝にはありえない、甘ったるい空気の浮つき具合。一限があと数分で始まるかどうかという時間帯であるのに、だれひとりとして席につかないのだ。ひそやかに眉をひそめた蓮に、馴染みのあるクラスメイトが蓮の肩を叩いた。

「よう、相良。きょうも朝から練習か?」

「ああ、まあな。竹刀を振らないと、今日が始まったという気分にはならないからな」

 ひょいと自然に持ち上げてみせた竹刀に、クラスメイトは素直な感嘆の声を上げる。

「まさか、相良が剣道をするなんて。昔はピアノ一筋だったくせに」

 蓮は少しだけ口角を上げた。あんまり、昔の所作については触れられたくない。

「昔は昔。今は今さ。そういえば、今日のニュース見たか?この街でクジラが打ち上げられたらしい。それも大きいやつが」

「ああ、そうとも。珍しい話だが、誰の得にもならない話だよな。漁師だから、魚の扱いに詳しいだろうとかそんな理由で、父さんは早朝から家を出ていったし、全くはた迷惑なクジラだよ」

 クラスメイトは少しだけ唇を尖らせた。正しいことを言っていることを十二分に承知しつつも、蓮は世界一孤独なクジラのために反論のひとつでも投げてやりたくなった。あのクジラの、濃紺に沈んだ深淵までつづく孤独を、蓮は知りつつもすくいとることはできなかったから。


 蓮のくたびれた反論は、音になる前に歯間をすり抜けていった。教室の扉が開き、蓮の反論と同じくらいにくたびれた様子の担任が、教卓の前についたからだ。クラスメイトたちは、蜘蛛の子を散らすかのごとく、すぐに自席につく。けれども、浮かれた気分は、クラスメイトたちのなかに残留し続けいる。一体何があったのだというのだろう。今日あったニュースといえば、52ヘルツのクジラが息を絶ったということ、それくらいのはずなのに。

 その答えは、くたびれた担任教師の口から語られる。ぼさぼさの髪と、底の見えないまあるい牛乳瓶みたいなメガネ。いつもの通りの格好の担任教師は、いつもどおりを装った教室に、いつもどおりではない報告をし始めた。

「今日は、このクラスにやってきた転校生を紹介しようと思う」

 驚きの声が、喉奥からこぼれ落ちようとして、すんでの所で抑えられた。他の生徒たちは、前々から噂か何かで聞いていたようで、驚いた様子はない。なあんだ、仲間はずれなのは自分ひとりか。舌打ちしたくなる気持ちを抑えながら、担任教師の次の言葉に耳を傾ける。


 教師の言葉を要約するとこうらしい。どうやら、その転校生は蓮たちと同年齢の17歳であり、男子高校生なのだと。遠く遠くの海のない街から、はるばる3日をかけて越してきたのだと。親の仕事の関係上、ここに滞在できるのは数ヶ月程度で、この学園にいる時間も必然的に短くなる。だから、短い期間の中であっても、良い思い出を作れるようにクラスメイトでサポートをしていってほしいと。

 最後に、教師はついでとばかりに付け加える。「彼には、ちょっと特殊な性質があるけれども、どうか驚かないで欲しい」と。

 その話題の転校生を目の当たりにするまで、蓮は転校生の特殊な性質に対して、大したものではないのだろうという見当をつけていた。差し当たり、運動が恐ろしくできないとか、勉強が秀でてできるとか。そういったものなのだろうと。


 「入ってきなさい」という担任教師の言葉で、蓮たちの城に顔を出した転校生の、その姿に、思わず蓮は息を飲んだ。夏風に揺れる、希薄な白の髪、血管が透けて見えてしまうほどに色素を失った肌。赤みがさした頬ですら、妙に生々しく思えて、深海魚のようだ、と蓮は不謹慎ながら思う。その身体の全てが透き通っているような。アルビノだ、と悟る前に、脊髄はこのいきものを恐ろしいものだと判断を下していた。ちいさなかんばせは、異形じみたうつくしさをひそませている。鋏の入れられる機会の少ないのだろうか。綿菓子のような色合いの白髪は、ところどころ跳ね上がっており、ひかりを映し込んでいる。カーデガンから飛び出た柳の枝のごとき細い腕は、触れてしまえば折れてしまいそうなほどに脆い。痩せ切ったその身を包むカーデガンは、少しばかりぶかぶかで、彼にはあっていないのではないだろうかと心配になる。現に今、彼のカーデガンの裾はまくられている。


 けれども、その双眸を見たとき、蓮は直感した。


 鮮やかな、しかしながら人間らしさのない柘榴色の二つ目。それは、見た目だけならば宝石とまごうようなうつくしい色をしている。けれどもいきものには、宝石のようなつめたさを連れた透明度を再現することはできない。濃紺と柘榴色では、正反対の色合いだ。けれども、彼の二つ目の深淵の奥に孕まれているのは、52ヘルツのクジラが持ち合わせていた深い悲しみを備えた孤独と瓜二つだった。遠く、虚空だけを見つめるような孤独な色。その色合いに引き込まれたとき、蓮は何故だかこの青年が、宇宙にひとりきりの少年のように思えたのだ。

 ああ、と蓮は息を呑む。あのクジラは、やはりどんな姿であっても孤独な存在なのだと。

 彼はきっと、この日に死に、そして再び孤独な存在として生まれ落ちてしまったのだ。



4.エチュードは交錯しない