曖昧な色合いでごまかした。そんな自分が嫌いだった。
ぶれることのない焦点。それが捕らえたのは僕だった。
赤い、紅い。
もう届かない、なんて知っている。その星の名になぞらえた深淵で。
ふたりぼっちは笑って手を取った。
カーネーションは深淵に沈む。
針が頂点を指した。
淡い紫と濃い藍が混ざった濃灰色の空の下、観客なしの舞台を踊る影法師、ひとつ。
ふわり。鳥のように軽くステップを踏む影法師は今日もまた悲しい道化を演じる。
くるくるくるり。
影法師は笑う。馬鹿だなぁ、と。
澄んだ琥珀の瞳に移る思いは。
彼一人の世界。果てのない深い眠りに落ちた少年。
影法師はひとが嫌いだった。
嘘を吐いて、人を騙すひとが嫌いだった。
だけれどもはたりと自身を振り替えってみるとそんなひとになっていることに気付いて吐きそうになるのだ。
琥珀の瞳に赤い赤い色が宿る。
ああ、私の卑劣さ!
影法師はそう叫ぶ。
ふと、あの少女の真っ直ぐな黒い瞳を思いだした。
彼一人の世界。少年に恋焦がれた少女。少女に恋焦がれた少年。
今夜は星が明るい。
そう嘯いて、影法師は花弁の欠けたカーネーションをもてあそぶ。
手折られた真っ赤な花、一輪。
その花は自分の誕生花だと言う。
彼一人の世界。彼のためのおもちゃばこ。
「おまえの目によく似ている」
そう、あれは確かいつだっただろうか。影法師は思う。
先週だっただろうか。半年前だっただろうか。
ぶれることのない綺麗なブラックオパールに移る自分はたいそう醜い顔で。
「何が?」
ひとつ。笑みを重ねたその顔で影法師は訊ねる。
「この花の色が。」
ひらり。目の前で泳ぐその花は紅い。
けだるげにソファに横たわり、折り目のついた雑誌を広げる。
曖昧に笑いながら「ふうん。」と返した、その後にまたひとつ言葉が返る。
ひらり、まるで金魚の尾びれのように。
「花は嫌いだ。」
ささやき声によくにた、凛とした掠れ声が夜のリビングに響いた。
「光も嫌いだし、太陽も嫌い。ひとも嫌いだし、赤色も嫌い。月も嫌いだし、お前も嫌い。」
彼一人の世界。少女はその扉を開く。
さく、さくという足音が聞こえ、影法師は振り向いた。
嫌悪感をにじませた、しかし怯えているようにも聞こえるそんな声で道化になり損ねた少年は問うた。
「なんでここにいるの?キド。」
ふわり、踊るように段差をくるくるとヒスイ色を纏わせ下ってきたのは、少年がよく知る少女。
夜に沈む舞台で演じる鳥のような少女は少年を見つめた。
「さあ?」
薄く問いかけるその声に苛立つ。
少年にとっての唯一の舞台はこの少女の手によってあっさりと壊されたのだ。
ふたりぼっちの世界。さあ、焦がれた貴方と何を話そう?
「夜は嫌いだし、雨も嫌い。ひとも嫌いだし、赤色も嫌い。星も嫌いだし、君も嫌い」
そう告げる少年は笑う。赤色を湛えながら。
「それでこんな世界を作り出したのか?
お前が望んだのはこの小雨が降ったあとの夜の世界なのか?」
少年は思う。少女が鳥によく似ていると。
蝋と鳥の羽でできた儚い翼で閉じられていたせかいを開いてしまうのではないか?
笑みながら問いかける少女の瞳に浮かぶ悲しみ。
どうせ、君にだって分かりゃしないさ。少年は嘲笑う。
またひとつ、嘘を吐く。
嘘はあぶくになって闇に沈む世界の遥か彼方へと。
「なんだっていいじゃないか!僕が望んだせかい。僕のあるべきせかい。それがここだったというだけの話なんだから!」
少年はひとが嫌いだった。
少年は壊されるのが怖かった。壊しに来た少女に怒っていた。
なによりも。
そんな少女が手元からいなくなるのがひどく恐ろしかった。
ふたりぼっちの世界。既に時間は遅かった。
そっと頬に冷たい感触。くいっと顔を少女の方に向けるようにその細い手は仕向けた。
「目を逸らすな。ほら、それならばなぜそんな赤い色を湛えているんだ?」
さらさらとこぼれ落ちる艶やかな髪を揺らしながら物憂げに問う。
「さあ?」
薄く笑みながら先ほどの言葉をそのまま返した。少年は笑う。嗤う。
その瞳は寂しいと語った。
「ねえ、戻ろうよ。みんなが待っている温かい世界に。」
小刻みに少女の肩が震える。
「今日はカノの誕生日だろ?
セトがカノによく似合うブーツを買ってきたんだ。俺に秘密だよ、って言いながら棚の上に隠していたんだ。
シンタローは美味しいケーキを買ってきたんだ。ほら、カノが好きだって言ったシャルロットだってその中にあったんだ。
マリーとモモは小さなオルゴールを枕元に隠していたぞ。
カノさん、驚くかなぁなんて言いながら。
エネはとびきりのバースデーソングを弾くんだって言って練習してた。
みんなみんな戻ってくるのを待っているんだ。」
赤い瞳が、揺れた。
それでも少年はゆるゆるとふりかぶった。
帰れないよ、と少年は弱々しく呟いた。
僕はもうここの場所に長く居過ぎたんだ、と。
だからさ。
「ひとりで戻って。キド。」
ふたりぼっちのせかい、届かない星になぞらえて。
がたりとひっかいたようなノイズが響いた。
消えるせかいの持ち主は世界とともに消えてゆく定め。
「ごめんね、いままでありがとう。さよなら」
バイバイ、とキャラメルの瞳で手を振る少年。
そんな嘘を吐くな、バカ。少女は一歩少年へと近づく。
「キド…?」
少女は泣き笑いしながらカノの隣に座った。
がたん。水晶のようなきらきらしたものが崩れた。
「イカルスという星があるんだそうだ。」
「ふうん。それが?」
「その星は水星よりも太陽に近づくという性質を持っているんだってさ。
それがその名前の由来なんだって。」
「へえ、それでももう僕らはその星を見ることなんてないんだから。」
「ああ、そういえば星が嫌いだと言っていたな」
「ひどいなぁ、忘れてたの?」
「でもこの場所にはふさわしいんじゃないか?
不用意に夢に近づきすぎたせいで俺らはここで溺れているのだから。」
「あはは、そうだね。」
ふたりぼっちのせかい、彼らはうそぶく。
「凄く眠いね、カノ」
「うん。でもとても温かい。」
「もう覚めることがない眠りだね。」
「うん。
そういえば、俺からの選別だ。
一応受け取ってくれないか?」
「カーネーションの花なんだ。」
「うん、大事にするよ。」
「それじゃあ」
「うん。」
ふたりぼっちのせかい、彼らは手を取った。
…ああ、君のことあんまり嫌いじゃなかったのかもしれないなあ。
(そして彼らは落ちてゆく)
(「いつまでも覚めない夢を見よう」と嘯いて)
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